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LifeWear magazine 解読 07     Kenzo Tange and Harvard University 1

はい、みなさん、お元気でしょうか?
新年もいつの間にか明けまして、おめでとうございます。

もうすっかりお忘れかと思いますが、ほぼ気にせずいきますよ!

LifeWear magazine 解読 第7回です。

今回は「Kenzo Tange and Harvard University part1」におつきあいください。


丹下健三が建築に出会うまで

丹下健三は、1913(大正2)年、大阪堺市で生まれました。

お父さんは住友銀行に勤めておられたせいか、転勤が多く、中国の漢口や上海のイギリス租界などを転々とされていましたが、健三さんが7歳のとき、日本に帰ってきて愛媛県今治市に落ち着いて住むことになります。

お父さんのお兄さんが今治でタオル会社の経営に参与していたのですが、急逝し、健三さんのお父さんがお兄さんの仕事を継ぐことになったからです。(参1)

健三さんは、今治は美須賀の第2尋常小学校に入学し、全科目ずば抜けた成績で卒業します。この小学校の同級生に、その後健三さんと同じく建築家となる、徳永正三さん、重松淳雄さんがおられたそうです。これにはちょっと驚いてもいいかもしれません。

次いで今治中学に進み、そこでは天文学に凝って、長さ1m80cmの胴体を地元の鉄工所に作ってもらったりして望遠鏡を自作していました。それで月面や土星の輪や太陽の黒点などを観測しとても感激していたそうです。

中学の最終学年を飛び級で終え、健三さんは今治を離れ、広島の旧制広島高校(現・広島大学)理科甲類に進学します。

「理科」に進学はしたものの、文学や芸術にも心惹かれていた健三さんは、19歳の最終学年にあたり、この後大学で何を専門にするか悩んでいました。理科にするか文科にするか、それとも芸術科か。(参2)

そんなとき、学校の図書室でたまたま手にした欧米の美術雑誌に、ある建築の模型写真と図面が載っているのを見たのです。

それがル・コルビュジエがソヴィエト・パレスのコンペに応募した作品でした。

それに衝撃を受けた健三さんは、ル・コルビュジエのような建築家になることを決意します。

そして2浪した後、東京帝国大学工学部建築科に入学します。

ル・コルビュジエ 1

ル・コルビュジエさん(Le Corbusie,1887-1965)はスイス生まれのフランス人(後にフランス国籍を取得)建築家で、近代建築の三大巨匠の一人とされています。

もう二人の巨匠の方々(アメリカのフランク・ロイド・ライト(Frank Lloyd Wright,1867-1959)、ドイツのミース・ファン・デル・ローエ(Ludwig Mies van der Rohe,1886-1969))もとても面白いお話があるのですが、今回は割愛します。

コルビュジエさんのお父さんはスイスの時計職人で、特に時計の文字盤を作る仕事をされていました。

家業を継ぐため、コルビュジエさんは地元の美術学校で彫刻と彫金を学んでいましたが、視力が弱く、時計職人には向いていませんでした。(検索して出てくるコルビュジエさんの写真はどれも分厚い眼鏡をかけておられます)

でもその学校の先生はコルビュジエさんの才能を認めており、コルビュジエさんは校長先生に紹介されてある建築家の元で建築の修行をすることになりました。

その翌年コルビュジエさんはパリへ行き、オーギュスト・ペレ(Auguste Perret,1874-1954)の事務所で働くことになります。

そしてこのペレさんこそ、後に「コンクリートの父」と呼ばれる建築家で、「鉄筋コンクリート造」という新しい技術で近代建築の世界に先鞭をつけた人でした。


鉄筋コンクリート

ここで一くさり、コンクリートから鉄筋コンクリートへ至る系譜を述べておきます。

コンクリートと言えば、わたしが生まれた頃からどこにでもありました。

わたしの小さい頃は近くにいくらでも空き地があって、大概の空き地にはいくつもコンクリート製の土管が置いてありました。

その土管のまわりでよく遊んでいたことを覚えています。パッチン、ビー玉、釘を使っての陣地取り、ゴム飛びなんかです。雨が降っても土管の中に入って遊べるので、空き地にはいつ行っても誰かが居たように思います。

今では当たり前のようにあるコンクリートですが、このコンクリート、調べてみると、実は深い謎を秘めているようなのです。(わたしが知らないだけかもしれませんが)

ひとつは、コンクリートが固まる過程というか理由というか、それがよくわからないということ。

そう言えば『すべてがFになる』で有名な森博嗣さんの専門はコンクリートだそうで、あんなにクールで素敵な方がコンクリートのことを日夜考えておられるのかと思うと、ちょっと意外な感じをもったものです。

そしてもうひとつ。今から考えると、コンクリートは古代ローマ帝国ではふつうに使われていた技法なのに(ギリシア建築は石造りでしたけど、ローマ時代になると、あの上下水道などのアーチ型の造形、あれはコンクリートであって初めて作れる形なのだそう)、ローマ帝国がなくなってから(西ローマ帝国は486年、東ローマ帝国は1453年になくなった)どういうわけかコンクリートの技法も歴史上消えてしまったということ。建物は再び石造りに戻ってしまったそうです。

それがなぜなのか、膝を打つような説を見つけることができませんでした。

コンクリートが再び歴史に登場したのは、イギリスで1756年のことでした。それから1824年にこれもイギリスでポルトランドセメントなるものが発明され、1840年代初めには実用化されていたそうです。(参3)

このコンクリートが鉄筋コンクリートに進化していくところも見てみましょう。

通常、園芸用の植木鉢は粘土を焼いた陶器で作られていましたが、1840年代以降、変わり種としてコンクリート製の植木鉢も出回り始め、目新しさからそれなりに人気があったようです。

しかしコンクリート製の植木鉢は不便でした。厚くて重くて動かすのに一苦労するし、堅いくせによく壊れていたからです。

そんな折、フランスの庭師、ジョゼフ・モニエ(Joseph Monier,1823-1906)はコンクリートを使った、薄くて軽くてそれでいて丈夫な植木鉢を作ろうと思いつきます。

そして1849年、モニエさんは金網にセメントを流してみるという発想にたどり着きます。これが鉄筋コンクリートの誕生でした。

モニエさんは1867年のパリ万博にこの金網コンクリート製の植木鉢を出品し、その後特許を取ります。次第にモニエさんのアイデアが世間に知られていくようになります。

しかしモニエさん自身は、コンクリートと鉄の組み合わせでどうして強度が高まるのか、その原理がわかりませんでした。そのせいでそのアイデアが建築に本格的に用いられることはありませんでした。

でもモニエさんのアイデアはドイツに伝わり、ドイツのヴァイス(Gustav Adolf Wayss,1851-1917)らによってその強度が理論的に解明され、建築にかかせない技術として「鉄筋コンクリート」が普及していきました。(参4)

この鉄筋コンクリートの強度によって、建物の設計が大きく変わっていきました。それまで屋根を支える役目もしていた壁が必要なくなったのです。

そうした鉄筋コンクリートの性質を建物のデザインに生かすことを初めて本格的に考えたのが「コンクリートの父」こと、オーギュスト・ペレだったのです。(参5)


ル・コルビュジエ 2

ペレさんの事務所にコルビュジエさんが入ったのが1908年のことでしたが、その後1914年にコルビュジエさんは鉄筋コンクリートの住宅建設法として「ドミノシステム」を発表します。

<ドミノシステム>
https://artscape.jp/artword/index.php/ドミノ・システム
「1914年にル・コルビュジエが提唱したドミノ・システムは、鉄筋コンクリート造の水平スラブと周囲でそれを支える最小限の柱、各階へのアクセスを可能とする昇降装置を構成要素とした住宅の建設方法であり、その後10年以上にわたりル・コルビュジエの設計手法の基礎をなした」
(注:スラブとはコンクリートの床板のこと)

ドミノシステム

「ドミノシステム」の発表は今から100年以上も前のことですが、この図を見ると、そんな気がまったっくしません。

日本の住宅などはまだまだ木造家屋が多いですが、街中で見かけるビルディングなどはほとんどこんな形をしていますよね。あれ全部、コルビュジエさんの工法なんです。

その後1922年に従兄弟さんと一緒に事務所を設立し、いよいよ独立します。

著書を発表したり、ちょっと遅めの結婚をされたりされた後、待ってましたコルビュジエさん、1932年にソ連のソビエト・パレスのコンペに応募します。


ソビエト・パレスのコンペティション

これまた面白いお話です。(参6)

1812年ナポレオンはロシアのモスクワに攻め入りました。ところが冬将軍に負けてしまいます。このことが彼のその後の没落の道を開いてしまったということですが、詳しくは省略しましょう。

こうして勝ってしまったロシアはこのときの戦没者を慰霊するために「救世主大聖堂」をモスクワ郊外の丘に建設することにしました(1824年、大コンペティション実施)。

あれやこれやありまして、敷地をクレムリン向かいに移して19世紀末になんとか建った「救世主大聖堂」でしたが、ロシア革命(1917)が起き、時の権力者スターリンは無神論者だったということで、1930年あたりから宗教弾圧を強めていく中、1931年に大聖堂は爆破されてしまいます。

そして「モスクワ再建計画」に基づき、この敷地には聖堂に代わって国家を象徴する「ソビエト・パレス(ソビエト大宮殿)」を建設することになったのです。

そこでまたも国家をあげての一大コンペティションが催されます。

コンペティションとはいえ、スターリニズム進行真っ最中のロシアのこと、社会主義リアリズムという国家主導の芸術表現指針がコンペ審査を隠然と支配していたわけですが、このとき世界のモダニズム建築家はまだそのことに気がついていませんでした。

ロシア以外のヨーロッパから招待されて応募してきたモダニスト建築家たちの案はコンペの第1段階ですべて落選させられてしまいます。

ル・コルビュジエワルター・グロピウス(Walter Adolph Georg Gropius、1883-1969、ドイツの建築家。あの「バウハウス」の創立者)、オーギュスト・ペレエーリヒ・メンデルゾーン(Erich Mendelsohn、1887-1953、ドイツのユダヤ系建築家)、ハンス・ペルツィヒ(Hans Poelzig、1869-1936、ドイツの芸術家・建築家)などがそうです。コルビュジエさんとペレさん以外はドイツの建築家です。

彼らはみな、近代建築の革命児であり、裏切られるとは知らずに理想主義国家建設の希望に燃えて新しい建築を構想しました。

中でもコルビュジエさんです。

「巨大なアーチから大ホールの屋根を吊るという大胆な構造計画にして、かつモニュメンタルな造形で群を抜いた。もしこれが実現していれば近代建築の最高傑作になったろう」

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これこそが、進路に悩む丹下健三さんが広島高校で見た美術雑誌に載っていたコルビュジエさんの作品でした。

前述したとおり、この案も落選させられたので実現はしませんでしたが、世界の建築家たちに大きな影響を与えたと言われています。


<丹下健三の広島平和公園のコンペ案>

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<エーロ・サーリネン(Eero Saarinen、1910-1961、アメリカの建築家)のジェファーソン・メモリアル・アーチ>

イエール大学ホッケー会場

(左は、エーロさんの母校イェール大学のホッケー会場、右がジェファーソン・メモリアル・アーチ)


ソビエト・パレスでコルビュジエさんの作品は実現しませんでしたが、その図を見て健三さんは建築家を目指したのですから、ソビエト・パレスという一粒の麦が地に落ちて、建築家・丹下健三が芽吹いたと言えるのではないでしょうか。

実はそれ以上に、「1個の模型に終わったソビエト・パレスの夢をどう実現するかが20世紀後半の世界の建築史の上での丹下の仕事だった」とまで言われています。

このことを含め、健三さんの今後の活躍についてはまた回をあらためて解読していきましょう!


参1:「世界の丹下健三 今村亨」
http://www.iciea.jp/i-news/pdf/75/i-News75-04.pdf
参2:「丹下健三とオスカー・ニーマイヤー」
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/228696/1/ciasdp61_16.pdf
参3:「コンクリートとは CMC」
https://concrete-mc.jp/concrete/
参4:「鉄筋コンクリートの歴史」http://library.jsce.or.jp/jsce/open/00037/426/426-120644.pdf
参5:「コンクリート建築の父」
https://note.com/104natsui/n/n008a10246171
参6:「ゲルツェンとロシアの風景」
http://www.kamit.jp/19_gerzen/prolog.htm


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