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『現代アートの100年』展

そのものに出会うことを契機に、自分の中になにかの”感じ”が起動すること。これを単純に「会起感(かいきかん)」と仮に呼ぶことにすれば、「会起感」自体は特別なことではなくて、日常生活で絶えず経験することだと思う。例えばこの時季の早朝に川の近くなどを自転車で走り抜けてみれば、空や空気の具合によって瑞々しい気持ちよさを自然と覚えるはずだ。そうした気持ちよさは家の中でごそごそとしているだけでは決して感じられない”感じ”だと思う。

先日(2022年5月12日(木))広島県立美術館で開催中の『現代アートの100年』展に観覧に出かけた。これは大阪にある国立国際美術館が所蔵している現代アートの作品(出品目録によると)72点を今年は広島・大分と巡回して見せてくれる催しだ。

作品を所蔵している国立国際美術館(1977年設立)はその全作品を地下に収めているそうで、その点は香川県直島にある「地中美術館」と同じだ。美術館を地下に建造するというのは、建築費用はかかるだろうけど、地下の方が作品の保存という観点からすると好ましいのかもしれない。それに地上に建てるのと地下に造るのでは、建造物そのものに対する考え方が設計段階から違っているのではないかと思う。地上に建てる場合はどうしてもその外観を主としてデザインを考えるのではないかと想像するけど、地下に造る場合は外観などないので、内装デザインに注力することになるだろう。つまり設計における視点の方向が逆になるはずだ。この先は<参考>に挙げた「都心に埋蔵されたホワイトキューブ」を参照あれ。

さて本展覧会。中に入ってまず出会うのが、no.01セザンヌの『宴の準備』という作品だ。ネットで参照できる作品と比べると、実物は随分くすんで見える。でもよく見ると色彩が繊細できれいだなという印象をもつ。

次はno.02デュシャンの『L.H.O.O.Q.』という作品で、これはダ・ヴィンチの『モナリザ』の印刷に口ひげを加えた作品。このデュシャンこそが「タブロー(絵画の完成作品)をつくるのはそれを見る人びとだ」(『デュシャンの世界』)と言い、現代アートの始まりを告げることになった先駆者だ。

デュシャンに始まる「現代アート」は、簡単に言うと「アートとはその作者とその鑑賞者が対話する”場”のことである」という芸術の新しい解釈を全面的に受け入れることから始まった。

だからこの意味で言うと、鑑賞者に「会起感」が起こる時点が「現代アート」が完成する(タブローとなる)瞬間である。その瞬間まで作品たちは鑑賞者によって完成されることをじって待っているのだ。

以下ではわたしに起きた会起感において発動した、わたしと作品との対話を再現してみたい。

no.14 マリノ・マリーニ「踊子」〜ブロンズ、彩色、1949

写真で見ると何気ないブロンズ像だけど、実物を見るとまるで違う。なにがどう違うのか。右から左から。前から後ろから。見る角度で全然違って見える。頭の影が肩にかかる。鼻の影、顎の影、腕の影、胸の影、腹の影。様々な影が全身の表面をなぞるように移動する。元に戻る。ますます違って見える。えーっ!これ、どういうことなんだろう?わからない。わからないけど像の表面とわたしの間で様々な角度様々な温度でスキンシップならぬエアシップが交わされていくのはわかる。それがきもちいい。

no.09 オシップ・ザッキン「デメテール」〜ブロンズ、鍍金、1958

表面がピカピカなので、覗き込むわたしの上半身が映り込む。場所によってはわたしは3人になり、2人になり、1人になる。映り込んでいるのはわたしだけではない。部屋の入り口や壁、台座、ちょっとした隙間。それらがピカピカの肌の上なめらかだけど入り組んでいる起伏に沿って連続的に黄金色に形を変える。見ていていつまでも飽きることがない。

no.12 ジャン(ハンス)・アルプ「カップか果実か」〜ブロンズ、1960

”形”というものがこんなに艶かしくていいものか。同じ作品名の石膏による作品もあるみたいだけど、こちらはブロンズ素材。だからこその色と質感がそこにある。ボテッとフテっとタプンタプンと。動くはずもないのにゆらゆらふらふら動いているように見える。見ているわたしが見られている気がしてくるのはなぜなのか?

no.26 ドナルド・ジャド「無題」〜ステンレス、1977

実はこの作品がなによりもわたしに”感じられた”作品だ。わたしはこういうのが好きなのだ。大好き。目の前に4つのステンレス製の箱がちょうど視線の高さに一列に並んで壁に取り付けてある。4つの箱はおそらくほぼ同じ形をしている。1つの箱は2つの立方体をくっつけて作ってある。2つの立方体はどちらもこちらに向けて開放されている。しかし左の立方体は左奥から右前にかけて対角線方向で平面がとりつけてある。向かって右の立方体はただの箱のようだけど、ひょっとすると奥の面の下はなめらかに手前に向けて曲がっているのかもしれない。だがよくわからない。手を突っ込んで確かめたくなるがもちろんそれは許されない。要するにこの作品は、左と右の立方体の中に作られる”影”を楽しむ作品だ。これが実に面白い。左の立方体は左が奥なので暗く、右は手前なので明るい。そのグラデーションのなんと美しいこと!右の立方体はその左の影グラデーションの対比としてある。それでも微妙な明暗でボウッとしている。これを立つ位置をすこしず変えて見てもらいたい。水平方向に4つ並んだまったく同じ形の箱が作りだす影が4箱4様で変化していく。うわうわーっ!これだよこれ!時間に沿ってわたしの意識が目の前の4つの箱が作り出す影のグラデーションに溶け込んでいくような気がしてくる。これほんと。

no.28 草間彌生「ネット・アキュミュレーション」〜油彩、カンバス、1958

草間彌生は直島の巨大カボチャなどの作品で有名な人。水玉の人だと思っていたらその前は網目の人だった。この作品は網目がビッシリ描かれた正方形(162cm四方)が3つ並べられて構成されている。この作品のような、規則的な模様が繰り返し描かれているような作品を前にするとわたしがついやってしまうのが立体視だ。この作品の前でもやってみた。するとやっぱし!立体的な映像は得られなかったのだけど、それに勝るとも劣らない映像が得られた。視線の中心周りの模様がぐにょーっとゆっくり右に左に動いて見えるのだ。まるでかつての「ウルトラQ」の出だしの映像のようなあの動きがあちらでもこちらでも繰り広げられていく。館内は乾燥しているのか、目を見張ってそうしているとすぐに目が乾いてくる。瞬きをして繰り返す。また動き始める。夢のような世界だ。

no.39 ゲルハルト・リヒター「抽象絵画(648-1)」〜油彩、カンバス、1987

リヒターが絵を制作している映像を垣間見てみると、何層にも絵の具を塗ったカンバスの表面をまだ絵の具が乾かないうちに大きな板でもってこすっているのがわかる。こするというか、こそげ落とすというか、ブルドーザーが除雪するような、あの動作のことはなんと言うのだろう?わからないけどこそげ落とされた表面の絵の具の下からかすれたようになって個々のものものが顔を出す。その具合はまさに自然の手業。現代アートの技法的特徴として、なんらかの方法によって自然にできあがるテイストを積極的に利用していくことがあると思う。絵の具を垂らしたり、撒いたり、こすったり、吹きかけたり。陶芸において焼き上がってみないとその模様や色が確定しないような、そんな技法。その時アーティストは作品制作における”布置”をつくってあげるだけで、その技法が為された後、どんな色、どんな形が出てくるかは”運”次第のような。この大きな作品を見ているとしかしそういった制作過程に関わらず、ある意味をもった”世界”がここに描かれているとしか思えなくなる。ここだけでそれは”世界”であって、あらゆる”もの”やあらゆる”こと”がここに”ある”ような、そんな広大で寛容な”世界”が見えてくる。

no.60-1,2,3 岡崎乾二郎「死者はきっと(以下略)」「光にとって(以下略)」「空の国も(以下略)」〜アクリル、カンバス、2008

出品目録にはこれら3作品の一遍の詩のような長い題名が省略なく記されている。その長い題名に恥じないような幅が140cmほどもある大きな作品なのだけど、その構成はシンプルだ。絵の具の塊があちらこちらに塗りたくられている。これはわたしの妻の言葉だが「この作品を見ているとなんだか元気になってくる」ようなのだ。ネットにある画像ではわからないが、それぞれの色をなす絵の具の表面はプラスチック加工されているようなピカピカで、ボンドかなにかでその表面が透明に覆われている。そうした具合がまた高揚感というかハッピー感というかウキウキしてくるような気分を誘っている。そうした”感情”を物質化しました、と言ってるみたいだ。見ているわたしの口元が自然とゆるむ。

出会って感じが生まれる。

それこそがあらゆるものが存在する意味なのではないでしょうか。


<参考>

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