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コルベ神父『母への手紙』07 パパさまの一般謁見(19歳)

聖コルベ神父が18歳から死の直前まで母マリア・ドンブロスカへ綴った手紙。
聖母の騎士社刊『母への手紙』より

1912年(大正元年)から1917年(大正6年)まで

18歳から23歳までのプロフィール
●18歳-ローマ・グレゴリアン大学へ留学
●20歳-父・ユリオ・コルベがロシア軍から殺害される。享年43歳
●21歳-グレゴリアン大学より哲学博士号を受ける
●23歳-同士六人で聖母の騎士信心会を創立

1913年7月8日パパさまの一般謁見(19歳)

ローマ

愛するお母さま

何よりもまず、お手紙ありがとうございました。手紙をいただくたびに、お母さまの祝福を感じます。また、お母さまの祈りも感じるので、「神さまが、お母さまに報いてくださるように」という願いを、心からお送りします。

例の件について、セラフィノ師のところへ行き、ポジティブな返事をいただきました。とにかく女子修道院長さまに、だれのところへ行ったらよいかなど、細かい点を教えてくださるよう一筆するようにとのことでした。言葉については、ポーランド語で十分です。セラフィノ師がお分かりになりますから。セラフィノ師の住所は次のとおりです。

Molto Rev.do Padre Provinciale
P.Serafino Majeher
Penitenziere Apostolico
Roma-Italia

ぼくらについていえば、この時期は、比較的おだやかでした。六月末には、神学校を聖心に奉献しました。今年、ぼくらの修道会全体が聖心に捧げられるのです。

大神学校のチャペルでの儀式は三日間続きました。最初の二日間は、毎朝、枢機卿によるミサと聖体拝受、夕方はベネディクションがあり、説教の後、枢機卿が聖体で祝福をなさいました。三日目、つまり六月三〇日には、バチカン市国教皇代理ラヌッチ大司教による荘厳ミサが捧げられました。同大司教は、説教の後、イエズスの聖心への荘厳な奉献を行い、最後に全免償付きの教皇祝福をお与えになりました。

教皇様は、祝典の三日目には、聖心のミサと聖務日祷を行うことを許可なさいましたし、その上、チャペルの本祭壇に、グレゴリオ祭壇の特権を付与してくださいました。

このところ、続けて二回、パパさまの一般謁見に参加しました。整理券の入手が難しいにもかかわらず、おびただしい人が聖ダマソ広場にあふれていました。

スイス護衛兵の鼓笛隊の演奏を合図に、白い長衣を召されたパパさまが、お付きの人に伴われてバルコニーに姿を現されました。すぐに拍手の渦が巻き起こりました。パパさまは我が子を見る父の目と、臣下を見る王の目で私たちを見渡されました。実際、広場の一隅には、白と黄のバチカン市国旗がはためき、スイス護衛兵と教皇貴族兵も整列していて、だれもが教皇を君主として認めているのです。

バチカンの門から数歩外には、イタリア国家の警察官が立っています。それでも、ここではパパさまはやはり国王なのです。拍手の音で音楽隊の演奏もかき消され、広場には「万歳(ビーバ)」の声がこだましました。

突然、演奏が止み、拍手がおさまりだし、人々はひざまずき始めました。すると、地上における神の代理者なるパパさまは、しっかりした声で「主の御名は祝されよ」と唱えられ、人びとは、「今も、いつも、世々にいたるまで」と唱和します。パパさまは手を挙げられ、「全能の神、父と子と聖霊が皆さんを祝福してくださいますように」と、祈られました。広場をうめつくしている人びとから、「アーメン」という応えがわき起こりました。すぐに演奏と拍手が広場の壁にこだましはじめ、教皇様は感謝の叫びの中を、バルコニーのドアの中に姿を消されました。音楽隊の演奏がしばらく続いていました。

おしまいに、七月の初めにテストが終わったことをお知らせします。イエズスの聖心と、汚れなきおん宿りの聖母のお恵みで、すべてうまくゆきました。ぼくにとって、よいことは、みんな聖母のおかげです。今は、新学年にそなえて、バカンスを上手に利用しています。大神学校では聖ボナベントゥラの祝日にテストが終わり、その後、大きな修道院があるザガロロ市に出発することになっています。

休暇ともなれば、心がゆるみがちですから、お祈りをお願いします。

お母さまをいつも愛している
フラ・マキシミリアノ

コンベンツアル聖フランシスコ修道会関町修学院のページで続きをご覧いただけます。

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