雑感(小難しいエッセイ的ななにか。『凡庸な物理学徒の悩み』の盛大なネタばれやらDJパーティーのことやら)

なにか書き残しておきたいと思ってこうやって書き出すものの、自分の思っていることがちゃんと伝えられる文章が書けるか不安でならない。ただ言葉というのは常に誤って伝わるものだし、それは一瞬先の自分(いまの自分にかなり似ているにしても他者には違いない)に対しても同じなのだから、そんなことを心配してもしょうがないのだと思う。どうしよう、もう170文字も使ってしまった。本題に入ろう。

といってこれが本題といえるほどまとまった考えはなくて、だから書きながら考えてみたい感じでもあるのだけど、これを書こうと思ったきっかけはといえば間違いなく『父』のこと。といっても横浜で暮らしている自分の父のことではなく(それも関係するはするのだけど)、抽象的(哲学的ともいえる)な意味での『父』のことだ。抽象的な『父』ってなんなのか? ちゃんと論じだすと本が何冊あっても足りないかもしれないが、ここでは簡単に、周囲を引っ張る存在、ある集団をまとめ上げる精神的な支柱という感じでお願いします。江藤淳のいった(らしい)「戦後において父が死んだ」とは超雑に言えば、敗戦によってそれまで家族をまとめていた『父』が戦後に弱まり、強い父親像というものが描けなくなった。……なんて書き出したはよいのだけど、やっぱり孫引きはよくないし、日本が敗戦で自立性を失ったとか、第二の父としてアメリカをいただいたとか、だから日本人は根無し草なのだとか、そういった議論も当然関係するとはいえ、そこまで話を大きくもしたくないし、たぶん全然間違って引用しているので江藤淳はとりあえず忘れてくれ。

とにもかくにも問題は『父』だ。『父』が気になってしょうがない。なにがそんなに自分の心を捉えるのか。そもそもなんでこんなことを考えだしたのかといえば、小説を書いていて頭に浮かんできたからなのだけど、それはたぶんDJパーティー(2月11日日曜祝前日オールナイトで渋谷頭バーでやります。よろしくどうぞ)をなんで開催するのかということとも関わる。まず小説のことから。いま書いている小説についてはここで中身を話すことはできない。チーン、終了! いやまだ書く。細々とは話せないけど、大きく『父』の不在というのがテーマとしてあるなと思う。といっても小説を書き出したときにはそんなこと全く考えてなかった。最近になってそうかもって気づいたとき、自分で結構驚いた。しかし思い返してみると、自分は前から『父』の不在をテーマに書いてきたのではないかという気がする、というかいまではそう確信している。

ほとんどの人が読んだことがないのにアレだけど(デビューしてないのだから当然だけど)、他にしょうがないので『凡庸な物理学徒の悩み(ここで途中まで読めます)』を例にあげる。読んでくれた人にはわかるように、あの小説には父が登場しない。主人公を全肯定する母だけが登場する。その母の庇護のもとぬくぬくと育っている主人公が、まず数学に後に物理学に出会って、同時に数学や物理学の天才たち(ガウス、ガロア、アインシュタイン、ボーア)の存在を知り、自分も学問の道に歩み出す。というのが、大きな筋としてある。学問を志す主人公だけど、悪友の誘惑や恋愛など要するに普通の人が思春期に体験するごく当たり前の欲求と学問との間で板挟みになる、俗と聖の間を行ったり来たりするという、ドイツ教養小説の王道を地でいくような小説が『凡庸な物理学徒の悩み』なのだ(勢いで520枚くらい書いたものの、後で見返すと拙い表現のオンパレードで何度か全面的に改稿したものの、たぶんいま見返したらまた全面改稿したくなる。ので、もう読み返さない!)。で、頭の話に戻ると、この小説には主人公の父が登場しない。では『父』が関係ない小説なのかというと、めちゃめちゃある。小説をもとに『父』の関係を語りたいので概要を説明する。

小説の主人公は最初、中学で桂木君というとても頭がいい少年に出会って数学者の道を志す。いろいろあって高校の途中で桂木君と決別し、その道を断念する。しばらく腐っているのだけど、高校2年でアインシュタインを知り、さらに大学に入って柴さんという助手と出会ったことで、今度は物理学者の道を志す。が、これもいろいろあって断念することになる。しかしまた大学三年で秋津という新任の助教授に出会って物理学者の道を再度志すことになる。秋津助教授と柴さんのサポートを受け、すくすくと伸びていく主人公なのだが、小説の最後で大きな試練に見舞われる(どんな試練かは読んでください)。万事休すと思われたとき、柴さんの中に自分と共通する部分(自分の似姿)を見出し、物理学者の道を歩む決意を新たにする。というところで小説は終わる。

こんなまとめを読んでもちんぷんかんぷんかもしれないが、主人公が他人の影響を受けやすい人だということはわかってもらえると思う。そう、この主人公は頼りなく、常に寄りかかる先を探している。それで導き手に出会うのだが(導き手と自分の違いを痛感しついていけなくなったり、学問とは別の欲求になびいたりすることで)挫折して、しかししばらくすると次の導き手に出会う。で、また挫折する。構造的なことを言えば、この小説はその繰り返しでしかない。

主人公は偶然導き手に出会う。その出会いによる主人公の変化と、そのことによる周囲への影響がこの小説を駆動しているのだが、このようなダイナミズムが発生するのは主人公の特殊な(といっても、実をいって人それぞれみんな独特なのだけど)性格に起因する。それはどんな性格か? 主人公は導き手と出会う度にこの人との出会いは必然だった、自分は運命に導かれたのだと、いってしまえば勘違いする。なんでそんな思考になるのか? それは主人公がもともと自分を引っ張ってくれる存在を求めているからに他ならない。ここで『父』が絡んでくる。父が出てこない(といっても、主人公が洋楽を聞き始めたのは父がきっかけという設定だけはあるのだけど)この小説なのだけど、主人公は常に『父』――自分を引っ張ってくれる存在を探し求めている。そして実際に探し出す。それが桂木君だった。しかしついていけない。次は柴さん。やっぱりついていけない……『凡庸な物理学徒の悩み』というのは、『父』を見つけ出したという確信をいだき、しかし結局は裏切られる(と主人公は思う)話でもある。

だが上記したように小説の最後、主人公は『父』(柴さん)の中に自分の似姿を見出す。そのことに救われ、新たなスタートを切ることになる。つまり一方的に『父』を求め続けてきた主人公だが、終いに『父』(柴さん)も自分と共通点があるのだという気づきを得て、自分もその道を歩めばいいのかもしれないという淡い予感をいだき、そのことに救われてエンディングをむかえるのだ。別の言い方をすれば、永劫に続くかに思われた『父』探しが、主人公の『父』となる思いによって終焉するということ。

じゃあ本当に主人公は『父』になることができるのか? 『父』になるとしてどんな『父』になるのか? 主人公が『父』になるのだとして、それはどんな『家族』(『父』に対応する『家族』も論じだすときりがないものに違いない。が、ここでは『父』に導かれる何らかの集団という程度の理解でお願いします)なのか? 『家族』との関係は? 尽きることがない問いが生まれてくるのだけど、そのことをこれから小説(いま書いているのはもちろん、その次も)に書いていくんだろうなといまは思っている。

で、DJパーティーのこと。なんでこれをやろう、やりたいと思っているのか? まずは話に必要なので超簡単な自己紹介から。自分のこれまでについてはここにもざっくり書いたように、大学院までいって中退してクラブ(新宿ローリングストーン。略してストーン)通いしてDJして、ストーンが終わって小説を書きだした、という感じ。なのだが、週に何度もストーンに通った体験というのはそれはもう強烈だったわけ(どう強烈だったかは短い文章では伝えられない。だからいま小説に書いている)。ストーン自体は2014年の11月(ということは9年と2か月前)に閉店したのだけど、たまに鮮明にある場面が頭を過ぎるくらい。

そこでDJパーティーの話に戻ると、今度やろうとしてる『BURN OUT』というパーティーは去年の8月に一度開催していて、今回からリニューアルして2回目の開催になる(場所が変わり、メンバーも自分以外変更となってる)。メンバーは自分だけ40代で、他は20代が3人と30代1人。中には自分の子供でもおかしくないほど年が離れている人もいる。当然(でもないかな?)ストーンに遊びに行ったことがある人は一人もいない。でもメンバーはみんなロックが好きで、たくさん聴いてるしクラブにも遊びに行っていて、彼らから学ぶことが多く、話していると年の差を感じることはあまりない。面白いなと自分事ながら思う。いまはロック、特に洋楽ロックは完全に下火で、ポップやヒップホップ、あるいはテクノでもハウスでもいいけど、そういう別ジャンルの音楽の方が流行ってるわけ。それなのにロックを接点に、クラブという場所でたまたま繋がることができた、しかも一緒にパーティーまでやるというのは奇跡(感謝!)といっても過言ではないと思う。ただ急いでつけ加えなきゃいけないのは、それもこれも自分の、どうしてもロックDJパーティーがやりたいんじゃあ! という独りよがりな、熱い思いからスタートしたということ。

ここまでの議論をもとに上記の問い(なんでそんなにロックDJパーティーがやりたいと思ったか?)に答えると、これも小説同様完全なる後づけなんだけど、きっと『父』が関係している。簡単にいうと伝えていきたいんだろうね。自分で背負う、引き受ける、つまり『父』になろうってわけ(これまでそういう立ち位置から逃げ回ってきたのだけど)。失われたものを再現して次世代に繋ぐとかいうとめっちゃ堅いけど、自分が散々体験してきた熱狂を再び生み出したいという思いは間違いなくある。それは誰も知らない音源を客に聞かせて優越感に浸りたいというようなスノッブ的な欲求とも、DJがどうでも音楽がどうでも(テクノでもヒップホップでも)ただ騒げればいいというパーティー馬鹿的な欲求とも完全に無縁とはいわないけれど、まあおおよそ違っていて、ほんの少しであってもロックミュージックを媒介として繋がりたいという欲求なんだと思う。そのために最新のインディーロックに重点をおくのは当然としても(クラブは新しい音楽を聴く場所だという考えは根底にある)、クラシック(50年代だろうと60年代だろうと70年代だろうと)も、それらがどれだけベタであろうとかけるつもり(←自分はね。他のメンバーは知らん)。むしろあなたの好きを教えてくれ(←これも自分だけ)!

やっぱり長くなった。
ここまで読んでくれた人がいたら、ベリーサンキューです。

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