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7 情報量を増やして考える

何かを発想するにあたっては、情報を遮断したほうがいい、とはよく言われます。情報があふれていると、あれこれ気が移って、考えがまとまらない、というのがその理由です。たしかに、一理あります。けれども、私はその意見には与しません。考えるべき問題についての情報・資料はたくさん集めたほうが良いと思います。気があちこち移ることで、考えがまとまらないくらいなら、情報を遮断して考えてみたところでたいした成果は得られないでしょう。

さて、集めた情報をどう扱うか、これにはちょっとしたコツがあります。一度ざっと目を通した後でほっておきます。根をつめて読み込むようなことはしません。あくまで、「ざっと」です。そうすると、覚えておくべきものは頭に残りますが、それ以外はさっぱり忘れてしまいます。忘れることを怖れてはなりません。それは忘れても構わないほどの価値しかなかったのです。

頭に残ったものは、自分の中に前からあった考えと結びついたりしながら、だんだん「発酵」していきます。あるいは、それを「核」として他のものが付着することで「結晶」を形作るのでしょうか。 そうした過程は、だいたい電車に乗っているときなどに起こります。つり革につかまって、ボーッと車窓を流れる景色を眺めるうちに、その問題が頭の中で少しずつ形を変えながら、考えのタネのようなものへと育っていく。このプロセスは、自分で操っていると言うよりも、「向こうから、やってくる」という感じです。

集めた情報のうち、すぐに忘れてしまうものは、それはそれで良いといいましたが、実は、発酵や結晶の行われているときに、どこかで効いてくるということもありえます。初めてのテーマであっても、情報をたくさん集めておいて、そのシャワーを一気に浴びると、その問題を見ていく上での視角の定め方といったものが感じ取れて、それだけで収穫です。 そんなものは、旧来の考え方をひきずる重しになってしまうと考える方もいるでしょう。ところが、そうはならない。

なぜかといえば、一定の視角がなければ、物事の筋道は見えません。古い枠組みでも何でも、一回は、その立場から流れをとらえてみないと、新しいテーマに接近することはできません。 ともかく、ある視角からのぞいてみる。すると、時には、内在的にその見方ではおかしいのではないか、矛盾があるぞといったことも、分かってきます。

いずれにしても、情報量を集めてみると、「ああ、この世界も、色々とあるんだ」と分かります。今なら、新型コロナウイルスに対する各国の考え方、対処の違いなどを追いかけると、素人なりに色々と見えてくるものがあるでしょう。何事も、手元に手がかりになる情報がないのに「わたし的には、こう思う」などといっては危ういと思います。

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