生活にバイト以外の起伏がなくなると、久しぶりに自分の調子になってきた。それは多分去年4月以来やと思う。刺激があり続ければそれに多かれ少なかれ影響を受けた形になるが、それがなくなるのは長期休みの特殊なところで、良いとも悪いとも言わんけど、まぁ、そういうのある。
春休みになったのに、労働が週に2〜3回あって、その合間を誰かと出かける予定が縫っていてあんまり一人で過ごす時間がなかった。長期休みは家でほとんどが過ぎるのが、通例やと思ってたから、普通に異常ではある。ずっとそんなだったので、何もない3連休があったとき、普通に鬱々としてしまった。ちょうど、自分がずっとウンウン唸っていた「自我が無ぇ〜!」と言うモヤッ…に自分の内で一部分蹴りがついて嬉しくてウキウキしていたら、その問題に抑圧されていた何かが顔を出してきて、落ち込んだ。一日中こたつに引きこもって、娯楽を飲み下す元気もなく、ただうめくなどしていた。鬱っぽい時、なんの娯楽も得る気力もなく、やべ〜という感想を頭で反芻するしかできないので大変やな、と思う。ふと、久しぶりにテトリスをして、剣持のホグワーツレガシー配信を見てたら、謎に元気になってきた。
ので、絵を上げているアカウントで、1年ぶりぐらいにスペースをやって一人でダラダラ喋った。それが妙に楽しかった。30分喋ったものを素起こししたら、5700字あって、おお、となった。30分あってもおれは5000字書けないので。まぁ素起こしなので、「うーん」「なんか」「でも」のオンパレードやったけど。それでも文字で書くのとは違ってあまり規定されすぎない感じがよかった。文字だと、ある程度の道があり、脱線しすぎると文章としてボロボロになるので。そこで話したことは、最近の頭の整理だったが、頭の中にあるものを文字でもなく文章でもなく音声にすることは、なんか良かった。自分が自分の声で自分の話をしてるのを聞くことは、自分のセルフポートレートを見た時と似た感じかもしれない。自分の位置から切り離された自分を見る時にあるのは、なんか、楽しいや嬉しい、そのどちらの一言でもしっくり来ないけどプラスの感情ではある。音声の素起こしはめちゃくちゃ時間がかかり、多分なんかのソフトでやった方が早いんやけど、自分で噛み締めつつ書き出すことは楽しかった。自分が話すのを客観的に聞く機会、マジでないので。あと、音声だとまとまってなくてもとりあえず話として成立するのは大きい、気楽に出力を。
あまりにも見るに耐えないかもしれないので、書き起こしたやつは文末に引用。
上で、自分の内面、自分が何について悩んでいるかとかをわからんぐらいにぼかして書いていて、なんのことかこれを読むだけでは全然わからん。けど最近、わからないように書く、というのにも表現はあるなぁと思った。このnoteが表現かどうかは置いといて。何かを書かないことにも、何かをぼかして書くことにも、何かの存在に置換して書くことにも、多分表現はある。というか、むしろそこに表現の大部分がある。自分が去年の1〜4月に書いていた詩的な文章にも、直接の表現を避ける姿勢が見て取れて、その「直接書きたくない」と言うのも出力されるものに表現として含まれていると感じる。
でも見る側としての自分を意識した時、つくる側があえて置かなかったものの存在まで意識して見れてるんか?という自戒がある。一つの作品との向き合う時間が少なくなることで、それに意識を配ることが難しくなる。ぱっと見で見えるものは表面上のものでしかないので、少ない時間で目の前のものを理解しようとすると、自分の脳内で既存の枠組みに分類するしか無くなってしまい、それをしようとしている自分の脳味噌を知覚した時、気分が悪い。その自分の脳味噌ルールで世界を整理し理解することが、一般的に大人になること・成長だと言われていることなのかと思えば、いつもなんとも言えない気持ちになるが。なんとも言えないっていうのは思考停止な言葉な気がする。けど、ものを自分の枠組みの中でしか理解できないようになっていくのが成長だとすればあまり成長したくないかもしれない。
それでも幼少期からは、感受性(?)がちゃんと死んできたなと思う。中学生ぐらいの時、自分の写真を撮られるのがめちゃくちゃに嫌だった。それは自分の容姿があまり好きでなく、それに関して開き直れてなかったのもあるけど、何より自分の目の届かないところで自分の姿が使われるのが嫌だった。でも今は撮られることをあまり苦と思わないので、何かが着実に死んでる、と思う。それは単に慣れと開き直りだと言えるかもやけど、変わっていくのは、ちゃんと何かが死んでいってる。そんな感じで、おわり。
最後に、スペースの文字起こしを一部引用(一部やけど本文と同じぐらい文量ある)
本当におわり。