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こんなうつの底で身をよじりながら小さくなっている心を読んで、ハートを押してくれるひとがいるんだなと少し驚きました。

私はTwitterとかで心を書いてみようと何度か試したりもしたのですが、なかなか難しくて、Twitterはあまり私には向かないようです。

いつも、心のなかはうるさくて、考えることをやめてくれなくて、だからなにかを書こうと思うといつも長くなってしまう。少しずつの文章を書くのがあんまり向いてない。

いつも、心は考えることをやめないけど、ふと客観的に考えると昔とたぶんそんなに変わらない。なにも考えていなかったと自分では思っていた高校生の私もたぶんそのときの私なりにとても考えていた。いまとは少し違うけれど自転車に乗りながら長い道のりの中でいつも考えていた。

考えることをやめるときっとすごく楽だ。
悩んでるならどちらかに決めきってしまった方が楽だ。でも、決めたと思った何分後かにはまた考えている。ずっと悩んでいる。自分のことなのにわからなくて、自分の人生を生きていいと思いながら、自分勝手だと思ったり、ひとの目を気にしているんじゃなく、本当にただ帰ってきていいよと言ってくれる人のところに帰りたいと思う気持ちも本当で、でもまだほとんどなにも始めていないのに、試してもないのにやめるのかと、考えてもどうしようもないことを考える。

たぶんやってみなければわからないんだろう。
だから、まずやってみるところまでいけるように頑張る?どうやって?いつまで?わからない。
ただ怖い。はやく始めたい。いまは怖い。

時々現れる少し前向きな自分は「やってみて楽しくなかったら、もうこれはあかん、全然どうにもならんと思ったら、そのときやめたらいい。面白そうなことは試してみて、でも誰か頼れるひとをつくっていって、相談しながら考えてみた方がいいと思う。」と言ってくれる。だから、そうしようかなと自分で思う。変なの。

「なんか、なんでもいいから踏み出してみて、それでダメだったらもうしょうがないでしょ。それもまたよし、ということにしてしまいなさい。」と私がいう。
すると私は「う~ん、そんなもんでいいんか?」となって、「でもやるんだったらそのときは真剣にするんだよ。どうでもいいというわけではないよ。考え方の問題だよ。」という。そしてなんとなくその状況のある種のアホらしさに少し笑う。自分はとても真剣なのに。真剣であればあるほど、沼に落ちていって、だから、それがたまに私が沼から顔を出している瞬間なのかなと思う。

洗濯も掃除も食器洗いもお風呂もごはん食べるのさえ、ちゃんとできない。けど、いまはいい。
でもずっとそのままならたぶんいつか考えることをやめてしまうから、少しずつごはんを食べよう。

ごはん食べるのきっとすごく大事なことだから。
ちゃんと考えるためにも、息をする時間のためにも、自分に戻ってくるために、ちゃんとごはん食べよう。

今のところの結論、ごはん食べよ。
そして、脱力も大事。緊張しすぎない。自分本意でいいけれど、それだけではいけない。

考えは続く。沼の底で、あぶあぶいってる。

いつか、他のことも書きたい。好きな映画、漫画、小説のこと。自分のことだけど、自分以外のこと。
連載的に書いていけたらいいな。





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