神学生の研究「北原怜子の生と思想ーゼノ修道士と共に」第三部(最終回)
蟻の町で奉仕した北原怜子についての研究/蟻の町のマリアと呼ばれ親しまれた尊者
◇コンベンツアル聖フランシスコ修道会の神学生による研究の第三部です。(3回シリーズ)
Ⅳ、北原怜子の霊性
Ⅳ-1、聖書
北原怜子には、彼女の心情として挙げることのできる聖書の一節がある。ヨハネによる福音書13章24節の箇所である。北原怜子はこの聖句を特に愛誦していたようである。この聖句を心情として持ち、微笑を浮かべながら生涯を全うしたことを、怜子の父である北原金司は述べている。
新約聖書「ヨハネによる聖福音書」第十二章ノ二十四―フィリッポ・アンドレに対するイエズスの言葉によれば、
「人の子が栄光を受ける時が来た。まことにまことに私は言う。≪もし一粒の麦が地に落ちて死なないならば、ただ一つのまま残る。もし死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する人はそれを失い、この世でその命をにくむ人は、永遠の命のために、それを保つだろう≫。」と。またいう。「私に仕えたい人があれば、従ってくるがよい。私がいるところには、私に仕える人もまたいるだろう。もし私に仕えたい人があるなら、父はその人をとうとばれるであろう。……」
と。この聖書の文句は、怜子が特に愛誦していたところであり、怜子はこれを心情として、微笑みを浮かべながら、満足げにこの世から去って行ったのである。[41]
北原怜子は、蟻の街に命をささげる覚悟を持っていた。蟻の街の一員として蟻の街のために働くこと、そのために生命を尽くして蟻の街のために奉仕している。怜子は自身の生命よりも他者のため、自身を犠牲にしてでも蟻の街のために生きた姿は、ヨハネによる福音書の実践といえるだろう。
Ⅳ-2、べリス・メルセス宣教修道女会の霊性
北原怜子にとって、ベリス・メルセス宣教修道女会の存在は非常に大きい。洗礼準備の要理教育の段階に始まり、受洗後の北原怜子の人生は、ベリス・メルセス宣教修道女会の霊性が色濃く反映されている。怜子は、ベリス・メルセス宣教修道女会に強い憧れを抱いていた。北原怜子の伝記によれば、松居桃楼に対しても、ベリス・メルセス宣教修道女会の起こりである、ペトロ・ノラスコを引き合いに出して、ベリス・メルセス宣教修道女会の霊性に惹かれて受洗に至ったことを語っている[42]。べリス・メルセス宣教修道女会について、怜子が特に感心していたことは、修道者たちが「キリスト者のとりことのために生命を与える」という第四誓願を全うした修道者たちの姿である。
回教徒の奴隷となり、かれらの責め苦に耐えかねて、棄教の危険にせまられていたキリスト教徒を救うため、この第四誓願を立てた修道士たちは、すすんでかれの身代わりとなり、必要な場合には、このあわれな同胞の救霊のために、命をもささげたのである。[43]
べリス・メルセス宣教修道女会の根幹は13世紀のメルセダリオにあり、その時代の英雄的な愛徳から生まれている。べリス・メルセス宣教修道女会の前身である男子メルセス会は、1218年に聖ペトロ・ノラスコによってスペインで創立された。イスラム教徒に捕らえられ、信仰を捨てるように迫られていたキリスト教徒をあがなうという緊急の必要性に応えるのが、修道会の創立の目的である[44]。この愛徳は、不信のとりこのためにいのちを与えるというべリス・メルセス宣教修道女会の第四誓願に受け継がれている。北原怜子はモンテンルパ刑務所の戦犯死刑囚たちのための助命運動を行う際、ペトロ・ノラスコのこと、およびメルセス会の第四誓願のことを念頭に置き、自分の身を戦犯死刑囚たちの代わりに捧げることを望んだのである。べリス・メルセス宣教修道女会は、スペイン北部のバスク地方メルセス村にある、1540年から解放の精神を生きてきたメルセス会女子観想修道院から生まれている。
べリス・メルセス宣教修道女会は、マルガリタ・マリア・ロペス・デ・マトゥラナによって創立された。マルガリタ・マリア・ロペス・デ・マトゥラナの霊的特徴を次のように述べることができる。
・御父である神の優しさを体験し、その神に自分の全存在の中心を置く。聖霊の働きに忠実に従い、常に神のみ旨を求めて、神の手に自分を委ねる。
・いのち―真実 神の眼で見る信仰の視点。確固とした信頼に満ちた誠実な信仰。自分の無力を愛し、神を見つめて生きる。神の新しい招きを注意深く聴きとり、大胆さと委託の心で応える。
・イエスを愛し、従う。イエスの解放の使命を自分の使命とし、購い主イエス・キリストと、十字架の奥義を深く知るように努力する。深い観想の祈りから、メルセス会の伝統であった第四誓願を復活させ、危険を顧みずに、喜びをもって献身する。イエスを輝かし、おん父に栄光を帰するために生きる。神の愛を伝える必要を感じる。
・教会と共感する。神の子の普遍的な家族として。教会の関心事を自分の関心事とし、この地上に神の国を実現する。
・神への忠実な模範として、私たちの旅路をともに歩むマリアを身近に感じる。マリアは私たちをキリストに導き、宣教指名を推進する。
・ベリスの修道院でもそうであったように、大家族の喜びと気楽さの恵みである共同生活を生き、育てる。[45]
マルガリタ・マリア・ロペス・デ・マトゥラナの内的、外的行為の原動力の中心は常にイエス・キリストの愛である。マルガリタはキリストを愛し、常にキリストの道具となってすべての人がキリストを愛することができるよう望んでいた。べリス・メルセス宣教修道女会の宣教女の霊性に固有な型を押したのは、イエス・キリストとの同化というあがないの奥義である。マルガリタは、十字架にかかられたキリストを追求し、このキリストにあやかろうとする一心な努力の末にすべてが十字架の奥義に包まれていることを理解した。キリストとの同化とはひたすらにキリストの隠された生命に完全に自己の中心におき、世を忘れるに至るまでキリストと一致する。その姿を見てすべての人がキリストに招かれるということをマルガリタは望んでいる。マルガリタは宣教女たちの一人一人が、もう一人のキリストとなることを願っている。また、マルガリタは、自分の経験や計画を共同体とわかちあう。姉妹たちを信頼し、すべては皆の関心事であることを強調する。マルガリタの精神は、神の国のしるしであるように一致と愛徳を養うのである。
べリス・メルセス宣教修道女会における第四誓願は、背教したキリスト教徒が汚した神の栄光に対するあがないとの熱意と、信仰を失う危険に迫られている者を救うためには、自分の命を誓願によって懸けること、これを自発的に自分の義務とした英雄的な愛徳がべリス・メルセス宣教修道女会の内的動因である。
Ⅳ-3、けがれなき聖母の騎士会
北原怜子は「けがれなき聖母の騎士会」という組織に所属していた。けがれなき聖母の騎士会の霊性は、無原罪の聖母の光に照らされて、洗礼の奉献を生きることにある[46]。けがれなき聖母の騎士会はコンベンツァル聖フランシスコ修道会に所属するマキシミリアノ・マリア・コルベによって組織された。マキシミリアノ・マリア・コルベといえば、北原怜子に蟻の街を紹介したゼノ修道士のかつての上長であり、恩師でもある。けがれなき聖母の騎士会とは次のような会である。
会員たちが、すべてのキリスト者の、個人としての聖性、並びに福音宣教への招きと、聖母マリアの聖霊との完全な一致の結実である教会と世界に於けるマリアの恵みの宣教を自覚し、無原罪の御宿リの秘儀の中に霊性、神学、使徒職の焦点を認める会である。[47]
けがれなき聖母の騎士会は、聖母マリアにすべてを捧げつくして生きることが理想といえる。けがれなき聖母の騎士会の会則によれば、その目的は次のようなものとなる。
けがれなき聖母マリアのご保護のもとで、罪びと、異教徒、異端者、特に秘密結社員の回心および、すべての人々の成長を求める。[48]
上記の目的のために、マリアに対して自由に完全に自己を奉献することが、けがれなき聖母の騎士会の会員の条件とされており、目的のための実践として、祈り、犠牲、毎日の生活における疲労や苦しみを神に捧げ、できる限り騎士会の祈祷を毎日一回唱えること、また、会員は各々の身分・条件・機会などに応じて、あらゆる手段を賢明に利用することが勧められる。特に勧められる手段として不思議のメダイの配布、言葉と模範、騎士会の印刷物を通しての使徒職が勧められている[49]。けがれなき聖母の騎士会には、あらゆる修道会、信心会、施設が参加可能であり、騎士会は各会員にそれぞれの立場で、できるだけの使徒的活動に従事することを可能にする。けがれなき聖母の騎士会会員は、各々の身分、職業においてキリスト教的完徳の完成を目指している。けがれなき聖母の騎士会はその第14条において、次のことを述べている。
けがれなき聖母の騎士会員は、あらゆる人間的な現実を、福音の精神で貫くことによって、社会活動のさまざまな分野に於ける証しを通して(証しを媒介として)、けがれなき聖母への愛を伝えるように義務づけられている。したがって、けがれなき聖母の騎士会員は、兄弟性、正義、連帯性の価値を提示することによって、特別な献身を以って、各自の活動を遂行し、生命を擁護し、人格の完全な尊厳の奉仕へと促進するのである。[50]
蟻の街における北原怜子の活動、特に貧しい人々の中に入って彼らと生活を共にし、命を懸けて他者を助けようとする姿は、まさにけがれなき聖母の騎士会の目指している生命を擁護し、人格の完全な尊厳の奉仕へと招かれた姿として捉えることができる。けがれなき聖母の騎士会は、第15条において、けがれなき聖母の騎士会会員が、どの場所においても福音宣教者であることを自覚し、マリアに倣ってイエス・キリストとの一致を生きる生活を送ることが求められている。マリアの模範に倣い、イエス・キリストとの一致を生きようとする生活を目指すけがれなき騎士会の生き方は、北原怜子の蟻の街における姿の中に表れている。
Ⅴ、まとめ
蟻の街と出会う前から、神秘的な清らかなものに対しての憧憬を抱き続けていた北原怜子は、カトリック教会の信徒として、キリスト教的な愛徳を蟻の街で実践している。北原怜子は、べリス・メルセス宣教修道女会との出会いを通して洗礼へと招かれている。カトリック教会の要理教育をべリス・メルセス宣教修道女会で行った怜子は、マルガリタ・マリア・ロペス・デ・マトゥラナの様にイエス・キリストの愛へ生きることを実践した。また、同じく関わりのあったけがれなき聖母の騎士会もまた、怜子の霊性に影響を与えていたといえる。イエス・キリストを中心とした生活を蟻の街で送った北原怜子の思考のプロセスは、神から出発している。それゆえ、彼女の行動は神が中心におかれた行動といえるだろう。神の望みは何であるか、が思考の初めにあり、このことを思い巡らせ、感じとり、神は怜子に対してこのように行動することを求めておられるということを確認し、理解したことに従って行動していく。これが蟻の街の活動における北原怜子の行動原理であったと考えらえる。
北原怜子の行った蟻の街での活動は、聖母マリアを模範とし、マリアのように、また、イエス・キリストのように自分を捨てて神に信頼することを実践した結果であるといえる。イエス・キリストの愛を中心とした怜子の生き方は、まさにマルガリタ・マリア・ロペス・デ・マトゥラナの求めたべリス・メルセス宣教修道女会の霊性を、そして、マリアを模範としてイエス・キリストのように生きようとする姿からは、けがれなき聖母の騎士会会員としての霊性を見ることができる。これらの霊性は、モンテンルパ刑務所の戦犯死刑囚たちの代わりに自身の生命を捧げる覚悟、蟻の街のために自身のいのちを捧げる覚悟の中に、また、貧しい人々に全霊をもってかかわろうと蟻の街の住人として生涯を全うした北原怜子の活動に表れている。自分の望みのためではなく、キリストを想い、キリストに従って他者のために生きる姿が、怜子の蟻の街における生活に表れているのである。微笑をもって他者と接すること、貧しい人々とともに歩む姿勢を、怜子は自身をゆだねたキリストの愛に従っていくことで実践していったのである。北原怜子の霊性は、カトリック教会の教えに従い、べリス・メルセス宣教修道女会の霊性、けがれなき聖母の騎士会の霊性に生きることで、マリアに倣い、イエス・キリストの愛を生きるために、愛情をもって自身を奉献することにある。この霊性を、蟻の街のとの関わりにおいて育み、実践していったのである。
(おわり)
最後までお読みいただきありがとうございました。よろしければコンベンツアル聖フランシスコ修道会のサイト https://sekimachi-fh.org/ もご覧ください。
[41]『マリア怜子を偲びて―その愛は永遠に』、314-315頁。
[42]『蟻の街のマリア』、130頁。
[43] ANGELES DE LAS MISIONES(SPAIN)『“かわき”に答えて』、メルセス修道院、1961年、112-113頁。
[44] マルガリタ・マリア・ロペス・デ・マトゥラナ『神が道を示されたとき』、べリス・メル
セス宣教修道女会、2006年、10頁。
[45] 『神が道を示されたとき』、46-47頁参照。
[46] けがれなき聖母の騎士会『けがれなき聖母の騎士会』、聖母の騎士社、1987年、18-19頁参照。
[47] 『けがれなき聖母の騎士会』、16頁。
[48] 同書、13頁。
[49] 同書、14頁。
[50] 同書、24-25頁。
北原怜子年譜
1929年8月22日 東京都杉並区阿佐ヶ谷に怜子、生まれる。
1941年4月 桜蔭高等女学校に入学。
1944年 中島飛行機工場に学徒動員。
1945年 終戦とともに学業に復帰。
1946年3月 桜蔭高等女学校卒業。
1946年4月 昭和女子薬学専門学校(現昭和薬科大学)入学。
1949年3月 昭和女子薬学専門学校(現昭和薬科大学)卒業。
妹・肇子がミッションスクールである光塩女子学院入学を機に、ベリス・メルセス宣教修道女会との出会いから、カトリックの洗礼に導かれる。
5月に講演を訪れ、7月にベリス・メルセス宣教修道女会の副校長(おそらくシスターアンヘレス)から要理の勉強の許可を得ている。
1949年10月30日 「王たるキリストの大祝日」に受洗。霊名はエリザベト(エリザベス)。
1949年11月1日 堅信を受ける。霊名はマリア。
1950年9月 台東区花川戸、姉の婿家、高木商店に隣接する土地に新築された家に、両親と共に転居。
1950年11月 コンベンツアル聖フランシスコ修道会のゼノ・ゼブロフスキー修道士と出会う。この頃には、蟻の街に教会が立つというニュースが出ていた。
1950年12月 はじめて蟻の街を訪問。松居桃楼氏にはじめて出会う。蟻の街で歌の指導をしている。
1950年12月24日 蟻の街で最初のクリスマスを祝う。
1951年新春 蟻の街、今戸、本願寺の三つの地区のため、光塩女子学院の生徒が分担して奉仕しはじめる。怜子は、蟻の街の担当。
1951年3月25日 復活祭。ベリス・メルセス宣教修道女会の修道院へ、蟻の街の子供たちが、今戸と本願寺の子どもたちと共に招かれる。蟻の街の子供たちが窃盗団のように見られる。
1951年 4月末か5月13日に蟻の街に教会ができる。二階建ての建物を役所から認めてもらうために、二階を教会とした。
1951年5月13日 宮坂源一君が蟻の街に来る。
1951年5月末 ブラジルの観光団が蟻の街に寄る。この頃から、蟻の街で、子どもたちのための風呂がはじまる。
1951年6月 土井大司教のもとを蟻の街の子どもたちと共に訪問。
1951年6月末 片瀬に遠足。
1951年8月11日 蟻の街の子どもたち10人と共に、箱根へ三泊四日の旅行。この頃、箱根旅行を記した新聞記事に「蟻の街のマリア」と書かれた。はじめてこの呼称が公になったと思われる。
1951年10月29日 日記には、1951年10月29日の怜子の日記から萩の修道院に行きたい旨が記される。
1951年10月 蟻の街の子どもたちと共に、廃品回収をしながら赤い羽根募金をはじめる。
1951年 クリスマスの祝いの頃から、自分が「蟻の街のマリア」としての役を演じていたことに気づく。
1952年1月2日 蟻の街の子どもたちがクリスマスプレゼントにもらった物を、隅田公園で野宿をしている人々に分ける。
1952年1月28日 堀池宏市氏のためにミサをささげる。
1952年1月30日 救ライ運動の応援として、売上金5000円を、安井東京都知事に届ける。この後、松居が使っていない箱根の別荘で療養する。
1952年5月22日 堀池宏市氏が、他の囚人たちのメッセージと合わせて、怜子宛てに書簡を出す。この後、怜子は蟻の街に戻って来るが、自分が箱根で療養中に、新しい「蟻の街のマリア」として佐野慶子氏を見、ショックを受ける。
1952年10月 王たるキリストの祝日に、北海道の水原久子氏宛の書簡を記す。この書簡において、佐野慶子氏と塚本慎三氏の結婚と、蟻の街の人々の洗礼式を見届けてから、「永久にこの集落から姿を消そうと思っています」と記している(松居著書の略歴では、1952年9月に、「意を決して蟻の街に住む」とある。証言も同様。これは、家から蟻の街に通う、家に蟻の街の子どもたちを招くという関係から、蟻の街に住む決意をした時点を指していると思われる)。
1952年 月日は不明だが、1952年の王たるキリストの祭日から1953年2月ぐらいまでの間に、ベリス・メルセス宣教修道女会の萩の修道院に移ろうとした模様。萩の修道院長が怜子を招き、休養させながら将来のことを話す予定だった。出発しようとした朝に、高熱で倒れてしまった。修道院に入りたいという望みは消える(松居によれば、生涯抱いていた)。
1953年 小沢妻によれば、この年に決定的に蟻の街に住み込む。
1953年3月 北原怜子著『蟻の街の子供たち』を出版。
1954年春 「くず物取扱条令」により、バタヤの取り締まりが行われることに。蟻の街の反対に対し、与謝野衛生局長、条例を強引に曲解して、締め出すことはない、と述べる。怜子は、この問題の解決にあたって、松居の助手として、のべ何百枚かに及ぶ書類を一人で作成。
1954年8月29日 蟻の街の聖母像の祝別式。
1954年暮れ頃 換地を斡旋するから立ち退いてもらいたいとの要請が東京都から出される。怜子、宣言文を清書。松居は、東京都庁の部長室にて、怜子の著書を出し、宣言文を読む。
1957年 蟻の街の換地として、8号地の5000坪を2500万円即金で、と東京都から提案される。
1958年1月20日 「敷地代1500万円で5年間分割」と東京都の担当者が提案。
1958年1月23日 午前8時10分、台東区浅草にある隅田公園「蟻の会」で帰天。
2015年1月22日 教皇フランシスコより尊者の称号を受ける。
主要参考文献
【単行本】
ANGELES DE LAS MISIONES(SPAIN)『“かわき”に答えて』、メルセス修道院、1961年。
アントニオ・リッチャルディ『聖者マキシミリアノ・コルベ』、西山達也訳、聖母の騎士社、1982年。
北原金司『マリア怜子を偲びて―その愛は永遠に』、八重岳書房、1971年。
北原怜子『蟻の街の子供たち』、聖母の騎士社、1989年。
けがれなき聖母の騎士会『けがれなき聖母の騎士会』、聖母の騎士社、1987年。
松居桃樓『アリの町のマリア北原怜子』、春秋社、1973年。
____『蟻の街のマリア』、知性社、1958年。
____『〈アリの町の神父〉人生遍歴 ゼノ死ぬひまない』、春秋社、1970年。
マルガリタ・マリア・ロペス・デ・マトゥラナ『神が道を示されたとき』、
べリス・メルセス宣教修道女会、2006年
ペドロ・ミゲル・ラメ『マドレ・マルガリタ』、べリス・メルセス宣教修道女会訳、
べリス・メルセス宣教修道女会、1979年。
Positio super virtutibus (Beatificationis et Canonizationis, Servae Dei Elisabeth Mariae Satoko Kitahara, Juvenis Saecularis),Roma,1997.
【論文】
谷崎新一朗「尊者エリザベト・マリア北原怜子のシンプルかつピュアな愛」(ニコラ・バレにおけるロゴス点字図書館主催の講話レジメ)、2015年。
「福音を生きる(イエス様のように生きる)心から尊者エリザベト・マリア北原怜子を見つめて」(2016年2月14日、亀有教会にて)、2016年。
_____「愛情いっぱいにへりくだるキリストの心―尊者エリザベト・マリア北原怜子に学ぶ―」(カトリック関町教会講演資料)、2018年。