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【長編】凡庸な物理学徒の悩み(試し読み)

まえがきにかえて

 前からnoteで出す出すと言っていた長編小説ですが、ついにAmazonのキンドルで販売開始しました! パチパチパチッ! タイトルは『凡庸な物理学徒の悩み』です。冒頭から原稿用紙50枚ほど(全体の十分の一ほど)をこの記事の下の方で試し読みできます(縦書きの試し読みはキンドルの『無料サンプルを送信』からどうぞ)。是非是非読んでください。そして試し読みを読んでよかったら、Amazonで購入して全部読んでください(※2021年1月18日17時から23日17時までは無料でダウンロードできます)。

 この小説はいわゆる純文学です。そういうのを読んだことがない人からしたら、とっつきにくく感じるかもしれません。また、この小説には数学や物理が登場します。数式や、物理あるいは数学に関する知識が出てきます。そこもとっつきにくく感じるかもしれません。ただどうか、その部分で駄目だ、自分には向かないと、本を閉じないでください。数学や物理が理解できなくても小説を楽しむことはできます(逆にもっと詳しく知りたいという人には、巻末の『参考文献』に、小説を書くのに参考にした書籍や、小説に登場する物理学の研究内容を理解するのに必要な論文などを挙げたので、そちらをチェックしてみてください。これを機に数学や物理にはまってしまうかも)。僕は特定の人に向けて書いたつもりはありません。数式などはわからなければ読み飛ばしてもらっていいです。それでも話はわかります。文章も難しいことはないと思います。どうぞ大らかな気持ちでお付き合いください。

 最後にキンドル版の読み方について、ちょっと蛇足を。
 まず、みんな知ってるとは思いますが、これまでキンドルで本を読んだことがない人のために。スマホかパソコンさえあればkindle専用端末がなくてもキンドルは読めます。キンドルのアプリをダウンロードすれば、Amazonで買ったキンドル本がスマホやパソコンで読めます。
 次にこの小説のおススメの読み方。この小説、全体は原稿用紙519枚あります。なので、キンドルではなかなか一気には読めないと思います(普通の本でもこの分量を一気は難しいです)。いい読み方があります。全体が14のセクションに分かれているので、一日か二日、あるいは三日くらいで1つのセクションを読んでいくとよいと思います。1セクション平均、原稿用紙三十枚から四十枚くらいなので、ちょうどよいかと。目次から14個の各セクション(その後13個のセクションにしました。11と12をまとめました)の冒頭に飛べるので、どのセクションまで読んだか覚えておけば、続きには目次から移動できます。あとフォントは少し小さめに変更した方がいいかもしれないです。一度に目に入ってくる情報量はやっぱりある程度多い方がいいかと。スマホとかだと見にくくはなるので、それとのトレードオフですが。

 長くなりましたが、試し読みスタートです!
 ※試し読みは横書きですが、キンドル版はもちろん縦書きです。
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     1

 その古本屋の店内は静かで、一歩足を踏み入れると、背伸びして手を伸ばしても最上段に届かないほど高い棚に、上から下まで理系の専門書がびっしり並んでいるのが目に入った。僕は落ち着かない気持ちで店内を見回して、目的の数学書がある棚を探したが、目に飛び込んできた本を手にとって開いてみたり、棚に入りきらずに床に直に積まれている本があると、しゃがんで本の題名を調べ始めたりしてなかなかすすまない。視線を感じて、さっと顔を右に向けた。だが右隣の棚の前には誰もいない。すぐに頭を左に回す。左隣の棚の前では紺のスーツを着た、いかにも品が良さそうな白髪の老人が分厚い本に見入っている。僕を見ている人など誰もいなかった。それもそのはずだった。神田にあるこの古本屋はいつも数人しか客がいなかったから。それでも、高校に入学してまだ日が浅かったそのときの僕には、古書に取り囲まれているだけで誰かに見つめられ、試されているように感じられた。
 ようやく数学の本棚を見つけた。『初等整数論講義』という題名の本を手にとって、周囲が黄ばんでいるページをめくると、古本の匂いが濃く漂ってきた。本には数ページごとに鉛筆で細かい書き込みがしてある。ぱらぱらとめくっていくと、後ろの方のページで止まった。しおり代わりだろうか、切り抜きが挟んである。切り抜きには人物のスケッチが印刷されている。頭を短く刈り込み、口の周りや顎には立派な髭を蓄え、右前方を眼鏡越しに眼光鋭く見据える、初老と思われる人物のスケッチだ。それを目にした瞬間、僕は囁くような戒めの言葉が頭に響くような気がした。その大きな瞳は、僕の表面的な印象や取り繕った態度の向こう側、僕自身が気づいてもいない思考の奥底まで見透かしているように思われた。ひょっとすると自分の五年後、十年後の姿まで見られているのかもしれない。店内の空気が急に薄くなった。切り抜きを見つめれば見つめるほど、腹の辺りから熱いものが上ってくるのを感じる。目を逸らそうと考えれば考えるほど、その切り抜きに見入ってしまった。無理やりに上体を起こし、本から体を遠ざけた。体にまわった毒を吐き出すように大きく息を吐いて本を閉じると身震いがし、腕を見ると鳥肌が立っていた。

 僕がこの日購入した『初等整数論講義』は、中学の同級生だった桂木君が読んでいた本で、そのころの僕にはとても読める本ではなかった。そもそも僕は、中学三年の夏休み明けまで数学に特別な興味をもっていなかった。
 数学に興味をもったきっかけは、数学の授業で出題された正四面体の体積を求める問題を、桂木君が解いたことだった。本来その問題は高校で扱う内容だったが、教師は難しい問題を出題して自分が解くことで、自分に対する威信を高めようとしたのか、あるいは塾の勉強で遙かに先の内容まで知っていて、全く授業に興味がないように見える生徒、特に桂木君に刺激を与えようとしたのかもしれない。ともかく桂木君は指名され、黒板の前に出てくると立方体を描き、上の面の正方形に対角線を一本引き、重ね合わせればその対角線と交差するように立方体の下の面の正方形に対角線を一本引き、さらにそれぞれの対角線の端を側面の正方形に対角線を引くことで結びあわせて、立方体の中に正四面体を描き出した。そして立方体から正四面体を除いた部分は、体積が等しい四つの三角錐であること、その三角錐の体積を引くと、正四面体の体積が立方体の体積の三分の一になることを示し、正四面体の体積をあっという間に導き出したのだった。
 教師は、エクセレント! と声を張り上げて拍手をした。それにつられてクラス中から拍手が起こったが、桂木君は黒板の前で恥ずかしそうにもじもじしていた。その姿が僕にはとてもカッコよく映ったから、その日の放課後、そそくさと桂木君の席まで行くと、無視されたらどうしようという不安を抱きながらも、そんな様子を見せないように陽気な調子を装って話しかけた。
「桂木君って凄く数学ができるんだね。僕なんかあんな解答、とても思いつかないよ」
 桂木君がこちらを見上げた。後頭部の寝ぐせが凄いことになっている。
「ああ、あれね。あれくらい塾で習って誰でも知ってると思うけど」
 そうぶっきらぼうに答えると、すぐに手にしていた本に視線を戻した。
 桂木君は僕と同じで普段クラスで浮いた存在だから、からかわれていると思っているのかもしれない。そう思った僕がさらに、
「いやいや、塾行ってる奴らも全然手を挙げてなかったじゃん」
 と、こちらの真剣さが伝わるように真顔で言うと、桂木君はまたこちらに顔を向けた。「まあちょっと変わった解法だからね。あんまりみんな知らないかもね」
 これを機に僕がすぐに、何の本読んでるの? と訊くと、あ、これ? と桂木君は驚いた表情を見せてから答えた。
「これは『若き数学者のアメリカ』っていうエッセーだよ」
「へぇー、どんな内容なの?」
 桂木君は眼鏡越しに探るような眼差しで、僕の顔をじっと見つめた。
「若い数学者がアメリカで苦労する話」
 桂木君はそっけなく答えると、また本に顔を向けた。
「なんで苦労するの? なんか困難にぶちあたったりするの?」
「本当に知りたいの?」
 桂木君は本から顔を上げ、怪訝な表情で僕を見た。僕が大きく頷くと、ようやく本当に興味をもっているのが伝わったのか、桂木君の表情がぱっと明るくなった。
「最初ミシガン大学に研究員として招かれるんだけど、周りが秀才ばっかでだんだんと鬱々としてくるんだ。それで太陽を求めてフロリダに行くんだけど、そしたら嘘みたいに元気になるんだ。研究も順調に進んでね……」
 桂木君は嬉しそうに微笑みながらひとしきり話すと、僕にその本を手渡した。僕が桂木君の前の席に後ろ向きに座って本を読み始めると、桂木君は興奮を隠しきれないといった様子で語りかけてきた。
「そうかあ、数学に興味をもったんだね。そうなんだよ。君がどう感じてそう思ったのか、どこまで本気なのかは知らないけど、それは当たりだよ。数学は面白いんだよ。まあ、君はちょっと面白いなと思った程度のことなんだろうけど」そこまで言うと、右手を左右に素早く振ってつけ加えた。「いや、構わない構わない、最初は誰だって、ちょっと面白いと思った程度で始めるんだから。最初の一歩を否定することなんて誰にもできない話さ。いや、それにしても数学に興味をもつ人がこのクラスに、いや、この学校にいたとはね。それが驚きだよ」
 桂木君はにこやかに話したが、僕は桂木君のことを知らなかったため、その気持ちを汲み取ることができなかった。桂木君が親しみを込めて語ったことが、僕には上から見下して小馬鹿にしているように思え、かえって僕を遠ざけてしまった。
 僕はわざとへりくだった返事をした。
「そうそう、どうせ俺なんか数学も2か3だしさ。ちょっと面白そうだなって思っただけなんだ。同じ中学にいるからって、桂木君みたいに才能ある人と同列だとは思ってないから。桂木君はやっぱ数学者になるの? ノーベル賞とか狙っちゃったりして」
「数学にノーベル賞はないよ」
 桂木君の態度が急に変わった。浮かない顔をしている。ため息をついた。うつむき加減で苛立ちをなんとか抑えようとしているのが伝わってくる。
 桂木君は顔を上げると、先を続けた。
「それに僕には才能なんかないよ。才能という言葉はふさわしい人に使わないと、相手をどうしようもなく惨めな気分にさせるものだよ」
 そこで桂木君は言葉を切り、僕は軽く深呼吸をした。桂木君は僕の胸のあたりを見て黙っている。どうしてかわからないけど、怒っているようだ。なにかまずいことでも口にしてしまったのか? わからない。やっぱりいつも一人でいるだけあって、相当な危険人物なのかもしれない。うかつだった。軽く挨拶して帰ろうか。あんまり親しみを込めないようにしよう。悪い印象をもたれないように、それでいて気楽に話せるという印象をもたれない程度に距離をおいた挨拶がベストだ。そんな風に考えて、僕が椅子から立ち上がろうとしたとき、桂木君は再び僕の顔をチラッと見て視線を下げ、堰を切ったように話し出した。
「インドの数学者でラマヌジャンという人がいたけど、彼は寝て起きると、朝いくつも新しい定理を思いついているんだ。でも、まともに学校教育を受けていないラマヌジャンは、証明の仕方もろくに知らない。証明をするようになっても、いくつもステップをとばして、周囲の人がとばれされた箇所の証明の仕方を訊くと、そんなの自明じゃないかって答えるんだよ。そんなの自明じゃないかってね。これが才能だよ。十代のときに一人で群論を研究し、ガロア理論を打ち立てて、二十歳で決闘して死んだガロアもいる。アーベルが五次方程式の解法の不可能性を発表したのは確か二十二のときだった。階段で躓いて、転びそうになった拍子に関数を思いついたなんて人もいたな。あれは誰だったか。ああもういいや。止めよう。こんな話いくらでもある」
 桂木君は自分の内面を見つめるような眼差しで、宙を見つめて夢中で話していたが、ふいに言葉を切って頭を振ると顔をこちらに向けた。その表情はなにかに怯えているようだった。少し間を置いてから、桂木君はゆっくりと優しく語った。「これが才能なんだよ。才能のことを考えると、いつも暗い気持ちにさせられる」
 僕は何気なく口にした「才能」という言葉に、桂木君が激しく動揺したことに驚いた。関わり合わない方がいい、すぐに立ち去ろう、という考えが浮かんだが、席を立つことができなかった。桂木君が苛立ちながら話した数学の天才の話には、僕を惹きつけるものがあった。ガロアという人が天才数学者なのはわかったけど、その天才がなんで決闘なんかするんだろう? 寝て起きて定理を思いついてるって、そんなことってあるのか? そんな疑問が次々に浮かび、整理がつかずにぼんやりと桂木君の方に視線を向けていると、桂木君は陽気な調子で話しかけてきた。
「いやいや、なんか変なことまくしたてちゃったね。そんなことより、今日は一人の人間が数学に目覚めた記念すべき日だからね。全くめでたい日だよ」
 なにが起こったのだろう? 桂木君は必死にこちらの機嫌をうかがっているように見える。さっきまでの神経質な言動を何とか打ち消そうとしているみたいだった。
 桂木君の不可解な豹変ぶりに、僕は不信感をもっても当然だったのかもしれない。すこし前にはこちらに掴みかかってきそうな勢いでまくしたててきたのだから。けれど、僕は桂木君に陽気な調子が戻ったことを素直に喜び、にっこりと微笑むと、さっきの数学者の話もっと聞かせてよ、と桂木君にせがむのだった。
 それからはぐれ者同士、放課後や下校途中に毎日二人で話すようになった。二人で話すといっても話すのはもっぱら桂木君で、僕は桂木君が用意した数学の面白い逸話(数学者の奇行だったり、特別面白い特徴をもった数字の話だったり、見かけは全く異なるのに数学的には同じ性質をもった図形の話だったり、毎回話の方向性も難しさも様々だった)を、ときどき合いの手を入れながらニコニコしながら聞くだけだった。
 ある日の放課後、いつものように桂木君の席まで行き、前の席に後ろ向きに座った僕に、素数(1より大きい整数で、1と自分自身でしか割り切れない数、例えば2、3、5、7、11など)を見つけだす方法について話してから、桂木君が言った。
「最後に数学クイズを出題するから解いてみてよ。いい? いくよ。問題、91を素因数分解せよ」
 素因数分解とは正の整数を素数のかけ算で表すことをいう。4とか6であればすぐに素因数分解できる。4なら2×2だし、6なら2×3だ。だが、91ともなると即答はできない。
 僕が難しい顔をして考えていると、桂木君はつけ加えた。
「解けたら教えて。どうだろう、三日くらい考えてわからなかったら答えを解説するよ」
 そんな風に桂木君は言ったが、この問題はそこらへんの中学生でも勘が良い生徒なら十分か、せいぜい十五分もあれば解くことができるもので、とても三日もかかるようなものではなかった。僕は桂木君の言葉をそのまま受け取り、翌日の朝礼の後、桂木君に問題が解けたことを興奮気味に報告した。桂木君はニコニコ笑いながら、すごいよ、センスあるよ、なんて嬉しそうに僕をほめた。僕は大喜びして、もっとこういう問題出してよ、とすぐに次の問題を催促した。
 その日の放課後、桂木君は、今度は難しいよ、と予告してから次の問題を出題した。
「9991を素因数分解する、というのが次の問題。難しいからヒントを出しておこう。91の素因数分解は7×13だったわけだけど、ということは(10―3)×(10+3)とも書くことができるよね?」
 僕が、へぇー、と声に出して驚くと、嬉しそうに微笑んでから、じゃあがんばって、と口にして、桂木君は帰り支度を始めた。僕はすぐに考え始めた。
 帰り道、途中で別れるまで、桂木君の話に適当に相づちを打っていたが、頭の中ではずっと数字が駆け巡っていた。家に帰って部屋着に着替えるとすぐに机に向かって、9991を2から順に素数で割り算していった。しかし割り切れる数など一つもない。もしかしたら、9991自体が素数で、素因数分解はできない、というのが答えなのかもしれない。それでもお風呂に入り、夕食を食べると、また机に向かって割り算を再開した。駄目だ、全くわからない。ベッドに仰向けになり、両手を頭の下にもっていき、天井を見る。ぼーっと桂木君の言葉を思い出す。そういえばヒントをくれていた。91は7×13だから、確かに(10―3)×(10+3)と書き直せる。けど、こう書き直して何が嬉しいんだろう? 10と3だけで書けるのは面白いけど、結局同じようにかけ算しているだけじゃないか。だけど桂木君がわざわざ言ったんだからなにか意味があるにちがいない。じっと天井を見ながら考える。待てよ、この式を展開していったら……。
 僕はすぐに起きあがって、ノートに式の展開を書いた。
 91=(10―3)(10+3)=100―30+30―9=100―9
 ようやくヒントの意味がわかった。
 9991も10000―9と書ける。それで10000―9は(100―3)×(100+3)だ。つまり、9991を素因数分解すると、答えは97×103。だが、97も103も素数なのか? わからない。わからないけれど、9991を二つの数のかけ算で表すことができて、僕は嬉しかった。その日気持ちが高揚して、なかなか眠れなかった。
 次の日の朝礼後、桂木君に答えを報告すると、桂木君は、凄いよ、頑張ったね! と声を弾ませて、我がことのように喜んだ。答えはやっぱり97×103だった。僕はすぐに桂木君に問題をせがんだ。あの答えが閃いたときの喜びをもう一度味わいたかった。
 こうして桂木君が放課後に出題する問題を解くことが、僕の日課になった。楽しそうに数学の話をしている僕たちを、クラスメイトたちは珍しい生物でも見るように遠巻きに眺めていた。僕は日ごとに桂木君と二人の世界にのめり込んでいき、それまで付き合いがあった友人が離れていっても、口の悪いクラスメイトから、きもいだの、あいつらホモなんじゃねぇーの、だのと陰口を叩かれても一切気にしなくなった。
 問題は一ヶ月もすると高校で習う内容にまで踏み込んだ数学になり、十二月から三ヶ月ほどは中断したものの、高校受験が終わると(桂木君は有名私立高校、僕は学区三位の公立高校に合格した)、卒業までの間、平日は毎日、休日は土曜日、また卒業後も高校入学まで毎週末、桂木君の授業を受けた。
 二人が休日に数学の勉強をするのはもっぱら数学の専門書が多くある市立図書館だったが、たまに僕の家で勉強することもあった。
 初めて家に来たときの桂木君の驚きようは凄かった。
 僕の家は急な坂の上にあり、隣家の屋根は僕の家の玄関よりも下に位置していて、僕の家からの眺めを遮るものは何もなかった。桂木君は僕の部屋に入るとすぐに部屋の奥、机の隣にある窓に向かい、窓を開けると声を弾ませた。「富士山が綺麗に見える。いいところに住んでるね」
 僕は桂木君の家には行かなかった。
 一度桂木君の家を見てみたいと僕がねだったときも、父親が自営の運送業をしていて、昼間は親の仕事の邪魔になるからと、桂木君は残念そうに言うのだった。「仕事があるし、弟たちの世話も大変でね。本当は僕の家でやれれば一番いいんだけどね。家におもしろいガロアの伝記があるんだよ、持ってくれば良かったなあ。今度貸すね」
 数学の話をするとき、桂木君は数学に対する情熱を僕に叩きつけるように熱く語りかけてきた。
 高校入学前に僕の部屋で勉強したときも、こたつ机に隣り合って座り、ノートに問題を書いて僕にノートを渡すと、開いた左右の腕を上下させ、七三に分けた前髪が眼鏡にかかるほど体を揺らしながら、眼鏡の奥の目を見開いて僕の方に上体を傾け、桂木君は話した。
「1から100までの数字を足し合わせるといくつになるかという問題だよ。いいかい、これは高校で習う数列の問題なんだけど、数学の天才ガウスは小学生の時にこの問題を解いたんだ。小学生だよ、凄いよね」
 普段の大人しい姿からは想像もできないほど興奮して語りかけてくる桂木君の様子が、当初僕には芝居がかって見えていたが、このころにはすっかり慣れてしまっていて、何も奇異なところを感じなくなっていた。
 僕に問題を出すと、桂木君は数学の専門書を読み始めた。
 桂木君はいつも一言も発さず、本を睨みつけていたかと思うと、黙とうしているように目を瞑り、それからカッと目を見開き、何やら黙々とノートに書きつける、ということをひたすら繰り返して読んでいくので、僕の方でも集中して問題を考えていると、桂木君が隣にいるのも忘れてしまい、ときどき桂木君が、どう解けそう? とか、なんかヒント出そうか? とか訊いてくると驚いてしまった。あーあ、と桂木君が上げた大きな声にびっくりさせられたこともある。十月中旬のある放課後、学校の図書館の机に向かい合わせに座っていたときのことだ。僕が視線を上げると、桂木君は明らかに苛立っている様子で、しかめ面をして後頭部の、いつも寝ぐせになっている辺りを掻きむしっていた。
 ふと桂木君のノートが目にとまった。僕はそれまで桂木君のノートを見たことがなかった。
「へぇー、見せてよ」と言って、ノートを手にとって見てみると、見開き二ページにびっしりと複雑な記号を用いた長い数式が書かれていた。こんな難しい数式でなにを証明しようというのだろう? ノートのそばにあった専門書を引き寄せて、専門書の開いているページとノートを見比べた。え、思わず声が出た。完全に一致している。桂木君はいつもこんな長い証明を、本を見ずに再現していたのか。僕には本を見ながらでも正確に書き写せそうもない。
「返してくれ!」桂木君はノートをひったくった。
「すげぇ、本と全く一緒だった」
 僕がそう言うと、桂木君は左右に大きく頭を振った。それから僕にイライラをぶつけるように言った。
「いやいや全然一緒じゃないよ。本では記号を使ってるところを、わかんなくて言葉で書いてるところがいっぱいある。もっと証明を短く簡潔にできるのに、こんなに長くになっちゃって。こんなんじゃ全然駄目だあ。ああ才能がないと苦労するよ」
 まただ。一気に気分が悪くなる。初めて話したときに僕が不用意に発してから、何度も桂木君が「才能」という言葉を口にしては、自分のふがいなさを嘆くのを聞かされてきた。それを耳にすると心臓がバクバクしてくる。そのバクバクが収まると、今度はもやもやっとした感じが前面に出てきて、それが長く胸に留まる。僕は何とかしてそのもやもやを追い払おうとする。桂木君に才能がないわけがない。桂木君にないなら、才能がある奴なんていない。いるはずがない。これまで何度も頭の中で唱えてきたその言葉を、このときはとっさに口に出していた。
「あればいいんだけどね。少しはあってもらわないと困るんだけどさ」
 桂木君はさっきまでの苛立った様子から一転して、微笑みながら和やかに返してきた。顔色をうかがうように、優しい眼差しでこちらを見ている。桂木君が心配するほど、僕は酷い形相をしていたらしい。
「自分でも病的だって思ってるんだけどさ、まあ持病みたいなもんなんだ」
 桂木君は消え入るような声で話すと、ゆっくりと、これまで自分がどれほど「才能の問題」に苦しめられてきたかを、僕に語った。
 桂木君にはすでに、自分がどんなに頑張っても到達できない高みがあるということ、つまり自分が天才ではないということがよくわかっていた。中学一年のころには、自分に数学史に燦然と輝く天才たちのような才能の片鱗も見られないことを悩んだりもした。だけどいまでは、もうそのことで悩むことはほとんどなくなった。問題は一人の数学者として生き残れるだけの才能が、自分にあるかどうかということで、この問題は桂木君を心底苦しめた。桂木君は数学の専門書を丹念に読み込んでいて、それこそ本当に数学を学ぶ道だと信じていたから、塾や学校で学ぶような数学は別物と考えていた。だから高校受験を見据えて、数学を良い点を取るための道具としか考えていない塾の連中にテストで負けることがあっても、気に病むことはなかった。それでも、そんな連中の中で明らかにずば抜けた数学的センスをもった奴がいて、桂木君が思いつかないような解法を一瞬で思いつくのを目の当たりにすると、「自分には才能がないのではないか」「数学を道具としか見ていない連中にも劣る自分には、数学者を志す資格がないのではないか」と、桂木君は酷く落ち込んだ。自分のやっていることの価値や、自分の数学への思いを否定されたように感じたという。「そういうときはいつもこんなおまじないを唱えるんだ。覚えておくといいよ」と言って、桂木君は僕に教えてくれた。「もしかすると彼は僕より優秀かもしれない。だけど彼は、数学が好きなわけではない。もし彼が、数学に本気で取り組めば素晴らしい業績を残すかもしれないが、数学が好きな僕には数学を志す資格がある。確かに才能はないかもしれない。だけど才能がないということは無用ということではない。才能がなくてもなにかは残せるはずで、そういう才能のない人間の努力の上に、輝かしい成果があるに違いないのだ、ってね。たいてい数日もすると不安がどっかにいってる」
 ――どう? 解けそう?
 声に驚き、びくっと身を震わせた。部屋の掛け時計を見ると二時間が経過していた。
 僕が全く見当違いな計算をしているのを確かめると、桂木君はねばり強く考えたことを褒めてから、ノートに正方形を積み重ねて階段を(100段までは描けないので、1段から10段まで)描き、その階段の中にある一辺1の正方形の面積の和が、1から10までの数字の和になることを説明して、ついで逆さにした階段を描き二つの階段を合体させた。
「ほらっ、一段目は元の階段の正方形は十個で、逆さにした階段の正方形は一個、二段目は元の階段の正方形は九個で、逆さにした階段の正方形は二個、そんな風に二つの階段を組み合わせると、横に十一個の正方形が並んでいて、全体はそれが十列、縦に並んだ長方形になるだろ?」
 あとは僕にもすぐにわかった。求める元の階段の正方形の面積の和は、長方形の面積の半分だから、1から10までの和は11×10÷2=55となる。この方法を1から100までに適用すれば、すぐにその和は5050だとわかる。
 僕はその解の美しさに惹かれ、この解を小学生で思いついたというガウスや、本人の死後も何百年もの長きに渡り、まだ見ぬ美しい世界に君臨する天才たちに思いをめぐらせた。それはそれまで桂木君とのやりとりで繰り返されてきたことで、その思いは、僕と桂木君を馬鹿にして、数学になんの関心も示さない周囲の生徒に冷ややかな視線を向けさせ、そんなクラスメイトに囲まれていても、自分と桂木君だけが意味のあることをしているのだと、僕の気持ちを優越感で満たすのだった。

 その日の最後に、1から100までの整数をそれぞれ二乗して足し合わせた合計を求めるという問題を、桂木君は出題した。図を使って考えるとわかり易いよ、というアドバイスをしてから、桂木君は僕にやる気を起こさせようとしたのだろう、いつもなら決して口にしないようなことを冗談めかして言った。
「これが自力で解けたらホント凄いと思うな。これが解けたら数学者の資質があるよ」
 僕はこの言葉にやる気を起こし、寝ても起きてもこの問題を考えた。だが、どれだけ時間をかけて考えても問題解決の糸口すら見出せなかった。
 高校入学の日を迎えても相変わらずで、入学式の間中ぼんやりと問題を考えていたが、ホームルームになり、一人ずつ自己紹介することを知らされると、急に緊張し始めた。廊下側の列の人から順に起立し、名前と出身中学のほか、趣味や中学時代に熱中していたことなどを話していく。話が終わる度に疎らな拍手が起こった。僕の席は中央最後尾だったから、自分の番までそれなりに時間はあったが、頭が働かず、おたおたしているうちに順番になった。緊張し、上ずった声で出身中学と名前を口にした後、少し間をおいて(このとき既に拍手をするために両手を向かい合わせていた生徒も数人いた)、一言つけ加えた。
「好きな食べ物は、はっさくです」
 全く予期していなかったが、これがクラス中の笑いを誘い、僕の最後の言葉はかき消された。
 その後も自己紹介は進んだが、最後の方で一風変わった自己紹介をする生徒がいた。キツネ目の男子で、名前を呼ばれると勢いよく立ち上がり(椅子が後ろの机にぶつかった)、ガッツポーズするように右の拳を握りしめて前後に揺らしながら、
「宮下智仁です!」
 と、怒鳴りつけるように名前を発すると、ぐるりと教室を見回し、
「よろしくお願いします!」
 と、大声でつけ加えてさっさと座った。
 それまでわいわい騒いでいた生徒たちが黙り込み、教室が静かになった。
 誰もが緊張し、それを緊張に見せまいと陽気を装って自己紹介しているなかで、その生徒だけが異質だった。なにかに本当に怒っているとか、世の中に反発している少年といった風ではない。何でそんな大声を張り上げるのか? こんなことを真面目ぶってやっている同級生や教師を馬鹿にしているのか? よくわからない。よくわからないから消化することもできず、教師もきょとんとしていたが、すこしして軽く咳払いをし、呼吸を整えるとやっと気を取り直したのか、次の生徒の名前を呼んだ。
 明日からの予定の確認も終わり、その後、担任の長い話(自分の高校時代を振り返り、青春の素晴らしさを説く、ありきたりなものだった)がチャイムで打ち切られ、号令が終わっても生徒たちは帰ろうとしなかった。他のクラスの生徒も入ってきて、同じ中学出身者同士でかたまって、それぞれのクラスの情報を交換し合ったり、積極的な生徒は、自己紹介を手がかりに新しい友達を作ろうと話しかけたりして、自分の感じている興奮を分かち合う相手を求めていたし、また、この特別な日に、クラスの誰もが話題にするような出来事が起こるような気配を感じて、クラス全体になにかを待ち受けるような雰囲気が漂っていた。
 そんな周囲には構わず、僕は帰ろうと支度をしていたが、同じクラスになった出身中学が同じ二人の生徒が寄ってきた。僕の自己紹介について、あんなネタいつ考えたんだよ? とか、お前って面白い奴だったんだな、全然知らなかったよとか語りかけてきたけれど、彼らは中学時代に僕と親しくしていたわけではなかった。実際のところ、一人の生徒とは話したこともなかった。僕は適当に返事をすると、机の前面の視界を塞ぐ二人を見上げるように顔を上げたまま、二人の合間からクラスの様子をうかがった。左前方窓際の方から、女子が騒がしくしゃべっているのが聞こえてくる。早くも仲良くなったのだろうかと思い、そちらに視線を向けると、その中の数人がこちらを見て微笑みかけてきた。恥ずかしくなってすかさず窓際後方に顔を向けると、キツネ目の男がこちらを見ていた。だが、僕と目が合うと窓の方に顔を向けた。再び正面を向く。二人は僕そっちのけで話している。いまの隙に帰った方が良さそうだ。だけど、二人に一緒に帰ろうと誘われたら面倒なことになる。一緒に帰っても当たり障りのないことをしゃべっていればあっという間に家に着くだろう。そもそも二人とは方角が違うはずだから、五分くらい我慢すればまた明日ってなことになるはずだ。だけど一度一緒に帰ると、明日以降も一緒に帰らなければならないかもしれない。もう一度二人の様子をうかがい、おもむろにリュックサックからノートを取り出すと、桂木君から出題された問題を考え始めた。数日前からアドバイス通りに図を描いてみて、何らかの面積の和が、求める各数字の二乗和になっていないかと考えて、なにか掴めそうなときもあったが、しばらく考えてみると、全く見当違いなことが明らかになるのだった。桂木君ががっかりする様子が浮かんできて、ため息がでた。
「どうした? 悩んでんの?」
 見上げるとさっきまでそこにいた二人はいなかった。智仁という例のキツネ目の生徒が立っている。教室を見回すと数人の生徒しか残っていない。
「いや、別に」そそくさとノートを閉じてリュックサックにしまった。目の前の相手に目を向けることができないので、机を見つめた。数学の問題に取り組んでいる姿を見られたことが、何だか無性に恥ずかしい。有名大学を目指して、入学初日からガリ勉してると思われたかもしれない。自分は桂木君から受け継いだ学問としての数学に取り組んでいるのであって、受験数学に取り組んでいるわけではないんだ。そう主張したかったが、そんな主張が理解されるはずがなかった。
「すげぇねぇ。気合いはいってんねぇ。数列だろ。塾で出たことあるよ、あんな問題」
 思わぬ言葉に顔を上げた。想像の中での反り返り、顎を上向きにし、薄ら笑いを浮かべた姿とは違って、彼は真っ直ぐに僕を見ていた。微笑も浮かべていない。それどころか表情が硬く、口元の動きにも硬さが見られる。意外なことに緊張しているようだ。人見知りなのかもしれない。それで緊張が緩んだ。
「塾ってずいぶん進んでんだね。凄い奴とかいた? めっちゃ頭がいい奴とか」
「まぁーね。うーん。俺ぐらいじゃないか?」
 智仁は両目を見開き、真顔で真っ直ぐに僕を見た。本気なのか冗談なのかわからない。僕が反応に困っていると、智仁はのどの奥から鼻に抜けるような声で、ふぅはっはっはぁー、と笑い、ジョーダンジョーダン、と言った。
 智仁のつかみ所のなさに参って黙っていると、気まずく感じたのか、智仁はまた硬い表情に戻って口を開いた。
「でも、一人であんな難しそうな数学やってるなんて凄いね。学者にでもなんの?」
「いや俺なんて全然、やり始めたばっかだよ」智仁のおだてに気をよくし、慣れない口調でぺらぺらとしゃべる。「中学に桂木って奴がいて、そいつが数学の鬼でさ、そいつが出題した問題なんだ。桂木は大学の数学をやってんだよ、一人で。うちなんて公立中学でろくな数学の教師もいないし、生徒も大したことないのばっかしなのに」ここで言葉を切り、笑いながらつけ加えた。「あ、俺みたいに」
 先ほどの沈黙が嘘みたいに話す僕を見て、智仁も気楽に話し出した。智仁がしゃべると前歯が目立ち、赤く染まった両頬は熟れた果実のような艶を帯びる。そしてときおり、のどの奥から鼻に抜けるような声で笑うのだ。
「お前の自己紹介。あれ最高だったな。いや、汚ねぇーよ。全部もってちゃってよ。あの自己紹介の後じゃ、俺の自己紹介なんて何のインパクトも残せなかったよ。反則だよ、あれは。汚ねぇーよ、汚ねぇーよ、汚ねぇーよ」
 智仁は頭を振り、身を捩らせて嘆いた。
 自己紹介の話を持ち出されて、こいつも先ほどの二人と同じかと思い一瞬身構えたが、智仁が自分の自己紹介への影響を気にしていたのを知って、面白い奴だと思った。まさか自己紹介で目立とうということだけで、あんな大声を張り上げていたとは。僕は必死で笑いを堪えたが、ついに吹き出してしまった。
 こうして智仁と知り合い、二人とも帰宅部で帰りの方向が同じだったため、それから毎日一緒に帰るようになった。真っ直ぐ帰れば二十分程の道のりを、放課後の教室でだらだら過ごしたり、ハンドボール部の練習をぼけっと眺めたり、公園のベンチで話し込んだりしていて、別れるときにはいつも日が暮れかかっていた。
 帰り道で二人が話すのは大抵、海外のロックのことだった。父が好きでよく聴いていたから、僕は六十年代や七十年代のロックには詳しかった。だが智仁が語る、八十年代や九十年代のハードロックやヘヴィーメタルには疎かったから、そっち方面の話になると、智仁が一方的にしゃべり、それに僕が合いの手を入れる感じだった。
 ある日の帰り道で智仁の中学時代の話になった。
「中学のときに友達がライブするっていうから観に行ったんだよ。ポイズンって知ってる?」僕が一瞬で答えられないと、智仁はすぐに続けた。「まあ知らなくていいけど。ともかく、けぇっばい化粧してさ、カヴァーしてんのよ、ポイズンの。で、がらがらの客席で俺がヘッドバンキングしまくってたら、D・D・ダイアモンドがさ、あいつやベーんじゃねぇーかって」
 智仁のマシンガンのようなしゃべりに被せるように僕が、D・D・ダイアモンドって何? と訊くと、智仁は一瞬黙ってから、「そのバンドのボーカルがD・D・ダイアモンド。ギターがD・D・デーモン。ベースがB・B・ブラックで、ドラムは忘れた。もともとポイズンのギターがC・C・デヴィルって名前で、ギターが、」と、ここまで一気にまくしたて、右手で握り拳を作り、その拳をゆっくりと振り上げたと思ったら、ハンマーを地面に叩きつけるように振り下ろしながら、「俺はデヴィルよりすげぇーからデーモンだ!」と大声を発して、のどの奥から鼻に抜けるような声で笑うと元の調子で言った。「で、まあ、スカウトされて、コーラスをやってたね」
 智仁の挙動に一瞬ぎょっとして黙り込んでから、おずおずと尋ねた。「コーラスって、ハモったりするの?」
 智仁はすぐさま上体を反らせて胸を張り、叫んだ。
「アァー! オォー! ヒィー! アァー!」
 僕は周囲を見回した。両側に住宅が建ち並ぶ真っ直ぐな道で、幸い人通りが少ない。少し前にすれ違った中年の女性が軽く振り返ったほかは、三十メートルほど先を歩いていた女子の一団が、こちらを振り返って笑っただけだ。
「いきなり叫ぶなよ、驚くじゃん。どうしたんだよ?」
 智仁は質問に答えなかった。両膝と両手を地面につけ、下を向いてゼェーハァーゼェーハァーと苦しそうに呼吸をしていた。
 すこししてようやく、うつむいたまま絞り出すような声で言った。「駄目だね。コーラスやってたときには、もっと高音に伸びがあったのに。西中のロブ・ハルフォードと呼ばれた、この俺が!」
 下を向いて心底悔しそうに頭を振ってから、智仁は顔を上げた。「お前もやってみ」
 僕は一瞬やりたい気持ちにもなったけれど、微笑んで首を左右に振った。

     2

 桂木君とは高校にはいってからも毎週末会い続けた。中学の間はともかく、なんで有名私立高校にはいってまで僕と会い続けるのか、僕には疑問だったが、週末になると桂木君に僕から電話をして、「じゃあ、いつもの場所に、いつもの時間で」ということになった。
 僕らは中学から通っていた市立図書館で勉強した。だが、図書館ではあまりうるさくもできないので、二時間に一度くらい外に出たとき、隣接する公園の木陰のベンチに腰掛けて、桂木君が読んでいる数学書について簡単な解説をしてもらったり、僕が桂木君から出題された問題に取り組んでいるときには、その途中経過や解法について話したりした。
 神田の古本屋に通い始めたのもこのころで、初めて古本屋を訪れた数日後に会ったときには、ベンチに腰掛け、僕がリュックサックから『初等整数論講義』を取り出すと、桂木君は本を手にして声を弾ませた。
「買ったんだね。凄くいい本だよ。まあ、ちょっと難しいところがあるかもね。わかんなかったら言ってよ、説明するから」
 パラパラとページをめくり、後ろの方のページに挟まった切り抜きを手に取ると、まじまじと見てから、桂木君は訊いた。
「これ、どうしたの?」
「うん? なにか最初から挟まってて――」
「アンリ・ポアンカレじゃないか」僕の答えに被せるように桂木君は言うと、眼鏡の奥の目を見開き、僕に顔を向けて続けた。「これはアンリ・ポアンカレっていう数学者だよ。へぇー、何の切り抜きだろう。ああ裏にも肖像画がある。数学辞典だな。偉大な偉大な数学者だよ。数学だけじゃなくて、物理とか天体力学でも重要な仕事をしてる」
 桂木君は一息ついてから、ぽかんとしている僕に向かって尋ねた。
「ポアンカレ予想って聞いたことある?」
 僕が頭を振るとすぐに、「ポアンカレが提出した位相幾何学の問題で、百年解かれていないんだ。百年だよ、百年」と興奮した様子で話し、僕が何も言わないとさらに熱を込めて訴えかけてきた。
「その間に何人の数学者がこの問題に挑んできたか。世界最高の数学者が何百人か、いや何千人。その誰一人として、この問題を解決した人はいないんだ」
「へぇー、フェルマーの最終定理みたいだね」僕は何気なく口にした。一年ほど前、整数論の難問が解決したとニュースで大々的に報じられていた。「あっちは三百五十年未解決だったんだっけ」
「いやいや、全然違うよ。いや、ほんとに」桂木君はぐぐっと体を寄せてきた。「いや、確かに長年未解決だったっていうのは同じだけど、フェルマーは整数論でこっちは位相幾何学だし」と、桂木君はつけ加えてから、一呼吸おいてうつむき、ぶるぶるぶるっと頭を小刻みに左右に振った。桂木君の寝ぐせが僕の頬に触れそうだ。桂木君は顔を上げると、僕をまっすぐ見て言葉を継いだ。「いや、ごめん。怒らないでね。いやでも、もし、君がもし、もしだよ、三百五十年未解決だったフェルマーの最終定理に比べて、ポアンカレ予想は百年程度だからフェルマーの方が何倍も凄い問題なんだとか思ってたら。いやわかってる、仮定だよ、仮定の話。うん、そんな風に思ってないよね。ああ悪かった、ごめんごめん。ほんと駄目だな。ちょっと熱くなり過ぎたね。でもこれだけ。ポアンカレ予想はめっちゃくっちゃ難しい問題で、これまで何人もの数学者が挑んでは解決したといって論文を発表し、後で証明に誤りが見つかるってことを繰り返している。もちろん前進はしてる。いくつか有望視されている方法はある。あるにはあるけど、その方向でも行き詰まってて、結局のところ、いつ解決するのか誰にもわからない。そう、それこそフェルマーの最終定理みたいにこれから何百年も解けないかもしれないんだ。この問題の解決は数学にとって、いや人類にとって大きな一歩なんだ。この問題が解決されれば、数学の全く新しい地平が開けるはずで……」
 唾を飛ばしながらまくしたてる桂木君を見ていて、僕は桂木君も狙ってるんだ、この問題を解きたいんだと、勘違いかもしれないけどそう思って、無性に嬉しくなった。それで、「桂木君ならポアンカレ予想を解決できるよ」と口にしそうになった。だけど何も言わなかった。話したらきっと桂木君は、僕がなにも理解していないと思って、前にも増して熱心に、ポアンカレ予想がいかに困難な問題なのか、ということを切々と訴えてきただろう。それについてなにか言えば、また桂木君がなにか口にし、また僕が返して……と、いたちごっこになったにちがいない。だが黙っていた理由はそれだけではなかった。実を言えば話を聞いているうちに、自分が解決したいという思いが、僕の中でむくむくとわき上がってきたのだ。
 中学で数学が特別よくできたわけでもなく、桂木君の足元にも及ばないレベルだった僕が、そんな大それたことを考えていたのだからおかしな感じ、というか、滑稽な感じがどうしてもしてしまう。だが、桂木君と一緒に数学を勉強するようになってから半年くらい経っていた、そのころの僕は、桂木君との出会い、数学との出会いを運命だと思い込んでいて、そのように数学と固く結ばれた自分は、たとえいまは解けない問題があっても(僕は中学で特別数学がよくできたわけではなかったから、解けない問題だらけだった)、いつか偉大な成果を残せるにちがいないと、そんな無邪気な若者らしい、根拠のない自信をもっていた。
 この根拠のない自信があったからこそ、桂木君から出題される問題や高校受験の問題が解けなくても、悲観的にならずに数学を続けることができていたのだった。
 しかしその自信が揺らぐこともあった。
 それは例えば、高校入学前から取り組んでいた、1から100までの整数の二乗和を求めるという問題の解法を知ったときだ。高校に入学してすぐの日曜日、いつもの公園のベンチに並んで腰掛けると、この前出した問題は解けた? と桂木君が訊いてきた。
「いや全然わからない」僕はうつむき加減で答えた。
「そうかそうか」
 おずおずと桂木君の方に顔を向けた。暗い表情はしていない。逆に晴れ晴れとしているように見える。
「頑張ったみたいだね。わからなくても気にすることはないよ。答えを出すことより、論理的に考えていくプロセスの方が大切だからさ。面白い解法を教えてあげるね」
 桂木君はリュックサックからノートとシャーペンを取り出し、自分の膝の上にノートをのせて、三角形を描いた。そしてその三角形を埋めるように上から1を一つ、2を二つ、3を三つ、4を四つという風に10までの数字を積み重ね、それらの数字の和が1から10までの整数の二乗の和になることを説明してから、その数字の山を転がすように百二十度ずつ二回回転させ、元の山と併せて三つの山をノートに描いた。それから、三つの山を重ね合わせるとどうなる? と僕に問いかけ、ノートを手渡した。
「どうって、どうなるかなあ」
 僕がまごついているので、桂木君はさらにヒントを出した。
「まずいっぺんに全部の数字を見るんじゃなくて、一部分に注目して。三角形のてっぺんはそれぞれの山でどうなっているかな?」
「えーっと、元の山ではてっぺんは1でしょ。他の二つの山では10だ」
 言い終わらない内に、桂木君は、足すと? と訊き、21と僕は答えた。それっきり桂木君はなにも言わない。横目で見ると、のぞき込むように僕をじっと見つめていた。プレッシャーを感じる。目の前の広場ではしゃぐ子供たちと親の声が急に気になりだした。集中しなければ。一歩一歩理解するしかない。
 元の山の二つある2の部分に着目する。二番目の百二十度回転させた山ではこの部分は10と9、三番目のさらに百二十度回転させた山ではこの部分は9と10だ。結局、2+10+9=21、2+9+10=21で、共に山のてっぺんと同じく、足すと21になる。待てよ、山の他の全ての箇所でも重なり合った数字を足し合わせると、21になっているんじゃないか? 顔を桂木君に向けた。
「不思議だろう」と言って、桂木君は楽しそうに僕の顔を見つめ、僕がひとしきり確かめるのを待ってから、先を続けた。「で、21がいくつある? 上から一つ、二つ、三つと並べていったんだから、それらの数の和は1から10までの数の和になっているだろ? 後はわかるよね? 21に1から10までの数の和55をかけて、三個の山の和をとったんだから、それを3で割れば、1から10までの二乗の和は385が答えというわけ。100までにしてもこの方法なら簡単だろ」
 僕は意外な解法に驚き、数学の美しさや不思議さを改めて実感した。しかし今回は時間をかけて必死に考えて、それでも解法の糸口すら掴めなかっただけに、時間が経つごとに悔しさが募り、また、このような解法を学んで身につけるならともかく、自分で思いつくことなど考えられなかったので、さすがに楽観的な僕でも、「自分には並の才能しかないのではないか?」とか、「この先、なにか偉大な成果を残すことなど不可能なのではないか?」と自問した。さらには、「自分と数学の結びつきを運命的なものと思い込んだのは誤りだったのではないか」と、その当時の僕には耐えられないほど辛い考えが頭を過ぎった。
 だが、こんなふうに自分ではどうしようもないほど不安が大きくなる場合が、あらかじめ想定されていたかのように、僕には自信の源泉が用意されていた。それは自分を無条件で受け入れてくれる相手であり、僕が投げかける決まりきった質問に、必ず肯定的な答えを返してくれる人、母だった。
 夕食後にお茶を飲みながら、母に気にかかっていることを打ち明けて、求めている答えを聞くのだけれど、その答えはまず、「なに言ってんの。まだ数学初めて間もないじゃない」というもので、それに対して僕が、「もう半年もやってるよ。ガウスなんか小学生から凄い数学ができてたんだよ」と言い返せば、「それは人それぞれでしょ。お前は小さいころから、すぐにわかるってことがなかったから。でも気になるとしつこいところがあったから、学者に向いているかもね。それに学者でも年とってから花開く人もいるよ。いっぱいいる」と母は断言するのだが、僕が具体例を求めると答えられない。しかし数日するとそうした学者の例を十も調べてきて、僕に示したりもした。さらにある時など幼稚園のころのことまでもちだして、「クリスマスにやった劇、あったじゃない。覚えてる? あれでほらっ、東方の博士の役やったでしょ。やっぱりなにかあるのね」などと、真剣にものを考えているような表情で首を傾けて頷き、母は一人納得していて、僕はあまりの馬鹿馬鹿しさに呆れたり突っ込んだりして、そのうちに十分な量の自信が補充されると、再び数学に戻っていくのだった。
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試し読みはここまで(セクション2の途中まで)です。最後にもう一度アマゾンのリンクを貼っておきます。よろしくお願いします。



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