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【かごしま選手名鑑】#015 そらのまち保育園 園長 古川理沙さん

(インタビュー:SELF編集部 かつしんいちろう)
勝:今日は、よろしくお願いします。
古川:よろしくお願いします!

勝:早速ですが、りささんのこども時代って、どんなこどもだったんですか? どんなことに興味があってとか、しでかしたエピソードとか。

お母さまと理沙さんと弟の伸一郎さん

古川:両親が私が2歳か3歳の時に小さな飲食店をオープンしたんですが、近所の新設の幼稚園に(なぜか許されて)2歳で入園してるんです。
私は未熟児で生まれたこともあって当時は体も小さかった上に、一人だけ2歳。しかも第1期生ということで、きっと園の全員からかわいいかわいいと言われて育ったんだと思います(笑)
1年経って自分が園生活に慣れた頃にやっと同級生たちは不安を胸に新入園児として入園してくるわけです。必然的にりさキングダムですね(笑)。
幼稚園の頃の記憶はほとんどないんですが、一つだけ覚えているのは先生から「りさちゃん、女の子はスカートめくりなんてしちゃだめよ」と嗜められたこと。それなりにやんちゃだったんでしょうね。
実家の近くに自衛隊の駐屯地があり、当時はいまほどセキュリティもガチガチじゃなかったので、有刺鉄線を乗り越えてかくれんぼとか木登りとかしていました。いまだにその頃にできた傷が体のあちこちにあります。

後に王様と呼ばれるようになる理沙さん

勝:既に王様の片鱗が見えますね。学校での様子は?
古川:小学校のころは、歩いて通学するのが面倒でよく学校を休んでいました。学校が嫌なんじゃなくて、時間通りに朝起きて歩いて学校まで行くという行為自体が嫌でしたね。
中学高校は部活(吹奏楽)ばかり。
小学生の後半くらいから日本語教師になりたいと思っていて、大学も迷わずそのための学部に進みました。
問題児だったからでしょうか。いまだにたくさんの恩師たちから気にかけてもらっています。印象的だったのは、長女を出産してすぐに近所のスーパーで買い物をしていた時。全然知らない女性から「りさちゃん?」と話しかけられたんです。誰だろうと思っていたら「幼稚園の時のあけみ先生よ!冬生まれのりさちゃんが夏に赤ちゃんを産んだのね」と言われて。私は11月生まれ、娘は6月。卒園以来お会いする機会もなかったんじゃないかと思うんですが、25年経っても ためらわずに話しかけられるほど変わってなかったんでしょうね。誕生日まで覚えていていただけるなんて、とても有り難かったです。

勝:25年ぶりに会って憶えているとは、よほど印象的なお子さんだったんでしょうね。では、今まで出会った方で自分のキャリアに影響を与えた方を3人あげるとしたら、どなたでしょう?
古川:たくさんいますが、、、キャリアという点で挙げるなら、大学時代の恩師である関先生、新内先生のお二人。日本語教師の仕事を初めてすぐにアメリカの資格を取ったんですが、その時にお世話になったプリンストン大学の牧野誠一先生。大人になってからもたくさんの方にお世話になっていますが、私にひより保育園を作らせてくださった中島竜作統括でしょうか。

関先生(左)と新内先生(右)

勝:海外で日本語の教師をやっていたと伺いました。何故日本語教師をやってみようと思ったのですか?
古川:動機は不純で(笑)。最初のきっかけは小学校時代にクラスに時々来ていたALT(英語のネイティブ講師)との出会いですね。自分の母国語で歌を歌ったり、お菓子を食べたり、挨拶をしたりするだけでいいなんて、なんて気楽な仕事だろうと(失礼!)思って。当時は自分もアメリカ人に生まれたかった(そして日本でこの仕事がしたかった)と思っていたんですが、中学くらいで「自分も海外に出たら同じだ」と気づいて。大学で外国語としての日本語教育を専攻して、イメージしたほど簡単な仕事じゃないと気づきましたが、あの時そう思ったことがきっかけで今があると思ったら、そんな動機でもこの仕事を目指してよかったなと思います。
当時、最終的には日本で教員をしたいと思っていたので、仕事や留学で日本にくる学習者と同じように自分も海外で母国語以外の言葉で生活した経験がほしくて、韓国で2年半、中国で6年働きました。

鹿児島高専の生徒たちと

勝:日本語の教科書も書かれたとか。
古川:韓国時代は民間の日本語学校と、日本企業の現地法人。当時まだ若かったんですが日本語の教科書も何冊か書かせていただいたりしました。中国では大学と日本企業の現地法人。中国にいる間に日本語教師以外のことがしたくなって、深く考えずに日本でひとつ会社を作ったんですが、それがこの3月で創業17年目に入りました。日本では鹿児島の大学や高専などで留学生のクラスを担当して、実はつい3〜4年前まで教壇に立っていました。大学時代のバイトやボランティアまで入れると教師歴20年以上になります。

ひより保育園のホームページ

勝:保育園を始めたきっかけは?
古川:20代のほとんどを韓国、中国で過ごして。当時ちょうど日韓ワールドカップがあったり北京オリンピックがあったり。経済成長著しい時期にそれらの国に身を置いたことと、外から日本を見ていたことで、日本の教育ってこのままでいいのかな?と思うようになって。私の目にはそれらの国の若者たちの方が自力で自分の人生を切り開いていく力が強いように映っていました。これまで日本は日本の中だけで十分に生きてこられたけど、これからの時代はAIも発達して人が携わる仕事の種類が大きく変化するだろうし、言語や物理的な距離の壁が壊れて海外の優秀な人材と同じ土俵に乗らなければならない機会も増える。そう考えた時に、せめて自分の身の回りだけでも新しい教育の選択肢を作れたらと思い、そうであるなら一見時間がかかるけど、保育園から小学校、中学校と積み上げていくのが1番の近道じゃないかと考えて、その計画の第一歩目である保育園を作ってしまいました。
もともとは「せめて我が子には(よりよい選択肢を)」と思って始めた部分が大きかったですが、結局保育園ができたのは次女が小学校に上がる年で、間に合いませんでした。

勝:ひより保育園に続いてそらのまち保育園。今は、新しい小学校と中学校が一緒になった義務教育学校の設立構想のお手伝いをしていると伺いました。人を育てるあるいは人が育つのを手伝うことの使命感はどこからくるのでしょう?
古川:使命感といったような、かっこいいものは無いですね〜。
結局、人って自分がやった分しか自分のものにできないと考えると、私ができることって私自身の機嫌をとることくらいで、人のためとか、日本の教育のためとかあまりそういう動機は無いんです。
それでもやってるのは、単純に楽しいからですかね。大変ですけど。

勝:今、行ってみたい場所、会ってみたい人はいますか?
古川:少し前に、著書が世界賞をいただく機会があり、去年授賞式でスウェーデンに行ってきたんですが、そのご縁で今年スウェーデンで行われるシンポジウムでプレゼンをさせていただける機会を得て。その時に出会った方達を訪ねたりしながら、国外の先進的な教育現場を見て回りたいなと思っています。

スウェーデンでの著書の表彰式にて

勝:最後に、定番の質問です。焼魚とカツはどっちが好きですか?
古川:迷わず!カツ(勝)が好きです!三度の飯より勝が好き!(笑)

勝:今日は、ありがとうございました。


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