お題:どんなときに安全安心を感じる?

3年間で答えが大きく変わっている問いだ。

3年前なら「そんなのいらない。やることをやるだけでしょ。甘ったれたこと言ってんじゃないよ」と答えた。安全安心なんて、そんなものに興味はなかった。ひとりで何でもこなすのが強いひとだと思っていた。
挫折と絶望をへた2年前に、答えは変わった。「心の奥底の苦悩を、誰かに受けとめてもらったとき。他者からの愛を信じられたとき」と答えるだろう。どんなにダメであっても、自分という存在そのものは受容されていること。これこそ決定的に重要だった。3年前のぼくは受容されていないと考えていたから、なんでもひとりで頑張ろうとしたのだ。

いまは、もうひとつ先の回答に変化した。
存在の受容(根源的な愛)は基礎部分に移って、その上層に「自分らしさを出せるとき」というのが加わった。自分らしさを出してもいいと思えたときに、ぼくは安心を感じる。
――自分らしさを出せるとき
ぼくにとっては、書く場所が保障されていることだ。
ただ書くだけではない。読んでくれる誰かを信じられるのも重要な要素だ。自分らしさとは結局、他人の存在を前提にしている。

1年半まえから個人ブログでひっそり書いていたけれど、読者はいなかった。たまに友人が読んでコメントくれていたけれど、どこまでいっても読者ではなく友人だった。さみしかった。
その状況が今年6月に一変した。とっちーがブログを紹介してくれて、ラボメンという生の読者があらわれた。ツイッターでも絡んでくれた。ぼくははじめて、読んでくれるひとがいるのだと実感した。ずっとひとりで書いてきたから、思わぬ幸運に涙を流した。
前回の記事は、とっちーに「書いてよ」と言われて、はじめてひとのために書いた記事である。結構読まれた。読まれるのってこんなに恥ずかしいんだと知った。
でも、すごくうれしかった。
ネットの向こうに読んでくれるひとがいるんだと改めて実感した。エウレカ! 

ぼくの安全安心って、わりと単純な関係性で満足できるのだ。ただ読んでくれるひとがいればいい。
根源的な安全安心は他者からの愛だけど、上層の安全安心は、愛を体して自ら構築していくものなのかもしれない。これからも考えていく。

お知らせ:お題を知ったのはとっちーnoteから(ラボメンの誰かがnoteで書いたら、乗っかってくよ!)


サポート金額よりも、サポートメッセージがありがたいんだと気づきました。 読んでいただいて、ありがとうございました。