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母の願い

(本記事は2021年7月中旬に書き、投稿し忘れたものを今更投稿したもの)

先日久しぶりにまとまった期間、実家へ帰省した。
母ががんになったからである。
術後は抗がん剤治療の副作用で、日常生活や家事がままならないのではないかということで、急きょ助っ人と呼ばれ、帰省したのだ。

実家では、話を聞こうとしない父と言い合いをしたり、何を聞いても無反応な弟にイライラしたりと、いつも通りの実家ライフを過ごした。

帰省するたびに、母と鎌倉や江ノ島あたりをドライブして、軽くお茶して帰るのが私の密かな楽しみとなっているのだが、母の体調のこともあり、それも叶わなかった。
なので今回は、一緒に近所のスーパーに買い物へ行ったり、ご飯を作ったり、Netflixを見たり、ときどき母の実家である近所の祖父母の家に行ったりして、ゆっくりと過ごした。一日中一緒に過ごしていたので、わたしが子どもの頃のエピソードや、父方の祖父母の介護の苦労話など、普段はなかなか聞けないようなおしゃべりもできた。

短大卒業後に保育士として数年働いたあと、今の私の年齢で父と結婚し、家庭に入った母。母の生きている年数の半分以上は、もう結婚生活の方が長い。結婚相手の父母の介護をして、その間もずっとワンオペ育児をして、ワンオペ家事をして、母は幸せなのか、幸せだったのかと、ふと考えてしまう。

私が那須に帰ったあとは、髪が少なくなってきた母から頻繁に髪型全体がわかるような自撮りが送られてくるようになった。少し写真が届かない期間があってから、「だいぶ見慣れたので」「”落ち武者”」というコメント付きで、髪がほとんど抜け落ちた状態の母の自撮りが送られてきた。

ずいぶん前は、「髪が抜けてハゲになることがいちばん怖い」「髪がなくなったら、どこにも行きたくないし誰とも会いたくない」と言っていた母。

私はわかっている。
母は本当はその姿の写真を撮りたくなかったこと。でも、遠くに住む娘に心配や迷惑をかけたくないという想いがあること。

私のような若い世代にとって、がんは治る病気というイメージが強い。しかしそうだったとしても、実際にがん患者からしてみれば、恐ろしい病気であることは間違いない。自覚症状があるわけでもないのに手術をして体の一部を切り取ること、抗がん剤治療のあとも、放射線治療、ホルモン剤投与が続き、薬は10年間毎日飲み続けなければならない。その後も転移がないか定期的に通院する生活。それはずっと母を”がん患者”でいさせるだろう。想像もできないような不安と苦痛と悲しみがあるに違いない。


(以下、同年11月加筆)

遠く離れた地に住む娘の自分にできることはなんなのか。今は週に一回電話をかけて、母の話を聞くことで精一杯。愚痴も弱音も、聞きたいと思う。

自分自身に余裕がないときは、「ネガティブなことばかり言わないで」、「聞いているこっちの身にもなって」と強く言ってしまったりもする。電話を切るたびに、辛いのは母なのに、どうして優しく話を聞いてあげることぐらいできないのだろう、と落ち込むこともしばしば。でも、次の週には何事もなかったかのようにまた電話をかける。意地っ張りでプライドが高い私が、この電話を続けているのは、この週一回の電話が、母の辛い気持ちを吐き出せるチャンスになることを願っているからだ。


最近の母は、私と弟ががん保険に入ることを強く願っている。弟は母と同居していることもあり、最近加入したそうだ。母の抗がん剤治療中の辛い生活の話や、病院や医師の対症療法的な考え方を思うと、がんになったとしてもそのような治療は受けたくないというのが私の本音である。もちろん、母が受けているがんの治療法を否定するつもりはない。しかし、がん=抗がん剤治療ではないと思うし、薬や病院に頼るだけではなく、食生活や住環境を整えるといった、生活習慣を見直すようなやり方もあると思う。

人それぞれの寿命は違うのだし、病気になったら、それが私の寿命なのかも、と思うようにもなってきた。時間をお金を費やして病院で治療することにも疑問を感じるようになった。もちろん、今の自分が健康体だからそう思えるのは重々承知している。

だからこそ、いまを全力で、後悔しないように生きていきたいと思う。


少し前から韓流ドラマにハマっている母。とりわけ「愛の不時着」がお気に入りだそうだ。そこで出てきたスイスにいつか行ってみたいとのこと。最近は体調の優れない日も多く、傷口が傷んだり、膿が溜まってそれを取り出す手術も受けた。元気もなく、「抗がん剤治療が終わったらスイスに行くんだ!」と言わなくなった。早く彼女が元気になって、一緒にスイスへ行けたらいいな、と思う。切に、願う。

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