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白い球体が回ってた-20240115

 今日(1月15日)朝バス停まで駆けていたら、デイケアセンター前の道路脇の排水溝の蓋上で、BB弾ぐらいの白い球体が円を描くように回っていた。それは、放っておけばそこで永久機関のように回ってるのかとさえ思った。その排水溝蓋の1枚分のみで成立する、狭いルールなんかと。それを1日頭で反芻しながら今日は過ごした。(駅では、レジ袋が回っていた。つむじ風)

 昨日(1月14日)読んでいた本(鷲田清一『想像のレッスン』)に、「<不気味なもの>は、『実際にはなんら新しいものではなく、まだ見知らぬものでもなく、心的生活にとって昔から親しい何ものかであって、ただ抑圧の過程によって疎遠にされたもの』」とフロイトが言っていたということが書いてあった(2次情報…)。これはなぜかずっしり腑に落ちたような気がしている。そのことを回る球体を見た時に思い出した。

 最近は、よく夢を見ているが、覚えている夢は、たいてい何かから逃げていて、何かに見つかることを恐れている。何かに攻撃されることを恐れていた。バーコード読み機の赤い光から逃げる、家族から逃げる、そしてほとんどの場合、具体的に何から逃げているのかわからない そして、その逃走(闘争?)のフィールドは、上下に入り組んだ構造をしていて、カーブミラーがあって、フェンスがあって、身長ほど高さがある登れる?らしい段差があって、平たい美術館で、斜めの家で、巨大壁画とその裾に広がるプールで、薄暗い丸みを帯びた巨大な集合住宅で、逃げている私は迷路に隠れていて、玄関を追っ手が開けたらクモが落ちてきた(気がする)。今日見た夢は、体育館のキャットウォークで人に電話をずっとかけているが、ずっとつながらず、なぜか涙目になってきてしまい、やっとつながった時、相手は「それでは、」だったかひらがな4文字ぐらいの言葉を余韻たっぷりに言って、その語の言葉が長い間紡がれず、それを待っている私は、しばらくして、ああもう目が覚めるな、と悟っていっていた。
 夢といえば、熱を見る時に決まって見る夢がある、ということを何人かから聞いたことがあるけど、昔は自身にもそれがあった。今はあんまり それは体がタイヤで押しつぶされる夢と、タンスを開けたら白いレースがかかっている夢だった。夢のタンスは、ずっと、父が死んだ時に喪服を探している母をみて、自分は何を着ればいいのだろう、と無邪気に自身のタンスを開けた、その時のタンスだった(自分にも喪服があるのかと聞いたら、あんたは何でもいいねんと言われた) 。そこにレースがかかっている光景を夢で見た私は、嬉しかったことを覚えている。小さいころのことは仔細はわかりませんが、夢を見た時のそれが、悲しみの感情ではなく、嬉しいと似た方向の心の動きで、その夢が覚めたとき、それが夢だったことにひどくがっかりしたことは確からしく覚えていた。私は喪服のような、特別な服を着たかったのだろう。そのくらい、人間の死とか実感なかったのだろうと思う。いくら回数を重ねたとしても、葬式の時点で死に実感があることなんてなく、生活に戻っていくとその不在を知覚し、その状態に慣れていくだけなのだろうと、そうですね… タンスにかかっていたそのレースは、初めて経験した死という事実を多い隠すもののようにも見えるが、 こういうのはやりすぎると嘘くさいのでここらへんでやめます

 そういえば、今日空き教室を探していたら、人のキスシーンを偶然目にしてしまい、その時に感じたことをうまく言葉にすることはやはりできなかった。前に建物の窓からふと外を見下ろした時、横の建物の勝手口で人が抱き合っていて、それを見た時と同じだった。強いていうなら、見てしまった、という感覚がある。それ系で言えば「ピアス 拡張 失敗」で画像検索したのが一番後悔しました(絶対やめた方がいい)。
 人のラブシーンとか見たいものではないなと思った。フィクションでも、ちょっと気まずくないですか、あれは…とずっと思っている。どういう顔をして何を面白いとして見るもんなのか一生わからないので、家のテレビで深夜ドラマがついている時、私だけ心なしか挙動不審になってしまい、心に引っ掻き傷が3個ぐらい残るようになってしまう。
 パブリックな場を知覚しているから、そこに極めて個人的なものが挿入されると、それを強烈な違和感をもって受け取るのだと、思います。恋とか愛だとか、それは極めて個人的なもので、それらの行為は秘匿されるべきものではないのだろうかと思っている、のかもしれない。少なくとも、私はパブリックな空間を歩いているとき、それを知覚する構えをとっていない。


 「不気味なものは、昔から親しい何者か、抑圧の過程で疎遠になったものである」、それはある程度的を得ているのではないかと、思っている。回る白い球体も、記憶のタンスに仕舞われ、いつか何かの事象を絡め取るための網の一部になるのだろうと、思った。
 人の意識の奥に埋め込まれてしまったもの、やっぱりあるだろうと思うから、自身はいろいろ回りくどいことをやっているのだと思います。そしてそこにあるものは、言語で取り出そうとしても、結局取り出しきれず、歯痒く届かない思いをすることになり、そしてそれがまた何かぐつぐつと掻き立てられるものに、なっていくのではと思った。その時は学校の建物脇の通路、細胞みたいに集まって白く固められた砂利を見ていた。

おわり。


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