引きこもりの息子に手をかけた父親に思いをよせる『変身』【読書ログ#147】
暗い話で始めてしまって恐縮なんですが、今年の6月に76歳の父親が、44歳の引きこもりの息子を殺害するという痛ましい事件があった。
自首をして逮捕された父親が元次官ということや、殺害された息子の凶暴性や異常性が明るみに出た事、息子が原因で妹が縁談をまとめられず、それを苦にした妹が自殺をしてしまったという事もあり、ニュースでもたびたび取り上げられる事件となった。
親子の住む自宅近くの小学校に、凶暴性を隠さない息子が敵意を向けた。それを見た父親が、このままでは小学生に手をかけてしまうという強い確信を持ち殺害した。動機については、概ねこのような説明がされているそうだ。
他の家の事情はわからないし、詳しい情報を知ったところで得るものは無いので、必要以上にこのニュースを追いかける事はしていない。
だけど、アレコレと考えることはしていた。
事件を最初に知り思ったのは、世間で受け入れられない形になってしまった自分の子供を「恥」と考え、排除したいと考えた過程というのはどういうものなのかなという思い。
それは、自分が子供を持つようになって、その手の事はよく考えるようになったから。
今まであまり考えていなかった世間体というものに、どうやって向き合うのが正解なのかな、とか。
うちの子はまだ小さいので、今すぐに何かあるわけではないし、おかげ様で朗らかに、朗らかすぎる位に育っているのだけど、それこそ10年もしたらそれなりに生意気になって、人様に迷惑をかけるような事があるのかもしれない。
その時、どういった態度をとるのが親が子に対する態度として、また、ご迷惑をおかけした相手に対して誠実なのかな、という事をうすらぼんやり考えたりする。
そして、そんなことを考えていた時に、カフカの『変身』の事を思い出す。
毒虫に変身したグレゴール・ザムザと、そのグレゴールに致命傷を負わせた父親や、その家族の事をなんとなく思い出した。
ずいぶんと唐突なんですけどね。
思い出したものはしょうがないし、確か短編だったよなと思い読みだした。
実際に手に取ると、短編というほど短くはない。中編と呼ぶようなサイズ感なのかな。ページ数は、翻訳によって多少前後する様だけど、だいたい60~70ページ位。1時間もあれば読めてしまう。
せっかくだから色々な翻訳を読み比べてみたけど、多和田洋子さんの翻訳は面白かったな。冒頭を引用するとこんな感じ、
グレゴール・ザムザがある朝のこと、複数の夢の反乱の果てに目を醒ますと、寝台の中で自分がばけもののようなウンゲツィーファー(生け贄にできないほど汚れた動物或いは虫)に姿を変えてしまっていることに気がついた。
ウンゲツィーファーって! 題も「変身(かわりみ)」となっていて、ちょっと変わっているね。
リンクを貼った角川文庫はカジュアルな感じ。
ある朝、グレゴール・ザムザが不安な夢からふと覚めてみると、ベットのなかで自分の姿が一匹の、とてつもなく大きな毒虫に変わってしまっているのに気がついた。
表紙がイカしてる新潮文庫はシュッとしてる。全体的に格式張っている感じが好き。
ある朝、グレーゴル・ザムザがなにか気がかりな夢から目をさますと、自分が寝床の中で一匹の巨大な虫に変っているのを発見した。
そして岩波。意外にもこれが一番読みやすいと思う。
グレゴール・ザムザはある朝、なにやら胸騒ぐ夢がつづいて目覚めると、ベッドの中の自分が一匹のばかでかい毒虫に変わっていることに気がついた。
並べてみると、冒頭の書き出しだけでも全然違う。多和田洋子さんの訳は際立って違いが目立つ。ドイツ語が読めないので何とも言えないけど、印象的には、ドイツ語っぽい表現を大事に残しているのかもしれない。他の訳者が不安を掻き立てるような夢と書いているのに、多和田訳だけは「複数の夢の反乱の果て」となっていて、ムムムっと理解に力を入れる必要がある。
個人的には角川のが好きなんだけど、冒頭以外でも色々と比べてみると面白いかもしれない。
白水社のカフカ全集も持っているのだけど、引っ越し準備で先に段ボールに詰めてしまった。そのうち引っ越しが終わったら読んでみたい。
フランツ・カフカの作品は、どの作品にも不思議な魅力があって、個人的に毎回強く思うのは、読むたびに印象がかわる事。
同じ作品でも、読むタイミングや状況などによって、本当に全く違う作品を読んだのではないかと思うほどに印象が変わる。どの作品も一つの印象に集約されず、特定のイメージなどにも還元されないところが面白い。
今回、冒頭で紹介した事件の事もあったので、この『変身」を読むにあたって、父と息子の関係や他の家族の関係に強く注目して読む事になった。これまでは、どちらかというとユーモアを感じ、どこか面白おかしく読んでいたのだけど、今回は全く違った読後感を味わった。
(恐らく、誰しもがあらすじを知る話だろうからネタバレは気にせず……)
グレゴールは共に暮らす家族の生活を経済的に支えていた。父親は仕事をせず、グレゴールの給与をあてに生活をしていた。だがある日、グレゴールは何の理由もなく毒虫に変身してしまった。
グレゴールは、中身はそのまま、姿かたちだけが変異し、社会への向き合い方も大きく変質した。大きな毒虫に変身したことで、社会とのつながりを失ってしまう。
その姿が、冒頭の事件の息子の様な引きこもり達が、本人の意思だけではどうしようもないまま、ずるずると、ひきこもり生活に落ちていく様にかさなる。
グレゴールの父親は、突然変質した息子に憎悪を覚え、攻撃する。最終的にはグレゴールの死因となる怪我を負わせたのも父親だ。
だが、グレゴールの父親は、息子の変身をきっかけに、まっとうな生活を送ることに目を向けるようになる。息子に頼り切っていた生活から抜け出し、横柄であり、寄生虫のように一家にたかっていた間借り人を追い出し、制服を着て出かけるようになった。
母親も仕事を見つけ働きに出るようになった。
兄の世話を引き受けていた妹は、次第に兄に興味を失い、グレゴールを追い出す事を家族に進言するようになる。
三人とも大きな心の「変身」を遂げるなか、父親に投げられたリンゴを致命傷にグレゴールは息を引き取り、手伝いに入っていた女にあっさり捨てられる。残された家族は、未来に希望を持つようになり、新しい生活を始める。
比較するようなものでもないと理解はしつつ、冒頭の事件の一家の事を思い、良くも悪くも息子を見捨てることが出来なかった一家の手から抜け落ちた希望の事を考えてしまう。
もっと、良い方法は無かったのかと考えてしまう。
他の家の事だし、何事にも「もし」はないけど、何かしら正解があったとして、それはどのようなものだったのか。子供を二人失った夫婦は、この先も何が「正解」だったのか考え続けるのだろう。それは、実に辛い事だね。
カフカの作品に対しては、読み方に正解は無いと思っている。この「変身」以外にも「失踪者」や「城」、「審判」など、不思議で様々な解釈が可能な作品があるが、それらの作品からも、やはり明確な答えは見いだせない。
各自が答えを求めて作品のまわりをぐるぐるを回っては、その時々に思う事を作品に向ければよいのだろうなと思う。『城』の主人公Kがなかなか正解にたどり着けないのと同じように。
フランツ・カフカは、公務員作家だった。国の労働者障害保険協会で書記官をしながら、小説やらなにやらを大量に書き続けていた、ひたすら書いて、書いて、書き続けていたのだが、実は、完成作品はとても少なかった。
すぐに女の子に手紙を書いちゃうので、作品がなかなか完成しない。
なので、フランツが生きている間に刊行された本は7冊と、大作家な印象からしたらずいぶんと少ない。しかも、どれも短編集ばかりで、本作『変身』がやっと中編で、じつは生前に刊行された作品のなかではこの『変身』が一番長い。
良く知られている作品には『城』や『審判』『失踪者』などの長編があるが、これらの作品は生前には発表されなかった。
死後、生前からカフカの実力をみとめていた友人が、読み終わったら捨てるようにと預かっていたノートに残されていた遺作を、フランツの意に反してコツコツと刊行していったことで世に知られるようになったのだ。グッジョブ友達。
「それって有意義だねぇ」と言われるような事につかいます。