言葉はでかい石碑と言った去年5月、けど

 自分が家で普段飲んでるものが、コーヒーでもなくカフェオレでもなく、ミルクコーヒーやったことを最近コメダコーヒーで知った。牛乳と砂糖ドバドバに入ったコーヒーでもコーヒーって言ってる。ペットボトルのカフェオレカフェラテって一口飲んだらもう後飲めんぐらい不味いと思ってるけど、寒いとつい買ってしまう。絶対でかいボトルじゃなくていいと思う。そう思ったらコンビニのなんたらカフェってうまいかも。でもそれ以外のコーヒーの味、酸っぱいかまろやかかぐらいしかわからん。

でかい石碑(先週)

 最近、言葉はでかい石碑だと思ってそれを頭の中で転がしていた。そして書きかけのnote(先週ぐらいの)があった。

 言葉はでかい石碑って言ってた。去年5月の自分が。言葉にすればそれはでかい石碑になって草原に突き刺さり、そびえ立ち、それを建てた者が強くなる、と。けど私はそれを、なんか嫌やなと思っていた。それがその人や環境において正しいにしろ、正しくないにしろ、言葉にすればとりあえずでかい圧力と存在感と説得力を持つということが、あまり気に食わなかった。それは、絵と写真をやっていたからでもあり、これまで言葉に言葉で応酬することができてこなかった悔しさや劣等感があるから、でもある
 でもそうあけすけに言葉を否定できるのは、言葉にすることの重要性が十分すぎるぐらい説かれているからでもある。言葉にすることには価値があり、言葉にできることは喜んで迎え入れられる。多くの人が、「そうそれ!」と共感できる言葉には金銭が発生する。言葉にすることで違う人間同士が共に働ける。違う人間同士が頭の中を共有できる。
 でもだからこそ、言語化できる能力がその中身を差し置いて持て囃されているような気が、どこかでする。言葉はラベルでしかないと思っている。頭の中身をビン詰めして、そこに貼るのが言葉やと。ラベルになんて書いてあるかより、ビンに何が入ってるかが大事なんでは、と思う。人が非言語で全てを理解しようとする風潮なら、このように言えない。言語に置換しようとしすぎてると感じるから、ちょっとそれは違うやろ、って言える。

 はたまた2021年11月の私は、「言葉にすることで可能性や余白を消し去ってしまう」と言ってた。例えば、自分の中のある感情を「怒り」だと言語化する。そしてそれは「怒り」だ!と認識すれば、それ以上に自分のその感情に対する考察の余地がなくなってしまう、と(だいぶ大層な物言いやね〜とか思ってしまうが)。
 だからといって、それで自分の全てを言葉にしないままやり過ごすことはできず、言葉にしないままやり過ごす方が難しい。大抵の場合、その感じるものがなんなのか、言語化して理解したくなる。そうやって片付いた方が実体のない不安が晴れて(晴れたような気がして)気が楽。正体がわからんものは怖くて気色悪いというのは多分だいたいそう。(正体がわからず怖くて気色悪いものに惹かれるのも好奇心という形であるけど)

 ごちゃごちゃ言ったけど、おれはとにかく言葉で殴ってくるやつらを殴りたい。それはもちろん物理じゃなくて… そのために言葉を使ってるのはハァ?て感じがする。じゃあ非言語でやるべきではないんですか?と言われたら確かにぃ…と納得してしまいそうになる。結局自分の頭にあるのは「意味そのもの」ではなく、言葉を介して入ってきた言葉でしかないのかも だから言葉を用いることでしかその言葉でしかないものを扱えないのかもしれない。それは、入ってきたものが自分の中に染み込んでいない(=非言語のものに変換されていない、「自分」の中で抽象化されていない)ということかも。自分の中で抽象化されたときに初めて、それは自分の中で「本当にわかった〜」「身になった〜」と言えるのかもしれない。
 頭の中に言語として取り込み、それが抽象化され、抽象化したイメージで「溶けて染み込んだ」みたいになった時、それが確実に自分の一部になったといえるのでは

でかい石碑(追記)

て、書いた。それからいろいろ思ったので、書く。

 上の文を書いてる時、「言葉はそれが生み出された瞬間に強大な力を持ってて、言語化できる能力が極端に持て囃されているような気がする」「言語化したものは強大な力を持ち過ぎて『言語化できなかったもの』を駆逐してしまう」ということを言いたいと思っていた。というのを今となってから感じたり思い出したりする。この2文を主に言いたかったのに、だいぶ蛇行して遠回りしてるとは思う。

 で、そう感じる理由として、絵や写真をやってきた、という理由をあげた。けど実のところ、投げかけられた言葉に言葉で対抗できず、グズついて逃げた過去を長らく引きずっているというのがほとんどな気がする。昔、あることでおれは問われた時に自分の思っていることを整理もできず、正直に言うこともできず、ただボロボロ泣くだけの人になっていた。年月が経って、おれはその出来事を悔しさと劣等感として理解している気がする。言葉で向かい合えなかったことは敗北感として残っているし、泣いて逃げたことで、存在を態度で否定したのに完全には否定しきれてないと感じている。それは半殺しにしたことになるのかと思う。また、受け取った言葉を理解できなかったことで自分の頭の悪さとその重篤さを身に染みて感じたこと、自分の意思を整理出来なかったことと正直なことを話せなかったこと、それは劣等感としてもある。その執念みたいなもの(はコンプレックスと言い換えられるかもやけど)は自分の中に深くあり、その完全に否定しきれなかった存在を言葉で否定したいと思っているのかもしれない。それこそ私はあの場で言葉を使いたいと思っていた、そして使えるべきだったとも感じている。
 だから、言葉にすることに否定的になる姿勢には、どんな理屈をつけようとしたところで、言葉にできなかった過去の自分の姿を肯定したいと言う思いが必ずある、と思う。自分の中でむしゃくしゃしている過去を肯定したい、過去の自分の言動を正当化したいと思っている。そうすることで安心したいスッキリしたいと思う。

何?

 ちょっと前に「お前は楽になりたいんか?」て聞かれてう、と唸ったけど、思えばおれはだいぶ楽になりたいのかもと思う。人間的に良くなりたいけど、それは人間的に良くなったら楽になれると思ってるからそう思うのかもしれん。逆に楽になりたいのは、もやついてることを消してスッキリさせていくことで余裕が生まれて人間的に良くなると感じてるからかも。楽と言っても自分で自分に納得していないけどごまかしごまかし生きる楽と、自分で自分に納得してこれで良いんだと開き直った楽がある感じがする。それでも自分に納得していないまま生きることを、大抵の人は良いものとしない… 良いものとしないけど、それを言葉にはしないけど、その状態から抜け出せないのはある…
 ずっと「まだ人生開き直るフェーズではないのでは?」と思ってた節があり、それも過去に向き合うことに歯止めをかけていた要因であったと思うけど、過去に向き合うことは別に開き直ることとは違う。現時点に必要な整理かと思います。はい…
 不幸になりたいわけではない。でも幸せになりたいか?と言われると言葉に詰まる。幸せになることは良いものであると、教えられてきた気がする。でも幸せの連続だけが人を豊かにするわけではない。じゃあ豊かになりたいんですか…?

言葉下手

 話戻ると、言葉にすることに否定的になる姿勢には、自分の中でむしゃくしゃしている過去を肯定したい、過去の自分の言動を正当化したいと思うことが含まれている。
 でもそれだけでもなく、自分が言語化が、特に瞬発的な言語化が苦手というのもデカめの要因としてある。最近人と意見を話す機会に恵まれているけど、それでもやっぱり反応の遅さを実感している。話のトピックスの該当箇所を脳みそから検索かけて引き出してくるのは遅いか的外れだったりするし、明瞭な言葉や文にならなかったり、まだ自分の自尊心が本心を語ることを阻害することもある。文字にする時も、やっぱり苦手意識というか、これで伝わってるんか、いいんかという気持ちがある。でも伝わりやすそうな型式的な文章、自分の考えを整理するのには全然向いてない。肩肘張った文章を書くとちょっとすごくなった気がして、そこでの自分は絶対何かを包み隠そうとする意識が働いてしまうし文章的にまとまりの良い結論を出してしまいがちなので。身の丈に合った文章、意識していきたい。おれは自分に「それが本心かどうか振り返りなさい!それ読んで自分の本心を汲み取れますかね!」て思いながら書いて欲しい。自分を整理する文章と人に何かを訴えたい文章は別で、どっちも叶えようと欲張ったら当たり障りのない文章が生成されそう ビックリマークが語尾につく歌詞や文は勢いあって好き、ので良く使います。

軽い結論

 そしてそんな言葉ができない状態で言葉を否定すること、それは多分、現在の自分を結構軽率に肯定したいということで… 過去と現在の自分をまとめて肯定しようとした結果、過去でも現在でも不得意な言葉というものを否定的に書くしか無くなってしまったのかもしれない。それだけではないと思います、という余白を残しておきたいとも思うのは、やっぱりそもそも言葉には余白があんまりないものだと感じているからなんだろうか。感覚的な話ですが、単語には余白がない気がするけど、文章には余白がある感じがする。ここでの余白の広さ、は多くの人に許容されているそれ(単語・文章)の解釈の幅なのかもしれん。比較的、単語には決まった意味があるとされていて、文章は解釈が開かれている…ような…


 自尊心を刹那的に保つには(自分の苦しみを取り除きたいだけの空間では)、他人の都合の良い言葉をその心境に応じてインストールするだけで良いが、人と関わっていく上とものを作る上ではやっぱ自分で検討した言葉を持っていることが必要… 世界におれと誰か一人しかいなければその必要もないんやけど、多数の人間と関わらねばならないので、自分が必要なんだと思った。世界に身を置いておく時の、自分のため・他人のために。またその言葉を頭の中に散らして浮かべるだけでなく話のタネとしてまとめておく必要があるのだと改めて思う。 それは人と話す際におれの言葉が下手で意味を伝えるのに言葉数とキャッチボールの回数が爆増してしまうなぁということを最近常々感じたからで… 人との対話、自分の中である程度まとまってるものを交える形が理想なんだろう。理想、と言うかその方がより進む。全然できないですが… 話ながら気付き、整理されていくことで精一杯感があり

石碑立てたい

 言葉がでかい石碑になることを否定的なニュアンスで書いたけど、そこにはずっと羨望のようなものがある。おれもでかい石碑たてたい!それは人と干渉したい、自分の生きた痕跡を残したい、みたいなコミュニケーション欲と創作欲に近いものだと思う。自分の言葉はまだでかい石碑にはならない気がする。でもそれが石碑になるかならんかって、おれだけの話ではないんですよ その言葉が放り出された場や向けられた人、によってでかい石碑になったりただの石ころになったりする。

これはそうかも

 書きかけ文に追記する形で書いてきたけど、これはそうかなと今も思う。

結局自分の頭にあるのは「意味そのもの」ではなく、言葉を介して入ってきた言葉でしかないのかも だから言葉を用いることでしかその言葉でしかないものを扱えないのかもしれない。それは、入ってきたものが自分の中に染み込んでいない(=非言語のものに変換されていない、「自分」の中で抽象化されていない)ということかも。自分の中で抽象化されたときに初めて、それは自分の中で「本当にわかった〜」「身になった〜」と言えるのかもしれない。頭の中に言語として取り込み、それが抽象化され、抽象化したイメージで「溶けて染み込んだ」みたいになった時、それが確実に自分の一部になったといえるのでは

結構表面だけをなぞりがちなのは、取り込むことに自意識と自尊心のせいで抵抗があるから、と思う。それを認めた上で、取り込んでいかなければ〜と


 ここまでダラダラ書いたけど、言葉のよくわからなさと信用できなさは、言い換えることで印象がガラッと変わってしまうことからきているのかもとちょっと思った。先が長い。
 余談で、Apple Musicの常駐プレリがSpotifyのやつに変換できるサービスで変換できて、嬉しいのではっ付ける。

おわり。

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