β版思考とブレスト

個人的なマインドブロックとして、「物事を完成版として提示しなければならない」というものがある(特に文章は)。

だけれども、最近のプラットフォーム実装の流行りとして、とりあえずたたき台を提示して漸進的に調節する手法というのは結構ありがちで、そのくらいの感覚で投稿するのもありなんじゃないか、と思いつらつら書く。

「何をもって完成とするか」はまた別問題だけれど、創作全般に対してのフットワークの重さをもうちょっと改善したいとは思っていて、その練習

(以下ブレスト気味に書く)

全てをプロセスで(作用因として?)捉える思考は割と現代的というか資本主義的なんじゃないかと思っていて(⇔千年王国論、マルクス主義)、それは流動的だが、じゃあどこで打ちとめるんですかというのは結構な問題である。

歴史意識とポスト歴史意識もまた可変的で、「歴史なんてもう終わってしまったよ」という意識が強まる時期と(フクヤマ?)、「現在はまだ歴史の地続きにある」という意識が表立つ時期はわりと入れ代わったりする。

10年代はどうだっただろう。個人的には(自分がまだ高校生だったのもあって)前者の思考だったと思う。

当時の現代文の教師がやたら「ポストモダン」を連呼していて(年齢的に、もしかしたらニューアカ世代だったのかもしれない)、その時、歴史が終わったならば生きている意義はもう快楽以外ないじゃないか、と思っていた(目的因の衰退?)。

お、なんか話が戻ってきた。

で、そのあとニーチェを読んだけど全く理解できず、でも目的を失ったからこその逆転した自由みたいな感覚はなるほどとなって…今に至る。

個性教育、というのも今となっては少し滑稽だな…という話はまた今度しなければと思う(近代人権原理的な個性尊重とはまた別の話、つまり法ではなくてアイデンティティの話だ)。

「自分探しの旅」なんて聞いただけでぞわぞわするけれど、最近は聞かなくなった。喜ばしいことだ。

それこそ、自分を目的にしてしまったら、どこにも辿り着く場所なんてないのだから。

疲れたので、書くのをやめる。