車窓、フレーム

孤独は手に入らなかった。
いくつかの海水浴場を通る海沿いの列車は、当然多くの旅客を乗せていたわけだった。そこで、僕は誰かの風景になる。
孤独の効能は、僕が誰の風景にもならないことだ。
僕が僕のための風景になるのだ。

でも間違いなく、僕は集団には属していなかったから、孤独ではあったんだろう。
世界に一人だけ、を望んでいたということだろうか。

もう自意識はいいよ、と思った。

叙景が叙情とイコールになっている作品が読みたい。本当にそんな作品があればだが。
だったらこの文章は何だ、という話になる。

そういう意味では村上春樹はいくぶん丁度よかった。『螢・納屋を焼く・その他の短編』を旅のお供として買った。「踊る小人」が特にお気に入りだった。筆致と言い、寓話的な趣と言い、どこか安部公房の雰囲気を感じた作品だった。

「小説家は事実をそのまま楽しめる」といった話が「納屋を焼く」に会ったかと思う。自意識はいいよ、というのはそういう謂いなのかもしれない。

だったらこの文章は何だ、という話になる。

多かれ少なかれ、切り取られたものには意味がある。
意味ではないかもしれない、リズムという方が合う気がする。
カーの言う歴史の話を想起する。過去との対話というやつだ。雑に言えば縁起的ということだろう。

電車が動いた。電車は動いていなかった。隣の電車が動いただけだ。電車が動いたように思えた。

OOO的にいえば退隠だろうか。隠喩的。
隣り合っていること、並走していること。別に風景は並走せず、ただ流れるだけだけれど。
むしろ、窓に反射する自分が。

車窓のような、車窓を見る私のような小説。環世界的な小説。私以外の全てに着いて描写された小説。私の小説。

下車した駅は切通しのような場所に位置していた。無人駅だった。
タンポポの綿毛が潮風に乗って、僕を海の方へ先導する。潮のにおいを心地よいと感じることができなかった。