黒瀬令児と峰岸玄の貞淑逆転現象―クソデカ感情無罪と道明寺効果の猛威

『少年のアビス』の感想を、連載が終わる前にまとめて書いてみたいと思い立ったもののまとまらず、ほうぼうのレビューサイトを見たところ令児が悪い!という意見のあまりの多さ(当社比)に悲しくなり、一念発起して反論を試みたもののほぼ峰岸玄への怨嗟で埋まりそうになったゆえにこちらにまとめて隔離したのが本文である。

元記事:「少年のアビス感想—「魔性」とは責任転嫁のことばではないのか—|ぬめりけ @pokute55 #note https://note.com/sekken965/n/na530684f9cfd」


彼のファンや、キャラへの文句を見たくない方はどうか引き返して頂きけるようお願い申し上げます。

さて、本文を端的に言えば、どうしても『少年のアビス』評で納得がいかない点への長文お気持ち愚痴である。一応考察のていで書いているのは小見出しの「道明寺効果」らへんからなので、愚痴を見たくない方はそこからの閲覧を推奨します。(加筆もこの部分です)
要するに以下の状況が納得がいかなすぎて暴れているのだ。目下の不満は、黒瀬令児が淫蕩で峰岸玄が純愛などとよばれていることへの憤怒である
現在『少年のアビス』界隈では
憧れのアイドルに誘われた以降は、自分を汚いと思いながら家族と共に苦境を脱するために事実上の売春をし、幼馴染からの誘いは大切にしたいからと断って押されて結局抱いていない黒瀬令児がクズのやりチン呼ばれ
強姦未遂を二回やらかしてる(し明らかに手慣れているので控え目にみても確実に女性遍歴が荒れている)男が純情と言われるとんでもない状況が発生しているのである!

この現実に直面した際、私の中に芽生えたのはふー!おもしれ―現象!という想いと、何故こんな理不尽があっていいのか…!という怯えと憤怒であった。本文はほぼ後者で構成されている。

墓守の告白—殺人現場で突如始まるズッ友宣言あるいは恋バナ

まずは、黒瀬令児がひどいとされるシーンを振り返ってみよう。いわずもがな、69話墓守の告白前後の回である。この回では峰岸玄の涙ながらの告白に「どうしたらいい?」と答えた黒瀬令児に対し、たくさんの「あんなに一生懸命な告白に拒否さえしないなんてひどい!」的な意見が寄せられた。これはちょっと理解でき愛。自分を暴力で支配しながらストーカー行為を繰り返し、大事な女性を暴行した末に被害者面で泣き出した暴行殺人未遂半(教唆された殺人については情状酌量の余地からこの場では不問とする)に「どうすればいい?」と死んだ目で言うという一切責められない好意をした黒瀬令児がなぜ責められねばならないのか?
 これに対し「無視は喧嘩売る以上の暴力」や「からかうより無視する方がひどい」という言葉もあるだろうし、個人的にはそれに一定の理解がないではない。むしろ某ダンブルドア先生の「「あからさまな憎しみより、無関心や無頓着のほうが、往々にしてより大きな打撃を与えるものじゃ......」的言葉には、深く共感する次第である。しかし、無視より殴る方が酷い、なんてことは絶対にないと言いたい。シカトされると生きていけない状況下で完全に存在をシカトするのでもない限り、相手を眼中に入れないことが殴り貶めることより酷いなんてことはあり得ない。つまり友人を(極限まで被害妄想の高まった視点での言葉でも)「避けた」だけの令児が、それに怒り狂い暴力を奮い奴隷化した峰岸玄より悪いなんてことは、どうしても納得できない。まして、それまで暴力で死ぬほど追い詰められた子供に、暴力的になった友人を避けないでいろというのはあまりに無茶な相談である。(あと正直、親友面して家にあがりこんで自分の母のインナーを嗅ぐ奴を避けて何が悪いというのか、むしろ正直に言わないでおいてやるのは温情ではないのか?という気持ちもある)。
 峰岸の告白が純情で美しいという意見もあるが、私は恐怖を感じたというか、美しく描かれているからこそ余計に怖かった。私には峰岸の告白は「雨竜がが流されていった直後に「助けにきてくれると信じてた…」という夕子ちゃん」と同質か、それ以上におぞましいなにかにしか思えない。いま眼の前にある、何の罪もなくただただ自分の鬱憤のために人間ふたり殺そうとした状況で、お前は何故好きとか嫌いとか(解釈によっては惚れた腫れた)の話なんぞしているのか?
 一番近い感情は『黒執事』寄宿舎学校篇ラストの、殺人事件について「学校の誇りのために仕方なかった。わかるだろ?」と言う犯人(寮長たち)に対する「人殺しをしておいてお前は何を言っているんだ?」と愕然とするシエル坊っちゃんのそれかもしれない。無論この場合の「殺人」は黒瀬父殺しではなく、ナギ令児に関する暴行殺人未遂に対してである。今まさに理不尽に殺そうとした相手に向かって言ってるぶん、真相を知ったものへの弁解ともとれる黒瀬夕子や寮長の方がまだ理解が及ぶかもしれない。

無論これは、峰岸の好意と黒瀬父殺人への自己正当化がどうしようなく癒着しているという視点では理解できる――彼にとって「令児に肯定される(令児にとっての一番である)」ことは、己が正義であることと同義である。令児の一番の座を奪われるわけにはいかないのだ。そのせいで、令児の命さえその手で終わらそうとしているあたり、擁護する気にはならないけども。

・峰岸は不器用な男ではなく、狡猾な被害者ムーブの達人

 こんな峰岸の態度に「彼は正しい友情の形を知らないのだ、不器用で大切にしようとしてできないのだ。どうすれば仲良くできるかもわからないのだ」と擁護、転じて「そんなところがいとおしくてたまらない」という人も多い。
しかし私に言わせれば、彼は非常に自覚的かつ狡猾に黒瀬令児という少年を操っているようにしか思えない。何故なら彼が求めるものは「空っぽの令児」であり、それが保てなくなったことで無辜の女性であるナギ殺害(未遂)に踏み切っているからである。本当に彼の人格に価値を見出しているのであれば、あの頃(事件が起こる以前)のようにもどってほしい!とか言うのではないだろうか?
これに対し「そんなことはない、彼はナギに向けられる令児の意思に憤慨し“俺には空っぽの顔しかしない!”と嘆いているではないか。本音の本音では令児の意思を、中身を必要としているのだ」という反論もあろう。そして、私はそれ自体は否定しない。むしろ、だからこそ峰岸は大変に狡猾で、とても酷い虐待者なのである。

・相手を無視しているのは峰岸の方である

彼は最初、元友人とのいびつな関係が始まる時に既に「離れるという意思を無視している」のだ。令児が意思を出したら、殴って蹴って奴隷扱いして、その遺志を滅茶苦茶に叩き潰している。
くだんの告白時も、黒瀬令児はよくみれば何かを言おうとしている。また、その表情は虚無ではない。しかし、それを塞いだのはほかならぬ峰岸自身である。何も言うな、と泣きながら首を絞めるのはいかにも哀れに思えるが、実のところ

上司「ヘラヘラしてないで本音を言え!」
部下「では――(パワハラいい加減にしてほしいという顔)」
上司「何も言うな!」(部下の暴言で傷つけられ子供のように泣きながら殴る)

という暴君ムーブを、全力で被害者面してやっているだけである。これに呆れて、というか諦めてナギさんのことばかり考える令児の、何が悪いというのか?そして、そんなことをしたうえで、黒瀬令児が虚無の顔をすれば「自分の頭で考えろ!」という

俺は相手にもしてもらえない、無視されたのだと被害者面をするのである。これが横暴で卑怯でなくてなんだというのか?

次に89話のシーンだが、黒瀬令児がいざ理屈立てて自分の意見を言った時の反応である。お前の望みはかなえられない、という言葉に「俺がお前とやりてーとか言うと思ってんのか!」と反応している。これはかみ合った会話とは言えず、峰岸による「自分が肉体目的でつきまとっていると思っているのか」という被害妄想に基づく支離滅裂な反応であるといえよう。先行で被害者面をして、いかにも令児が不当な誤解で自身を貶めているというような展開に持ち込もうとしている。すごいちから(責任転嫁能力)だ!

・峰岸の罵倒がおまいうすぎるという話

峰岸玄のたぐいまれなる責任転嫁能力の証左として、暴言がある。峰岸は暴力もひどいが暴言もひどいのだが、これが殆ど「お前が言うな」というか、ひょっとしてブーメランに当たりたくてやっているのか…⁈というレベルで自分を棚に上げ過ぎている

・また俺に背負わせる気かよ!?
 峰岸がはじめて回想まじりに悲しき過去があるのを匂わせた、記念すべき理不尽罵倒。実際に自分が夕子おばちゃんに唆されてやったことを、何故か令児のせい!みたく背負わせているのは峰岸の方である。

・令児の「母親そっくりやな!アイツになんかすると思ってんのか?」
柴崎宅にてチャコのいる部屋を見ていた峰岸が、それを見ている令児に対すして行ったいちゃもんと罵倒。何も言われていないのに「俺がチャコに手を出すと思っているのか!」と被害妄想を爆発させたうえ、それに飽き足らず
チャコと関係を持った(と勘違いした)令児に対し「母親そっくりで淫乱だ!俺はお前と違ってチャコに手だしたりしない!」と罵倒するひどすぎる流れである。だいたいチャコの言い方からして「令児がチャコを襲った」わけもなく合意であり、むしろチャコから誘ったのは想像に難くない。そもそも無理やり襲ったわけでもないのに、いかにもチャコに危害を加えた風に言うの自体悪意に満ちている。また、自分はナギに初手で「セックスさせてよ」と声をかけ、強姦未遂までしているくせに(しかも手慣れた様子から常習である可能性が非常に高い)のに、なにを人の性事情に文句をつけているのか、どこまで自分を棚に上げれば気が済むのかと思わざるを得ない。しかもその後、普通にチャコを襲っているので令児の危惧は何もまちがっていないことを自己証明しているのが芸術点が高い。いやマジでこの一連の流れ、のちに「おれはずっとこいつだけ」とか言い出すのもあわせ、自分についてどう考えているのか脳味噌ひらいてみせてほしい。

・チャコへの「令児をイジケに利用しやがって」
 常に令児を夕子への鬱屈のイジケに利用しているのは峰岸であるのに、心から自分と違って嫌な女であると思える凄いメンタルである。

・俺はずっとこいつだけ!
令児を今好きな人、というチャコに対して。 いわずもがな、自己正当化の為に令児に乗り換えた奴がなにをいっているのかという話である。まあ百歩譲って、最初から令児本命だったと仮定したとしても、峰岸のやったことは「ずっとこいつだけいじめ倒してきた」である。少なくとも、友達としてはおおむね好きで仲良く励まし合ってきたチャコと自分を比べ、何故こんな図々しいことが言えるのか。


考察らしきもの

峰岸玄純情説を支える三本柱~道明寺効果・悲しき過去由来のクソデカ感情免罪符・夕子直伝エモ責任転嫁

ではなぜなんか峰岸の方が可哀想にみえるかと言えば、演出の問題であると思う。ものすごく雑に言えば、悲しい過去を開示し、大ゴマで大泣きしてクソデカい感情をさらけだし、ついでに主人公への好意をぶちまけたから、という風に考えている

・道明寺効果

 個人的に「偉ぶっている男が特定の相手への好意をぶちまければ何故かいろんなことが許される(普段偉そうな感じの男だと大幅加点される)」現象を、道明寺効果と呼んでいる。『花より男子』において、罪なき生徒の内臓をきまぐれに破裂させ主人公女子を虐待しても、最終的に牧野嬢にメロメロだとかわいい!となるあの現象である。昨今だと、グエル・ジェターク氏がそれに近いかもしれない(けど流石に道明寺と一緒にするのはどうかと思う)。現実だと、いわゆる「好きな女の子いじめちゃうのは仕方ないしほほえましい」的な感覚の延長線上にあるものかもしれない。
強い男がピエロになってガキくさいことをやっているのは面白いので、色々と寛容になれるというピエロを見る視点ともいえる。
これは「好きでやってしまうのだから好かれてる方は許してあげなよ!(むしろ許さないのは狭量では?)」という、次項のクソデカ感情無罪説の根幹にある被害者を責めることに繋がりかねない

・クソデカ感情免罪符―判官贔屓による加害被害逆転

 (前文で愚痴りまくった通り)峰岸玄がなんとなく許されがちな原因は、悪行が全て黒瀬令児への好意に基づいているように見えるからだ。というより、本人が悪いことをするときに「俺は普通でいられない=令児のせいだ」と思い込んで罪悪感を消しているのだから、読者がそれに誘導されるのも当然であろう(ナギを殴る時が顕著である)。普通に考えれば自分で責任を負わない分タチの悪さが増しているのだが、その際に「令児が好きだ」を枕詞にすると、何故かそれなら仕方ないという流れになるのが不思議である。
 ここまではまだいいのだが、責める気持ちにはなれないものの罪は残っているため「そもそも令児がわかってあげないのが悪い」みたいな流れになり、被害者のはずが加害者みたいになる恐怖の逆転現象が起こる。これはクソデカ感情を抱いている側が弱者(拒まれるといたく傷つく)であり、抱かれている側が強者であるという意識にもとづく判官びいきといえる。
 つまり令児は峰岸を生かしも殺しもできる権力(好意を向けられる精神的優位)を持っているのだから配慮してあげろ、むしろこれだけ思いを捧げられているのだから応えなければ不公平だという理不尽な要求さえ発生するのである。一方で峰岸は「弱者なのだから多少は多めにみてやれ」という声に守られ、暴力や暴言も追い詰められた結果なのだと免罪されうる。

・峰岸玄が許される理由―プロ悲劇のヒロイン黒瀬夕子を超える直弟子として

 はっきりと罪を犯している人間が被害者より同情される摩訶不思議な空間は、ある種の陶酔がなければ成り立たない。所謂悲劇のヒーロー、ヒロインになるのは、エモい演出が不可欠である。この演出を作中でする者といえば黒瀬夕子であるが、峰岸玄はさらに恐ろしい。なにせ読者にはその演出が看破されている(というか開示されている)前者と違い、後者は読者の同情すら勝ち取っているのである!これは峰岸が黒瀬夕子すらなしえなかった、自分ごと騙して悲劇の無辜の民として演出する責任転嫁の極意を身に着けたことにほかならない

黒瀬夕子と峰岸玄のそっくり加減
ひとつ考えておきたいのが、峰岸玄が黒瀬夕子にそっくりだという点だ。
・学生時から故郷で好きな人と暮らす一生を夢見る
・すぐ人を誘惑する割に自分を一途と思い込む
・けど嫉妬深く本命が他を見るの許せない
・殺人や暴力に抵抗が薄い
・加害した相手に対し被害者面
・心中に他人を巻き込むも、自分は本命のことしか考えてない
こうした共通点については、黒瀬夕子が(ある意味実子よりも影響を与えて)育てたのだから当然ともいえる。実際二人の被害者としての状況は、もしかしたら意図的にそう育てた実子よりも似ている。
・大人により利用され、幼少期に大人でも精神を病む役割を与えられる
・地元の問題のある家に生まれ放置気味で育つ
・不良学生になり荒れた学生生活を送る
・性的虐待被害者(父親の愛人に不倫の性的関係を事細かに教えられるのを含む)
このように黒瀬夕子と同じ渇望を覚え育った峰岸玄が、黒瀬夕子が自分用に自己満足の道具として育てた黒瀬令児を欲するのもごく自然なことといえる。しかし

狡猾なターゲット選択術
 
黒瀬夕子は一見無敵の魔性に見えるが、その実勝てる勝負しかしないからこその戦績ともいえる。彼女が狙うのは、すべて家庭に問題がある人間である。母親が睡眠薬を常備している雨竜、ヤクザの家の峰岸親子、家族に抑圧されて逃げたがっている柴崎、訳あり離婚で不安定な町の外から来た深見、父の不倫により病んだ母親と暮らす野添と、つけこめそうな人間にしかつけこんでいない。
 峰岸も同様で、勝てる相手にしか喧嘩を売らない。彼が殴るのは今のところ力で勝てる女性や、立場で勝てる令児のみである。何より元凶である(が絶対に罪悪感も同情も持ってくれない)黒瀬母でなく、何も知らない令児を責めて、必要なら罪悪感を小出しに植え付けて憂さを晴らす点から見ても狡猾に相手を選んで悪行に励んでいる。また、それをまるで友情故かのようにのたまい自分を正当化する点から見ても、師匠超えしているとさえいえる。

美しく演出される身勝手な好意
 黒瀬夕子の少女時代は悲劇であると共に、モンスターが生まれた前日譚でもある。機能不全家庭に育った少女が外部に愛情を求めつかの間の幸せを得るが、ついに決定的な事件が起こり、その影響で変質した精神により思う相手に避けられ、好きな相手への恨みが地獄の礎となる。しかしその様は非常に美しく描かれ、まるで恋する乙女の青春の1ページのように煌めいて、だからこそいやいや待て待て人死んでんねんぞ!というサイコな怖さにつながっている。
 これは峰岸玄の過去も同様だ。こちらはモンスター視点なのでさらに美しく、かつツッコミ不在の為なんかもしかしたら「令児への好き!に基づく要求は正しい主張なのか…?」と思わせるのでさらに恐ろしい。状況を整理すれば「夕子に令児をダシに騙されて酷い目に遭いました」という、令児になんの責任があるんだという話が、令児の魔性のせいだ…!みたく思わせられ、それにどうしろってんだよ…と答えた令児を「一番こいつが自己中!」「やっぱりあの母親の息子だけある」「ひでー男」のように罵倒するコメントまででてくる始末である。末恐ろしい師匠超えといえよう。

雑な結論と妄想―同性間で可視化される魔性の正体

 雑な結論として、峰岸玄は読者に対する自己演出力がものすごく高く、黒瀬令児は逆に低い。この差は、おそらく意図的なものである。
少年のアビス感想—「魔性」とは責任転嫁のことばではないのか—|ぬめりけ @pokute55 #note https://note.com/sekken965/n/na530684f9cfd
 
 でも愚痴った通り、少年のアビスというのは基本的に魔性に振り回される人々の話でありながら、その実「魔性と呼ばれ搾取される人間」を主人公としている。いろんなキャラが黒瀬令児に自分の不幸を押し付けることで、自分の不幸をエモに仕立てていく。そして峰岸玄いうキャラは、それが一番激しくかつ自覚が無い。繰り返ししつこく主張している通り、彼は明確な悪をもって息子を利用している黒瀬夕子以上に自分の世界に浸っているのだ。彼の中では本気で令児のせいで人生を狂わされており、令児は義務を放棄するひでー男であり、令児と一緒にいたいと願い行動する自分は無垢な幼子なのである。よって私は、全キャラの中で峰岸玄が一番怖い。この長ったらしい文章は、憎しみよりも恐怖で構成されているのかもしれない。


・おまけ:峰岸の本命は功罪に無関係である


 ところでコメントなどで「玄は令児と夕子どっちが本命なのか?」「夕子が好きだったらなんの正当性もないじゃん」みたいな議論をたまにみかけるが、個人的にはどっちでもいいというか峰岸の本質に関わることではないように感じる。令児の解釈通りであろうが、まったくの的外れであろうが、それで峰岸の評価は個人的には変わらない。彼がキャミソールを嗅いでいただとか。口紅煙草に口をつけていたとか、黒瀬令児のヌードをガン見していた疑惑があるとか、そんなことは峰岸の犯した諸々においては些末であると考える。まずプラトニックならばよい、セクシャルならば駄目、というのにはまったく納得できない。ましてや熟女専ならアリでBLはダメ、みたいな性対象により罪の軽重が変わるというのも賛同できない。気色悪いとか萌えるとか色々感想はあろうが、性欲それ自体に罪はないと考える。私が峰岸の性欲云々で主張したいことは「性教育って大事だよね」「あそこまで生理的に無理なことを我慢し他の件で腹に据えかねるまで指摘しなかった令児くんの忍耐と慈悲すごいな」だけである。
そもそも、少年のアビスという物語がきっぱりとどちらが好きとか、恋なのか友情かマザコンかプラトニックか性欲なのか、そんなことを切り分けるスッキリとした正解をくれるのは限りなく望み薄であると考える。実際は所詮性欲しかないと断じることもできず、やはり美しい愛なのだと感銘を受けることもできず、結局は都合よく利用したのだとののしることもできず、可哀想に利用されたのだと同情することもできず、一途なのだと言い張ることもできないが純情がないとも言い切れないような、後味の悪く胃もたれするがかといって吐き出すこともできない消化不良な複雑な感情なのだと思う。
(ただ別問題として、峰岸が黒瀬母子どちらが本命なのか?を推理するのは大変面白い題材である。どちらとともとれる描写が多く、談議がはかどりそうである)。
 問題は、峰岸が「誰をどう好きか」ではなく、それを言い訳にどれだけ酷いことをしたかである。正直初期は「いじめそれ自体も黒瀬母の指示なのではなかろうか?」と考え、そうであるならば罪が軽減すると思っていた。しかし実際は「避けられてムカついたから」であり、同情させてくれない脚本の鉄の意思に慄いた。峰岸は自分は一途で報われないのだ!という顔で、長年罪のない相手を虐待し、その周囲の女性に乱暴を働き、極め付きにはほぼほぼ無関係の確立が限りなく高い恋人を刺して逃亡中の癖になんか黒瀬令児令児(にまつわる自己正当化)のことしか考えていない。はっきりいってまともではないし、純情とも言い難い。


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