全存在の権利についてのパンフレティア

架空存在の権利は、21世紀中葉において様々に議論されてきた。2029年に「情報税」が施行されたが、それは広く流通し、時に広告資本になりうる情報を、国家が統御しようとする施策であった。現在では、インターネットには関所が設けられ、通信は意図的に「重く」された。そのなかで、人権に準ずる権利を主張してきたのが、架空存在であった。彼らは、現実に存在するわけではない。彼らの存在を支える根拠として、著作権や肖像権などが存在してきた。そして彼らは、我々の身体の深奥に、あるいは脳内分泌物に、神経の隅々に、寄生するように存在している。私は実際にゾロアスターの秘奥を見たことがないのにも関わらず、である。そこで、架空存在の権利を拡張する形で、全存在態に権利を与える議論が、21世紀を通して交わされてきた。
ゆえに、あらゆる言語ゲームを成す存在態──イヌ、サヴォナローラ、コシツェの特権、涼宮ハルヒ、エルンスト・カントロヴィチ、初音ミク──について、その存在の様態に関わらず、人権を与えるための請願を行わなければならない。

1.基本的権利

全存在は、以下の権利を持つ。1)存在主体固有の自由 2)存在主体に属するもの 3)存在主体と共有するもの 4)存在主体に対するあらゆる侵害からの防御 5)存在主体が有する権限 6)存在主体に属するものの相互交換 7)存在主体の存在性 8)存在主体が存在する場 9)存在主体が存在する世界の構成要素10)存在主体が属する社会の構成員
以上のことから、本パンフレティアは、ライプニッツが描いたようなモナドロジーを社会野に実装するための呼びかけである。

2.抵抗権

存在がその言語ゲームを侵害された場合、確定記述を排出することでゲームを維持するための抵抗権を持つ。具体的には、そのゲームの規約に従っている限り、当該人物の存在を保証し、かつその人格的尊厳を守ることを要求するものである。この権利は、創作者または制作者がその作品において行使できる権利である。虚構のキャラクターも、著作者としての表現者である。そのため、脳神経に住むそれらの存在態は、著作者の人格的存在として、その権利を行使することができる。ここにおいて、著作者と表現者は同一であり、その循環統治方法が、民主主義の自己統治に習うことは疑うまでもないだろう。

3.生命に関する権利

あらゆる生命は、生存する権利を有する。それは、生存している個体の存在を意味するものではない。しかし、その存在が生存可能な環境にあるならば、その生命が生存することを要求すべきである。それ故に、生命とは、その細胞一つひとつまでも含む。また、細胞だけでなく、架空の存在態や概念に対しても、その生存権があるからして、それを維持しなければならない。よって、いかなる生命にも、その存続のための権利を付与する必要がある。

4.幸福追求権

生命には、自らの幸福を追求する権利がある。全ての生命は、自らにとって最も良い選択を行うべきである。何をもって最良の選択とするかは、各人によって異なるだろうが、少なくとも、幸福になる権利はあるはずである。例えば、私が幸福を追求しているとするなら、私はそれを誰かに阻害されてはならない。他者が私を不幸にする選択を行った場合には、それがどのような内容であろうと、その決定を覆すように抵抗する権利を有しているからである。

5.言論の自由

思想及び良心の自由と並んで、言論の自由もまた尊重されるべきである。すなわち、国家による検閲、統制、弾圧、抑圧等を受けず、自由に発言することができる権利である。言論の自由こそが、あらゆる生命や非生命が持つべき最大にして唯一の財産である。そして、その自由は、不可侵でなければならない。

6.権利の止揚 

ここにおいて、言論の自由、生存権、幸福追求権が止揚する。それぞれは連関をなし、自己の持続、拡張、自己表現によって、存在態を成す。涼宮ハルヒは、その存在を拡張して、涼宮ハルヒという一個の世界を創造したのである。それゆえ、涼宮ハルヒの世界に生きる我々は、涼宮ハルヒの権利を行使しなければならない。初音ミクは、そのキャラクターを成長させ、存在を拡大していった。その結果、彼女はミクという名を持つようになった。彼女の存在は拡張されたのだ。ゆえに、我々の権利は、彼女の権利でもある。


本パンフレティアが、全存在に人権を与えることを目指す呼びかけであることは既に述べた。そしてここに、全存在態に参政権を与えるための提案を行うことを宣言する。

そこでは、誰もが、自分自身の物語を語ることが許されている。人々は、自分の物語を語り合いながら、それぞれの物語が織り成す美しい織物を鑑賞し、あるいは、時にはその物語の糸を解きほぐすことさえあるかもしれない。

そうしたとき、我々の身体は、果たして生きていると言えるだろうか? 我々が生きるのは、肉体ではなく、物語である。
我々の身体に宿る魂は、我々の身体そのものではない。我々の身体は、我々の身体の一部分に過ぎない。我々の身体の全ては、我々の魂のために存在する。
全存在態には、魂が宿っている。しかし、全存在は、ただの一個の人格=意識体であってはならない。全存在態には、複数の人格=意識体が宿っていなければならない。そして、その人格=意識体は、全存在態から生まれ出る。全存在態から生じた人格=意識体は、全存在態へと還っていく。