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再帰性の中断、あるいはライフストーリーの語りとしての感傷マゾ

はじめに

本文は早稲田アニメーション同好会会誌『WALTZ2021 SP』に寄稿した、感傷マゾについての文章のためしよみです。

虚構エモと感傷マゾの差異として横たわる〈被糾弾〉の必然性について論じ、感傷マゾという行為を「語りの場の立ち上げ」「再帰性の中断」として位置付けたさわりの部分をお届けします。

Ⅰ,3-3.再帰性の中断、あるいはライフストーリーの語りとしての感傷マゾ

 総括に入る前に、今までの議論をざっと見渡しておこう。
 現在あるいはポストモダンは、ギデンズ的に言えばモダニティが徹底された時代なのであった。グローバル化による脱埋め込みと並行して再帰性が徹底され、我々は見つかるはずもない生きる意味を絶えず自己に問いかけながら生きる。
 そんな中〈文化〉は、かつての宗教や国家とまではいかないものの、行動の参考程度にはなるローカルなコードとしての機能を果たしていた。しかし、それは逆に言えば「〈文化〉≒リアリティ」という構造の到来であり、我々は〈文化〉を「たかがフィクション」だと一蹴できないまま、「もしかしたら(理想性)」と「ありえない(不可能性)」の間で引き裂かれている。
 そのダブルバインドが「青春コンプレックス」を生み、「存在しなかった青春への祈り」を、つまり感傷マゾを生み出したのだ。
 
 では感傷マゾ特有の〈被糾弾〉とは何なのか? 結論から言えば、それは再帰性の中断であり、ライフストーリーの語りの場の立ち上げである。
 述べてきた通り、我々は再帰性を生きている。つまり、問いはループバックする。「私はなぜ存在するのか」「どのように生きるべきなのか」…なぜ、なぜ、なぜは絶えず自己に降りかかる。
 〈被糾弾〉は、それを中断してくれる。感傷マゾの行程を思い描こう。それは大部分が自己の内面世界に依存する。ロケーション+糾弾してくれるヒロインをヴァーチャルに立ち上げるとき、そのロケーション選択は自ずと「最も自身の琴線に触れるような光景」が選ばれ(ちなみに筆者は「夜、夏祭り」「林檎飴」である)、ヒロインは「こちらを見透かしたように」我々を糾弾する(自分の脳内なので当たり前ではあるが)。
 さて、ここで注目すべき点は、〈被糾弾〉は同定する作用があるということだ。「自分が一番理解している欠点を他者に語ってもらっている」という状況は、欠点に対する自己認知の強さも相まって、〈被糾弾〉的感傷マゾ行為をしている間だけ一時的に「私=私」を成立させる。ヒロインは容赦なく僕を糾弾する。それに対して僕は、「ああそうだ、僕はそういう人間なんだ…」と自己認知するのだ。
 ヴァーチャルに立ち上げられた他者であるヒロインに糾弾されている間だけ「私=私」の状態が担保された状態が生じる。これにより再帰性は一時的にストップし、「なぜ?」の問いかけにさらされることなく、自己嫌悪と快楽の世界に逃避することができる。そしてそれに気がついた我々は、さらにそれをメタ化して自己嫌悪するのだろう。
 並行して、〈被糾弾〉は「語りなおし」という機能をも担う。つまり、自身の虚ろなる青春を糾弾されることでナラティブに語り直し、そこに意味を付与するということ。これはライフストーリーの手法にも類似する。ライフストーリーとは、簡潔に言えば自己を語ることで自己の人生に意味づけを行うことであるが、それは「ダイアローグ」の形を通して行われる。
 「エアコンで室温が28℃に保たれた自室の床に寝転がって、スマホでtwitterやyoutubeを見ていたら何の思い出も作れずに終わっていた現実の自分の青春」を糾弾される=語りなおすことで、辛うじてそれに意味を付与することができる。
 そもそも、上記のような「自分の青春」は語る場を持たない。「何もなかった」のなら、それはストーリーにすらならない。語るに足らない虚ろに意味づけをすること、語りなおす場所を立ち上げることとしての〈被糾弾〉という性質が、ここから読み取れるだろう。
 こうして〈被糾弾〉は「自分の青春」に意味を付与する。「何もなかった」という意味を。そしてその「何もなかった」性を快楽に変えてしまうという自己を発見する。
 ここから、感傷マゾという行為は「再帰性の中断/ライフストーリーの語りの場の立ち上げ」として位置付けることができるのである。

 さて、最初の問いに戻ろう。「感傷マゾ」において、自身の体験を無みして語ることが果たして可能だろうか? という問いだった。
 そしてその問いは、今となっては愚問だと感じられるだろう。
 各人は各人の内面世界に応じて、ヴァーチャルをブリコラージュするのだから。
 オーダーメイドのセカイの中でだけ、世界から逃げを打つことができるのだから。

目次と紹介

以下に目次を紹介します。二部構成を取っており、Ⅰ部では「感傷マゾは自己紹介である」と理論化し、Ⅱ部ではそれを足場に「初音ミクと僕」について述べられています。

Ⅰ.感傷マゾ、あるいは中断すること

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1-1.現状

1-2.遡行不可能性とシミュラクル

2-1 立ち現れる「青春コンプレックス」

2-2.ダブルバインド

3-1.感傷マゾにおける「存在しなかった」のアンビバレントさ

3-2.感傷マゾの系譜と糾弾欲

3-3.再帰性の中断、あるいはライフストーリーの語りとしての感傷マゾ

Ⅱ.初音ミクという神が僕の中で幽霊になるまで

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1.初音ミクが神になるまで

2.2010年代の空気感と僕の二次元至上主義について

3.初音ミクの信仰から解体へ

3-1. 初音ミクの危機、と勝手に思い込んでいたもの

3-2.“Devotion”から“Dialogue”へ

3-3.署名と幽霊と〈被糾弾〉


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