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「言語化」するということ。

歳を取ってくると、時間の流れの感じ方が変わってくる。
1日があっという間。
下手すると「今日、何もしてないじゃん……」てなる。
実は、このnoteとブログの使い分けが自分の中で明確になっていなくて、書きたいことはおそらくたくさんあるのだけれど、なんとなく時間だけが過ぎていっている毎日。
それは不本意。
せっかく新しいパソコンも買ったのに、使いこなせていない。

〇頭の中にあるものを「言語化」していくこと
〇「言語化」した文章をいくつも書くこと

まずはこれをやっていこうかな、と考えた。

「言語化」は大事だと気が付いた2020年。
気が付いたというより、気が付かせてもらえた、が正しいかも。

日常の中で、「暗黙の了解」であったり、「普通こうでしょ?」みたいな風潮を感じることが多々ある。
自分が思う当たり前は、ほかの人の当たり前ではないと分かっているはずなのに。
ある時、「私はこう思うんだけど」という感じで「言語化」して人に伝えてみたところ、共感やズレに気が付くことができた。
さらにそこから話を展開できるということも経験した。
「言語化」の凄さを身をもって知った訳である。

ことばから世界が広がっていく感覚が好きだと思えた。

もやもやと心の中で感じていることを言語化することは難しい。
感覚や映像で捉えるくせが自分にあることは分かっている。
感じたらそれっきり。
そして私は難しいことばや言いまわしが分からない。
自分で文章を書いていても
「ん?この日本語合ってる?」
と不安になることなど、しょっちゅうだ。

ツイッターをやっているおかげか、140字内で自分の想いや考えをきゅっとまとめるくせがなんとなくついた。
日常で感じたことを
「これは言語化したい。人に伝えたい。自分のためにも書き残したい。」
などと常々考えている。

そんなこんなで、感じたらそれっきりだったことを思い出し、「言語化」する作業を少しずつするようになった。
(まぁ、思いつきで書いているときもあるけど。)

2020年の春にブログを書いたら、私の文章をほめてくれる人がいた。
初めは社交辞令で言ってくれているのだと思っていたが、実はそうではないらしいということが分かってきた。
なぜなら、そう言ってくれる人がひとりやふたりでは無かったから。
私が大切だと思う友人が言ってくれたことばを受け入れてみようと、初めて思った。
「そんなことないよ」
と謙遜することが当然だと思って生きてきたけれど、私のしていることは「謙遜」ではなくて、「打ち消し」なのではないかと考えるようになった。
友人や自分自身を切り捨てているような感覚さえしてきた。
真面目に考えすぎかもしれないが、いやいやこれはとても大事なことなのではないかと、じっくり私なりに考えた。
そして思った。

「文章をもっと書いてみよう」と。

上手かどうかは置いておくとして、とりあえず、思ったことや考えていること、感じたことなど、「言語化」していく1年にしたいと思う所存。

コーダやろう者のこともたくさん書けるといいなぁ。

あけましておめでとうございます。

2021年 元旦

ぜひ手話でご挨拶を申し上げたいところではございますが、手話には文字がありません……なんということでしょう!…ということで、これからも日本語で文章を書いていきたいと思う所存です。