見出し画像

ランガー『シンボルの哲学』を読む(2)

第2章 シンボル変換

2-1 サインとシンボルの違い

シンボルを使用すること、それは他の動物にはない人間特有の機能であることをランガーは述べている。動物でも、獲物、危険、逃げろなどの功利的なサインは使用する。だが、シンボルの使用は、人間特有の知性の働きであるとランガーは言う。以下の三箇所の彼女からの引用を見てみよう。

「シンボルを使用する力が ー 言葉を話す能力こそが人間を地上の主人とするのである」(p. 73.)。

「シンボル作用が単なる動物のレベルを優に越えた、とくに人間的な心的活動の鍵と認められる」(p. 75.)。

(動物でも記号(=サイン)を使用する。しかし、)「シンボルを使用することと単に記号[=サイン]を使用することとは非常に大きな違いがある」(p. 77. )。

まず、動物から人間への移行、言い換えればサインからシンボルへの移行は、言語使用による単純から複雑への移行として捉えられる。言語というシンボルを用いるようになった人間は、言語から「表象の機能」(p. 82.)を得たことによって、より複雑な状況に対処することができるようになった。

表象の機能とは、言語というシンボルから何事かを想起したり、思考したり、予測したりという、時間的にも過去、現在、未来へとより複雑な状況への対処を可能とする機能である。人間は、今・ここという目の前の状況のみに対処できるだけではもはやない。


2-2 祭祀、芸術、夢

しかし、とランガーは言う、事はそう単純ではない、と。動物と人間を分つ基準が言語使用、シンボル使用にあるのならば、なぜ、一見、実用的に役に立ちそうにない言語使用で人間は自らを混乱に陥れてしまうのだろうか、と。たとえば、記憶力によって過去を悔やんだり、想像力によって未来は憂うということである。

仮に、人間が動物よりも「高級」な存在であるとするならば、このように自らを混乱に陥れてしまうようなこの一見愚かな言語使用は何を意味するのか。言語使用、しいては人間におけるシンボル使用の「功利説」(p. 91.)が正しいとはたして言えるのだろうか。本節(2-2)では、この点について、ランガーの見解を見てみたい。

シンボル使用の代表的例として呪術的・宗教的祭祀、芸術、夢をランガーは挙げている。これらは、人間におけるシンボル使用ではあるが、一見したところ、何の役に立つのかが自明ではない。

「呪術を好むこと、祭祀が高等なレベルに発達していること、芸術に対して真剣であること、そしてこの特徴的な夢の活動、これらは心の理論を打ち建てようというときに、無視するにはあまりに大きすぎる要因である」(p. 93.)。

そこでランガーは「やや拙速に人間を測る尺度としてきた人間の必要項目を再考すべきだ」(p. 93)と問題提起している。つまり、「人間の必要項目」は功利説に還元できないということである。人間が功利説以上に「何か別のことをやろうとしている」(p. 94.)点に目を向けようとランガーは言うのだ。

「すなわち心を、あくまでも人間に主たる必要に仕える器官として、しかし人間に特徴的な必要に仕える器官として、捉えることである」(pp. 93-94.)とランガーは述べる。

「人間に特徴的な必要」、それこそ祭祀、芸術、夢など、人間が生命維持や種の保存には一見関係の無さそうなシンボル使用において、人間は何事かをなそうとしている。そして、その何事かこそ、人間を他の動物から区別する「人間に特徴的な必要」である。


2-3 シンボル化への欲求

ランガーは言う。「私は人間には主たる必要があり、それは他の生物はおそらく持っておらず、そしてそれが、いかにも非動物的に見える目的、例えば意図的な空想や、価値意識、全く実用性のない熱意、そして神聖な〈彼岸〉があるという自覚といったものを始動させるのだ、と信じている。(中略)この、明らかに人間のみにある基本的必要とは、シンボル化への欲求である」(pp. 96-97.)。

人間は常にシンボル化への欲求を持つ。欲求は欲求であるがために、「何のために?」と、それ以上目的を遡れない根本原因である。「したい」から「する」というというのが欲求なのである。

このようなシンボル化への欲求は、眠っている間も働き、夢として「絶えず観念化を続けている(p. 99.)。この観念化を、ランガーは強力な「シンボル化の原理」(p. 99.)と名づけている。したがって、シンボル化への欲求は休む間を持たない。

祭祀、芸術、夢、いずれも功利的なものに基づく人間のシンボル化への過程ではなく(したがって、動物ならばこのシンボル化の過程を必要としないので、排するであろう)、人間にのみが有する基本的必要、すなわちシンボル化への欲求に基づいてなされるものである。

繰り返そう。人間にのみある基本的必要、他の動物とこの点で区別される特徴、それこそがシンボル化への欲求である。祭祀、芸術、夢、いずれも動物にとっては無駄なものと見えるシンボル化が、人間にのみ必要であるということは、人間が功利的なもの以外の領域においても生きているからであろう。その領域を我々は人間の活動の場としての「余白」や「行間」と呼びたい(なお、ランガーはこの呼び方をしていない)。

功利的なものの領域が書物の「本文」ならば、さらに「余白」や「行間」を自由に活用し、そこにシンボル化を施し(想像や創造)、生きるのが人間ではないだろうか。祭祀、芸術、夢というものは、人間が生存のために行う功利的な「本文」の、その「余白」や「行間」に生まれるものと考えられる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?