自分の連続性を知ってるのって自分だけ

このところずっと服の整理してる。趣味が変わってきてることに気付きつつ、惰性で着ている服が結構あって、何のために取っているんだろうと思って処分したりしてる。(この服もうそこまで気に入ってないけど勿体無くて捨てられない)とか(このジャンル自体もう趣味じゃないんだけど、全部手放すのはさすがに)とか。さっさと捨てればいいんだけど、気持ちが離れなくて捨てられない服が結構あってね。
自分がマンネリしてきて新しいジャンルの服を着たいと思いつつも、これまでの自分の雰囲気を考えるとやり過ぎたことはできないなと思ったり。

今の自分は昔とは趣味が変わったけど、確定で全く違うとは言えなくて、何となくズレた気持ちのままモンヤリ、(今の自分、微妙だな) (新しい服を着て新しい自分になりたい) (本当はもっとああいう服が着たい)って思いながらなあなあで服を着てて、微妙な服を着てる時の自分は完璧に好きになれない状態で、でも着ないのは勿体無いから着なきゃって感じ。微妙な服を着るためにコーディネート考えてる時間もなんか微妙な気持ちだし、それ着て人に会ってる時も(今の私は本当の私じゃないんです微妙な私なんです)って気持ちで。

これまでも服を捨てて買ってしてきてるけど、それでも捨てられない服ってあって、良いコートとかそういうの。手を出してこなかった領域のいらない服を捨てないと、本当に着たいジャンルの服に手を出せないなって思って、いらないのに手放せない理由を突き詰めて考えたんだよね。
で、

ここで連続性の話。
服と自分の気持ちに向き合って、自分が自覚しないところで自分の連続性に縛られてることに気づいたのね。
いらない服を手放せない、本当に着たいジャンルの服に足踏みしてしまう理由って、自分の中だけの理由で、これまでの思い出とか、購入金額とか、どれだけ好きでどれだけ着たかとか、これまでの自分のイメージとか、自分だけが知ってて気にしていることよなって。
「あの時あそこで買って、いくらして、これ着てここ行って、あの頃はこういう自分で…」っていう記憶、積み重なった思い出があって、自分だけが知る過去からの連続性を理由に、漠然と変えられないでいたんよね。誰も知らんし誰も止めてないのにひとりで手放しづらい!変わりづらい!って言ってて、昔の服もう全然好きじゃないのに!って、ひとりでウーンウーンって悩んでて、何この状況。ひとりで勿体無がってる、オモロって、で処分して、新しい服買った。ただ自分だけが知っていて自分だけが気にしてる連続性があって、それが理由で悩んでたんだって、結局は自分次第じゃんかって。

今の自分の趣味に合ってない服を全部手放したらクローゼットも脳も圧倒的に情報量が減ってスッキリして、これまで漠然と着たいと思ってたジャンルの服を調べたり、買ってみたりするとこにリソースを割けるようになった。新しい服見るだけで前向きになるし、好きな服を着ると自分に納得できる。全部好きな服だと気分が良いね!


身近なとこではファッションだけど、何かを選択する時この「自分の中の連続性」に囚われずに選んだ方が自分で納得できるなと。

転職とかもそう、新しいことに挑戦したいとき、運動や引越しや、交友関係や、黒髪を金髪にするとか、ピアスを開けるとか、全部そう。これまでの自分から今をシームレスに繋げて考えると「変えづらい、変える必要ないかも」って気持ちが出てくるかもしれないけど、昔の自分と今の自分を連続して知ってるのは自分だけだから、気にするのも自分次第で。てかそもそも昔の自分と今の自分をシームレスに繋げて同じように考えがちだけど、昔と今の自分では体細胞も考え方も変わってるんだよね。こんなに違うのに、自分ってカテゴリーだけで同一視して今の気持ちを直視しないと、ずっとモンヤリ、納得できないんじゃないかなと。
まあ私はそう。

ちょっとずれるけど、友達が黒髪ロングから金髪に脱色したら会社で「せっかくの黒髪だったのに勿体無い!」って言われたらしくて、勿体無いって、(いやそれはあなたの趣味ですよね、知らねえよ)って感じだよね。そもそもその子はずっと髪を染めててその時期に黒染めしてただけで、会社の人は勝手にバージンヘアだと思ってたんだけど、その会社の人は勝手に彼女のバージンという連続性の部分を勿体無がったってことなのね。こういうのってまあよくあるけど、他人の連続性まで勿体無がって口出してくる人ってほんと面倒だと思う。気にする必要ないのに、こう言われるとなんか(変えない方が良かったかな…)って気になるよね。
まあそれは置いといて。


自分の連続性を知ってるのは自分だけなんだからこれまでの自分をブッたぎって変えたきゃ変えればいいって話で。
さらに思ったのは、この連続性というのも、そもそもかなり不確かなものだよねって。

過去からシームレスな自分だけど、過去の自分と今の自分は体組織も周りの人も(もちろん周りの人の体組織やらも)変化してて、生き物ってただ思念の連続で成り立ってると思うんだよね。
思念って秘伝の醤油ダレみたいなもんだと思ってて、注ぎ足し注ぎ足しの連続で成り立ってて、きっと元々の本当の味から変化してるだろうけど、元の味を知ってる人は誰もいないし、注ぎ足してる本人もちょっとづつ味が変化していることには気づけないんじゃないのって。

人間の脳って長期的な連続の変化には気づけないじゃん。(どういうことかって、毎日鏡を見てると変化に気づかないのに写真を見ると老けたことに気づくとか、自分の書く字を見て自分の字が作られていくのに昔の字と今の字は全然違うとか)

だから思念の連続で成り立ってる時点で人の過去や未来ってかなり不確かで。不確かな自分の中の連続性に囚われたり振り回されたりするのってバカバカしいなと思ったのよね、服を捨てながら。

自分の考えをもとにして自分の中で新たな考えが生まれて、そこからまた考えが生まれて…ていう連続の今の自分で。昔の自分と今の自分、そして未来の自分は、自分の意識しないとこで変化し続けてるはずで、たとえ変化を拒んでいてもね。

今の自分の記憶の「あの頃の自分像」と実際の「当時の自分」を並べたらだいぶ差異が出るはず、攻殻機動隊みたいに電脳化してればデータとして残ってるから変わらないけど、現状の脳は有機物だから。
逆にいつまでも同じ自分でいたいのなら相当な努力をしなきゃ難しいんじゃないかな。

そもそも変わってないと思ってることが思い込みであって、身体的にも思考的にもだいぶ変化してるはずだから、自分の中の連続性に囚われずに、これまでの自分は気にせず変わっていけばいいと思う!ってこと。
あの頃の自分を知っててそれを気にしてるのなんて、たぶん自分くらいだから。

それに何より、久々に会った友人に「昔と何も変わらないね」って言われるのほど嫌なことってない!

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