『小林カツ代と栗原はるみ 料理研究家とその時代 (阿古真理)』【読書ログ#18】
この本を読んでいたら、私の母の料理を思い出した。凄まじかった。女手一つで子供三人を育てるなかで、料理の優先度は相当に低かったのだろう。おそらく、玄関に入ってきたワラジムシを外に追い出すタスクよりも低かった。
毎度の食卓には、独自に時短を追求した謎料理がならび、幼い三人は恐る恐るそれらを口にした。思い出のごちそうは、スーパーで売っているイカの塩辛、それにサッポロ一番みそラーメン。今でも兄弟が揃うと母の料理の話で小一時間は盛り上がる。
特に、私が中学生だったころの弁当が思い出深い。カバンから取り出し、蓋を開けるのが怖かった。あとのきの毎日のドキドキが、今でもリアルに思い出される。トンデモなく忙しいなか、弁当をもたせようと思ってくれるだけでもありがたいと、今になってみると感謝に堪えない。だが、当時はとにかく恐怖だった。
細かいエピソードは割愛するが、我々兄妹のエピソードを聞いた妻は、最初は笑いながら聞いていたが、それが冗談ではないとわかると、表情が曇り、しまいには泣き笑いになっていた。詳しく話を聞きたい方には、飲みの席などでお聞かせするが、リリー・フランキーの東京タワーをもう一度読むかのような覚悟で臨んで頂きたい。
さて。
戦後、日本に現代人が『主婦』と称し認識する職責が生まれた。さらに、その『主婦』を専業とする『専業主婦』に紐付けられた女性は、家事という名の労働を一手に引き受けることを期待される存在だった。
夫は、求められる結果が最初から見えている楽チンな会社勤めを、さも辛そうなふりをして努め、子供達は遊びがシゴトと甘やかされ、それぞれ自分では家事をせず、家でふんぞり返りながら、細やかなサービスを主婦に求めた。
にわかには信じがたいが、そのような時代が日本にはあった。私など、古い映画か漫画でしか見たことがないのでピンと来ないが、様々な資料をみるにつけ、それが事実であったことを裏付ける。にわかには信じがたい。いま、そんなことを<あのお方>に求めようものなら、全身の骨を砕かれ多摩川に捨てられてしまう。
そんな不思議な時代、料理研究家達は、レシピを通し、なんだか生きづらく騙されたような気持ちで満たされた主婦たちに、レシピと生き方を提案してきた。
世間が作り上げ、求めてきた「理想的な女性の生き方」を、小林カツ代は料理の効率を追求することで支えた。栗原はるみは、料理を入り口としたライフスタイルの提案で支えた。
料理研究家たちが世に送り出した沢山のレシピは、料理を作るためのマニュアルなだけにあらず、その時代の女性の生き方を表現するものだった。
私の母は、料理を通し、子供たちが強く生きるようメッセージを投げかけていたのかもしれない。そうだ、そうにちがいない(存命だが怖くて聞けない)。でも、もうちょっと料理研究家達のレシピを信じても良かったのではとも思う(が、怖くて言えない)。
弁当で一番強烈だったのは、焼いた玉ねぎだけが入っている『焼き玉弁当』かな。
「それって有意義だねぇ」と言われるような事につかいます。