劣化した社会が進める五輪の意義とは?

 既に皆さんご存知だと思うが東京五輪の開会式の音楽担当にコーネリアスこと小山田圭吾氏が選出され、それによって過去サブカル雑誌で学生時代に障がい者の同級生をいじめていた(という優しい表現では収まらない)事を武勇伝のように語っていた過去が取り沙汰されSNS上で炎上して本人が漸く謝罪文(の体)を自身のアカウント内で掲載した。しかしそこにはもし当時の相手が許してくれるなら、とか(開会式の音楽担当を)本来なら辞任すべきだけど少しでも自分の音楽がお役に立てるなら、など自己保身に走ったものでとても容認できるものではないのが明らかだった。
私事になるが中学生の時に部活動の中で暴力を伴ういじめを受けた過去があるのでその雑誌を読んだ当時もすごく身体が引き裂かれる想いがしたし、彼が謝罪文を掲載した事実は認めても行った行為言動は絶対に許す事はできない。それなのに謝った体を取りながら自分にチャンスをくれ、という態度がありありと見られ火に油を注いでいる愚かな流れだ。
勿論彼が悪いのは当たり前なのだが、ではなぜ結構有名なこの過去を持つ彼を公の場所の代表として選任したのだろうか?
そこにこの社会、この国の劣化が見てとれる。
そもそも私は誘致の段階からこの東京五輪の開催は反対の立場だ。復興五輪と銘打ちながら嘘だらけのアンダーコントロールは勿論の事、これだけ感染者が増え、第5波か?とも言われている状況でコロナに打ち克った証、と精神論をぶち医療逼迫も叫ばれる中で敗戦が濃厚なシナリオを出されても進め一億火の玉、で突き進む国の方針には吐き気を催す次第だ。
そんな国だから例えば森前会長の発言があったり、広告ディレクターの佐々木宏氏のオリンピッグ発言というのが生まれる下地があるのだろう。そしてそれらが表面化すると決まって「差別は許されない」とすか「多様性を認めあい」などと定型文のような文言を出しその場しのぎをしてきた。
その場しのぎであるから今回の人選もできるのであって、劣化した社会が自分たちよりも少し劣っていたり、体制に丸め込めやすい人物を選ぶ、という一点でのみ選出しているから今回の事がおこるのだ。
そして公にある立場の側がいじめや差別を肯定した人間を公の場所に担ぎ出す事は社会全体がいじめや差別を容認してしまう事にもなる。私はそんな社会はまっぴらゴメンだし、そんな社会が作る五輪は今すぐにでも中止にしてもらいたい。

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