少年のアビス感想—ドロップアウト読者の失望と恥のかきすて

注意書き


※本記事は『少年のアビス』に対する、キャラクターではなく作品そのものへの不満が描かれています。そして普通にキャラクターについてもネガティブな感情が描かれておりますので、作品のファンの皆様、特に峰岸玄ファンの皆様におかれましては、閲覧注意の内容となっております。

峰岸玄ファンの方への感謝

 まずは本記事を書くにあたり、全記事に峰岸玄ファンさんからの嬉しいコメントを頂き、もう一度読者として少年のアビスという物語に向き合ってみたいという気持ちを浮上させて頂きました。正直読むのが辛くなり、文句を言いながら読むことだけはしたくないと読者であることをやめていたのですが、氏の「悪役は悪役として推す」という気概に胸を打たれ、ネガティブでも作品に頂いた気持ちを形にしたいと筆を執らせて頂きました。お陰様で、長い間居心地の悪く保留のままにしていた言葉が、ようやっと日の目を見て成仏できそうで、本当に有難く思います。


物語への失望の備忘録—美醜と善悪の不均衡

 さて、勝手ながら少年のアビスという作品に失望を禁じえなかった点は、とうとう峰岸玄というキャラクターを醜く描くことがかなかったというところに尽きます。被害者も加害者も弱者も強者も区別なく、誰しもなんらかの形で醜く描くという、とても厳しくて公平な清冽さが際立つ本作において彼だけが聖そのくびきから外れた点がとてもとても残念で、キャラクター一人の扱いにより全体が破綻してしまったとさえ感じております。唯一「令児への好意さえ自己保身の偽物だった」と描かれたことでさえ(個人的にはこれさえ「好意の有無に関係なく行動が最悪である」ということを誤魔化す=好意が真であるなら許されていたという展開と思えましたが)、後から好意は真実であったと描かれることで、むしろ美しさを際立たせる効果さえあったことも失望に拍車をかけています。
 ここでいう「醜い」というのは、読者にとって不快であるという意味です。そして「美しい」というのは、読者にとって快いという意味となります。
 例えば作中で醜悪な容姿である、という設定でもキャラクターとしては魅力的なデザインということはままありますし、逆に大変な美形という設定でも作中で重要でなく力の入っていないデザインという場合も然りです。本作の場合、黒瀬母が絶世の美女ということは絵的に非常によく表現され読者の間で毎回のように話題になりますが、設定上同じ位の美男子の筈の息子は殆ど話題ではありません。一度、主人公が表紙になった際、美しい評価スレが立っていましたがあまり盛り上がっておらず、否定はされないまでもそれに注目するようなレスは殆どつかず、スレ主も積極的に語る様子もみられませんでした。実際に、はっとするような美しいシーンが彼に宛がわれることは稀であり、作り手の意図としても読者の反応としてもメタ的に美しいものとして扱われていないように感じます。
 そして肝心の峰岸ですが、このキャラクターは非常に作画に注力がみられます。名シーンとして挙げられる告白シーンは勿論、病院で凪令児が話している時に見せた激怒の顔など、恐ろしくも圧巻の描写であると感嘆の一言でした。そして女装のシーンなどは作者の先生が直々に「最も描きたいシーンで、ここにたどり着けてよかった」というような主旨のことをおっしゃっているほどであり、本作でも屈指の愛情を込めて描かれたことに異存はないといえるかと思います。

共感により肯定される悪と理解不能により唾棄される優しさ


 またこの「醜さ」については、直接的な描画だけでなく、ストーリー上の印象においても同じことがいえます。読んで頂けた記事で散々に書き連ねたので割愛しますが、倫理で言えば圧倒的に(嫌な言い方ですが)マシな方の令児少年は不快に、一方行為自体はどうしようもなく擁護が難しく情に訴える形でしか庇えない峰岸の方は胸をうつように描かれています。実際にはそこまで悪いことをしていないどころかなるべく善かれと行動しており、精々流されやすいという程度の瑕疵程度しかなく、精神的に追い詰められてからも助力を拒んだり酷いことをした相手に反撃しているだけの黒瀬令児は読者に嫌われます。何故なら、ストーリーが遅々として進まない—メタ的に言えば進ませない為の汚れ役を任されており、読者を苛々と不快にさせるからです。主人公と言う立場も、本来メタ的にストーリーを回す存在になるべきだという先入観により、彼に対する不満の元になっているといえます。柴ちゃん先生はこの点ではむしろ爽快感を与える存在であり、停滞したストーリーを進ませ新たな刺激を与える役割を持ち、読者からの好感度を得る余地があるキャラです。
 そして肝心の峰岸ですが、彼は共感できるキャラクターとして、読者に感情移入という形での愛着や安心感という快の感情を持たれる役回りです。これは腹が立つだろうというところで怒り狂い、そりゃあ泣きたいだろうというところで泣き喚きます。勿論この共感は感情の動きに納得がいくというだけで、倫理的には非常に身勝手極まりないですがそれでも、いやだからこそ心をつかみます。個人的にはこの種の共感によってシンパを増やすキャラクターは恐怖を感じるので、それを肯定的に受け取る姿勢も怖いというか理解できず、気にかかって仕方ありません。
 ただこれは私が「論理的思考により、感情的に善悪を無視するどころか反転させてしまう読者を軽蔑している=地雷視している」というわけではなく、単純に私の嗜好としてこの種の演出に生理的拒絶を覚えるという所謂「お気持ち」でしかありません。そしてその「お気持ち」ですらも、以下の理由により、読者をそのように誘導する姿勢を取り続ける、作品への失望に繋がってします。


悪しように描かれる防衛機制の嘘とエモい八つ当たり殺人未遂


 そして本作で最も失望した、ドロップアウトせざるを得なかった点は「悪い方を美しく描き、被害者側を醜く描く」に飽き足らず、はっきりとした罪すらも軽重を反転させるという一線を越えてしまったことです。最も顕著なシーンは、刑事に対しての令児の嘘がいかにも重く悪質な行為のように描かれているところと、峰岸の彼女への傷害が何故か不問とされる点です。虐げてくる大人に反撃すれば「流石に夕子そっくりだ」と蔑まれる者と、虐げてくる大人に反撃できないのを弱者を殴り刺し犯そうとしてもさらっと許されあまつさえ被害者から「玄は被害者です」と庇われる者は、もう絶対的な立場の差が世界観として固定されているのが表れています。特に後者の玄彼女の扱いについては、本当に同じ作者が描いてしまえるんだという気持ちになり、彼の救いのエピソードのエピローグでしかない些事のように扱われていることが虚しくなりました。これまで夕子、そして秋山朔子というキャラクターを通して、些細なことから虐待まで含めて「男性の勝手に当然のように搾取され傷つく女性」を描いてきたのに、峰岸の彼女を通して平然と作中でその構造を作ってしまったのです。ろくな人物説明もされず可哀想な男の心の傷の八つ当たりを受け、傷ついた被害者としての描写すらされないまま、何故か不自然に峰岸を許し彼の前向きな未来のパーツとして扱われた女性です。これにより、私の少年のアビスという作品の評価は「構造に搾取される弱者とそのグロテスクな変容を描き切れなかった」を通り越して、お気に入りのキャラクターの為ならそれを踏みにじって良しとする作品となってしまいました。

峰岸玄の「清算」へのやりきれなさ—聖域化カモフラージュする手腕への畏怖と、比例する物悲しさ

 そして本作を読むのをやめてしまう程に耐えられなかった点は、こうしたキャラクターへの厳しさの一貫性の破綻を、素晴らしく美しく描くことで堂々と押し通してしまったことです。それを成り立たせてしまう画力含めた演出力により読者に納得させる手腕を凄いと感じ、それをこんなことに使うってしまわれるのかという失望がさらに深まり、作者コメントの「清算」という言葉でもうダメだとギブアップと相成りました。美しいだけにそのエゴとグロテスクさが際立つという意味では、まさに黒瀬夕子のごとしであり、さらに言えば峰岸玄のごとしです。以前の記事でも書きましたが、まだ黒瀬夕子はその美しさに比例する恐ろしさが作中で認知されていましたが、峰岸玄はその糾弾からも逃れて美しいものとして描かれているのがさらに恐ろしく思えます。そして、それが「清算」と認定され、既に彼の処遇に疑問の余地がなくなったことで、私の中ではついていけなくなりました。
 強い言葉を使えば、厳しい目線で搾取を描いてきた作家の方が、別の搾取は美しいものとして描いてしまうことが、直接的な搾取の肯定よりもっと悲しくやりきれない気持ちになりました。これからどのような物語が描かれようとも、玄と令児はじめ彼に虐げられた人々をあのような形で描き清算としたことで、私の中では破綻した作品になってしまいました。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?