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ランガー『シンボルの哲学』を読む(4)

第4章 論述的形式と現示的形式

4-1 論述的形式と現示的形式の違い


「厳密な意味での言語は本質的に論述的である」(pp. 192-193.)とランガーは述べる。

その意味するところは、言語によって構成された命題は、世界のある事態を写し出し(写像し)、描写し、論述しているということである。この意味で、言語は論述的シンボル作用と呼ぶことができる。

「言語は、世界とその中で起こる出来事、考えること、生きること、そして全ての時の流れという人間の経験の、最も忠実で、不可欠な像なのであるが、そこに投影法則が含まれている」(p. 165.)。

言語によって構成された命題は、世界のある事態の像であり、その像を投影している。これが論述的シンボル作用である。したがって、逆に言えば、非論述的シンボル作用=現示的シンボル作用なのである。

現示的形式とは、「感覚に直接語りかける非論述的方式」であり、「そこには本来的な一般性というものはない」。「それは何よりもまず個別的対象の直接的な現示(プレゼンテーション)である」(p. 192.)。

言語の論述的形式(論述的シンボル作用)があり、それとは異なる感覚の非論述的形式がある。その非論述的形式を現示的形式(現示的(プレゼンテーショナル)なシンボル作用)と呼ぶのである。

言語は命題は構成し、世界のある事態を写し出し(写像、投影、射影し)、描写し、論述しているのであった。だが、言語による論述には語の順序があり、その描写は一挙にというわけにはいかない。「言語には線状的、分離的、継起的順序がある」(p. 166.)。この点、たとえば絵画は眼という感覚器官を通して、一挙に「ただ一つの対象を描出している」(p. 192.)。


4-2 ゲシュタルト(形態)

ゲシュタルト(形態)とは、「知覚現象や認識活動を説明する概念で、部分の総和として捉えられない合体構造に備わっている、特有の全体的構造をいう」(『デジタル大辞泉』より)。つまり、事物を部分や要素の集合と考えず、全体性や構造を重んじる視点、立場である。

このゲシュタルトの考え方がなぜここで重要であるかと言うと、第一節(1-1)で論じた現示的形式の現示的シンボル作用の考え方と直結するからである。ランガーは述べている。

「「見る」ことはそれ自体が定式化の過程である。視覚世界についての理解は眼に始まる」(p. 183.)。

ここで問題となっているのは、上述の言語と絵画の違いである。言語の語は要素の集合によって、世界のある事態を投射するのであった。だが、絵画は要素を見せているわけではない。要素ごとには、何らの意味がない。眼で見ることを通して、絵画は全体によってある事態を描写している。

「言語を通して与えられる意味は順々に理解されてゆき、それが言説と呼ばれる過程によって一つのまとまった全体に集められる。一方言語以外の、より大きな、有機的に分節されたシンボルを構成するシンボル的要素の意味は、全体の意味を通してのみ、その全体的構造内部での相互の関係を通してのみ、初めて理解できる」(p. 193.)。

世界を真に認知するのは言語によって構成された命題のみを通してだと考える限り、我々は言語の外に出ることはできない。言語の内よりも、言語の外の方が遥かに大きな領野が開けているのである。世界は言語(論述的シンボル作用)による描写で始まり、その描写で終わってしまうのではない。現示的シンボル作用が、世界のある事態をそのままに描写していることも、我々は知っておかねばならない。


4-3 言語の限界=世界の限界であるか?

それが論述的シンボルであろうと、現示的シンボルであろうと、「シンボルが働くところには意味がある」(p. 194.)とランガーは述べる。

するとこれは、ウィトゲンシュタインが『論理哲学論考』で述べていた「私の言語の限界が、私の世界の限界である」という見解を打開するものではなかろうか。

つまり、言語で語りえないものは非理性的であるとする従来の認識論を打ち破り、これまで非理性的であるとされていた領野にシンボルの働きとその意味を見出そうとすることである。

「いかなるシンボルも論理的定式化つまりそれが伝えることを想念するという仕事を免れることはできない。その想念の趣意はいかに単純なものであろうと、一つの意味であって、従って理解のための一要素である。そう考えると、理性の限界についての問題全体に、(中略)これまでと全く違う期待のもとに、改めて取り組まざるを得ないであろう」(p. 194.)。

論述的シンボル作用から現示的シンボル作用へと意味の認識の領野は広がる。この時、現示的シンボルとは、この後の章で論じられる言語、祭祀、神話、夢、芸術などのことである。

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