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神学生の研究「北原怜子の生と思想ーゼノ修道士と共に」第二部

蟻の町で奉仕した北原怜子についての研究/蟻の町のマリアと呼ばれ親しまれた尊者

◇コンベンツアル聖フランシスコ修道会の神学生による研究の第二部です。(3回シリーズ)

Ⅲ、北原怜子と蟻の街

Ⅲ-1、蟻の街との出会い

1950年、北原怜子は、東京都の台東区に居住していた。洗礼を受けた怜子はこの当時、できるかぎり毎週日曜日にはカトリック教会のミサに参加していた。この時期に、怜子はコンベンツァル聖フランシスコ修道会のゼノ・ゼブロフスキー修道士と出会う。ゼノ修道士と北原怜子の出会いは、彼女の手記によれば1950年11月中旬頃、台東区の彼女の住居にゼノ修道士が訪れ、彼女の家で宣教活動行っている。怜子と短いやりとりをしたゼノ修道士は「貧しい人のために祈ること」を怜子に願い、その場を後にした。北原怜子は、ゼノ修道士を通して蟻の街と関わりを持つこととなる。
ゼノ修道士との出会いから程無くして、北原怜子はゼノ修道士の活動と蟻の街を新聞記事によって知ることとなる。彼女の手記によると、「アリの街に十字架 ゼノ神父も一役[11]」というような見出しの記事だったようである。怜子はこの記事を通して隅田公園の中にある「蟻の街」と呼ばれるバタヤ集落の中にカトリック教会が建つことになり、ゼノ修道士が木材の収集活動をしていること、ゼノ修道士がこれまでも上野にある墓地集落や、浅草本願寺の浮浪者集落の支援活動を行っていたことを知る。当時のゼノ修道士は、戦後の困難な状況において貧しい人々を支援するために、全国各地で活動していた。怜子は新聞を読むまで蟻の街の存在を知らなかった。新聞記事からうかがえる蟻の街に対しても、浮浪者ばかりが集まる集落という恐ろしい場所というイメージを抱いていたようである。しかし、ゼノ修道士の活動を知った怜子は、ゼノ修道士から詳しくゼノ修道士の行っている活動についての話を聴くこと、また、その活動に同行することを切望するようになる。
北原怜子の手記によれば、1950年12月初旬の頃、再びゼノ修道士と出会う。ゼノ修道士が怜子の家の前を通り過ぎるのを目撃した怜子は、ゼノ修道士の後を追い蟻の街へと入る。当時の蟻の街は隅田公園近辺に位置し、廃品回収で生計を立てる人々が集まって生活していた場所である。北原怜子は、ゼノ修道士によって「蟻の街」を紹介される。北原怜子は、蟻の街の人々と関わるようになり、そこに住む人々、特に子どもたちに対して働くこと、勉強すること、遊ぶことの楽しさを伝える活動を行った。北原怜子と蟻の街の関わりについて、谷崎新一朗は北原怜子に関する種々の証言から「神がそう望んでおられることを感じ、イエス・キリストのように生きようとした結果」[12]であると述べている。松居桃楼[13]は、彼女の蟻の街での働きについて、次のように述べている。

 わたしにもっと強い印象を与えたのは、彼女が「自分は蟻の街の役に立つ者である」と決して考えたことがないという点です。短い言葉でいうなら、「み旨がわたしに実現しますように」という彼女の言葉があてはまります。…彼女は、「み旨に従って」というモットーを心に抱いて蟻の街に入りました[14]。

ガルシア・アントニオ・エバンヘリスタ[15]は、イエス・キリストとの出会いの延長線上に、尊者北原怜子の洗礼も、蟻の街に向かった行動もあると考察する。「怜子さんは、感傷的になったり博愛主義から行動したのか、それとも彼女のうちにキリスト教に基づく愛徳や超自然的な愛徳があったのでしょうか」という質問に対して、エバンヘリスタは次のように回答している。

 私が怜子さんの中に唯一感じ取ったのは、霊的な動きでした、洗礼を受けた後、あることが生じました、つまり、成人洗礼を誰かが受けた際に、ここ日本でしばしば生じることです。ある人たちが成人になってから信仰を受けるということには、ある種の衝撃があります。それまで信仰がない状態で恵みを受けずに生きてきたにも関わらず、成人になってからキリストを知るということには、とても大きな衝撃があります。それは、キリストを強烈に体験するということです。この点に関して、わたしたちはキリスト者の深い体験の霊を聖書の中に見出すことができます。しかし、最も重要なことは、キリストに出会うことであり、キリストは超自然的な事柄に関することであるという事実、神の子、神そのものであるという事実です。まだ母乳をのんでいる幼いころに信仰を得たわたしたちにとって、この体験はそれほど強烈なことではありません。しかし、成人になってから改宗した人にとっては、とても重大なこと、とても強烈な体験であり、とても大きな衝撃があります、こうして、洗礼を受けた後、とても深く熱心な霊的時期を過ごします。この時期、このような状況において、怜子さんは、キリストと出会った衝撃を体験して霊的に深く熱心な時期において、蟻の街に行きました。わたしの考えを言わせてもらえば、その行動は決して感傷から生じたものではありません。というのも、とりわけ怜子さんは感傷的な人ではないからです。すでに申し上げたとおり、怜子さんは強く濃密な個性を持った人として映っていましたが、感情をあらわにするような人ではありませんでした。怜子さんは、ロマンチストでも感傷的な人でもありませんでした。
蟻の街に行ったのは、愛徳の心、つまり、苦しんで助けを非常に必要としている貧しい人たちを助ける心に突き動かされたからです。このような形でキリストに身をささげたのです。[16]

 ゼノ修道士との出会いによって蟻の街へと導かれた北原怜子は、カトリックの信仰者としてイエス・キリストの愛を生きることの重要性を理解していた。蟻の街で行った怜子の活動は、こうした彼女のキリストの愛の実践として現れていく。

Ⅲ-2、蟻の街における活動

Ⅲ-2-1、蟻の街の子供たちとの関わり
蟻の街において北原怜子は、蟻の街に住む子供たちと大いに関わっている。蟻の街に住む人々は、子供たちの教師として怜子のことを北原先生と呼んだ。蟻の街に住んでいたある子供は、母親を亡くしていたが、その子供の書いた作文には「母親がいたなら自分のしなければならない仕事が減る」という趣旨の文章が書かれており、母親を愛情の対象ではなく、労働力として捉えていた。当時の日本において、愛情というものが無視されている社会情勢にあることを怜子は蟻の街に来て実感している。
怜子は、規則正しい生活の習慣を子供たちに身に着けさせることを考えていた。蟻の街に住む子どもたちの保護者が十分に働けるように幼児を預かり、おやつや昼寝の世話をすること。毎日入浴させることを考えていた。当時、風呂場がなく、入浴することが当たり前でなかった蟻の街において、北原怜子の考えに賛同した人々の手によって風呂場ができる。彼女はこの風呂場において、子供たちの入浴の世話を行っている。蟻の街の子供たちに勉学を教え、子どもたちと共に新聞を作成し、歌の練習をし、子供たちと共に屑拾いをすると言ったように子供たちの世話を献身的に行った。蟻の街で運動会やクリスマスなどの教会行事を開催し、子供たちと箱根まで旅行するなどの多くの活動を行うなかで、蟻の街の子供たちに対して働くこと、勉強すること、遊ぶことの楽しさを伝える活動を行った。

Ⅲ-2-2、モンテンルパ刑務所の戦犯死刑囚たちのための助命運動
北原怜子は、フィリピンのモンテンルパ刑務所に捕らえられている戦犯死刑囚たちのための助命運動を行っている。彼らは第二次世界大戦終戦後、戦争犯罪人としてフィリピンのモンテンルパ刑務所に収監されていた。このモンテンルパ刑務所に捕らえられていた堀池宏一氏から、怜子のもとに手紙が送られてきた。その手紙には堀池氏が一戦犯死刑囚の身であること、フィリピンから日本の成り行きを見守っていることが書かれていた。また、内地から届く新聞や雑誌を読むと、日本の情勢が闇取引や、人殺し、強盗などの犯罪やパチンコや競馬といった娯楽に関する記事ばかりであった。これらの記事に目を通すと、「自分たちは何のために犠牲にならなければならないのか」とかつては死んでも死にきれない思いになっていた。しかし、「お嬢さんバタヤ」という怜子を讃えた記事と出会い、深い感銘を受け、「お嬢さんバタヤ」が日本に一人いてくれるだけで、心静かに死ぬことができるという想い、また、怜子の健康を祈るといった内容の手紙であった。
堀池氏からの手紙を受け、北原怜子はモンテンルパ刑務所に収監されている戦犯死刑囚たちの助命運動に乗り出した。北原怜子は助命活動に自らの命を懸ける覚悟を持っていた。「それが天主様のおぼしめしに適うことでしたら……」自分の生命をフィリピンの孤児や、未亡人、貧しい人々のために捧げる覚悟をもって助命運動に臨んでいる[17]。怜子の行った助命運動は、戦犯死刑囚解放のための署名活動、ローマ教皇とマニラの司教、および前大統領ロハス未亡人などの有力者宛ての戦犯死刑囚助命の嘆願書を送る活動、戦犯死刑囚の助命のためのミサを捧げると言った活動を行っている。
怜子が行った署名活動について、「死刑を命じられた囚人たちを解放するために、神のはしためがどのような活動をしたか知っていますか。もし知っているなら、神のはしためがどのような状況、方法において正義を尊重し、守ったか、証人は述べてください」という質問に対して、ある程度の情報を提供した証人はごく一部となっている。蟻の街において住民皆が知っていたことではないとすれば、怜子は大々的な署名集めを行っておらず、少なくとも多くの人に求めていたものではないようである。しかし、北原怜子の母である北原媖は、北原怜子の行った助命運動について次のように述べている。

堀氏[18]というモンテンルパにいた戦犯の一人は(現在静岡在住)、桔梗の種を送り、自分の番(死刑)がやって来たことを伝えました。彼女は教会に行き、皆と共に祈り、署名を集めました。この堀氏は死刑を免れ、突然日本に帰国しました。[19]

北原怜子の書簡や堀池宏一氏の証言と比較すると、この内容的には幾分誇張的な要素が含まれているが、この証言において怜子が署名を集めていたことが述べられている。
 北原怜子は助命運動の活動の中で有力者たちに書簡を出している。その内容は、伝記によれば、北原怜子たちが獄中で死刑を待つ戦犯の身代わりになることを希望するということが書簡に書かれていたようである。堀池宏一氏の証言によれば、北原怜子がローマ教皇、マニラの大司教宛てに何らかの形で嘆願書を出していることがうかがえる。マニラ在外事務所参事官であった金山政英がローマ教皇の信任の厚いカトリック信者であり、戦犯受刑者の減刑と日本への送還について重要な働きかけをおこなっている。このような働きかけの背後に北原怜子の書簡が関係していた可能性はあるが、現在のところ、それを裏付ける明白な証拠はない。また、松居桃楼氏の証言によれば、大統領夫人宛に書簡を翻訳して送ったことがうかがえる。その内容も、伝記によれば、北原怜子は獄中で死刑を待つ戦犯の身代わりになることを書簡に書いている。怜子から、前大統領ロハス未亡人にあてて送られた戦犯死刑囚助命の嘆願書には、この誓いが書かれてあった。松居桃楼は大統領夫人宛ての書簡に記された内容について次のことを述べている。

わたしたちは大統領夫人に書簡を送りました。〔本来ならば〕すべての日本人が罪に定められるべきです。すべての日本人の犯罪だからです。怜子は書簡の中でこう記しました。代表として個人が殺されるのであれば、その身代わりとして自分自身をおささげします、と。残念ながら書簡を翻訳した人は亡くなりました。この人は泣きながら書簡を翻訳しました。返事はわたしたちのところにはありません。[20]

また、高木和子[21]は怜子が書いた手紙について次のことを述べている。

彼女は、わたしのおかげではなくすべて主のみわざである、と申しておりました。
可能であればこの方の身代わりになって自分自身をささげるつもりであることを書いていましたが、後に、傲慢なことを書いてしまったと申しておりました。[22]

 怜子の書いた嘆願書について現存しているものは確認されていないが、そのほとんどのものに書かれていた内容はただ戦犯死刑囚たちの助命を求めたものではなく、怜子の命を懸けて戦犯死刑囚たちの助命を願う内容であったことがうかがえる。
助命運動に関するミサについても、モンテンルパ刑務所の戦犯死刑囚の単なる助命のためのミサというよりも、怜子らが彼らの身代わりとなることができるようにという趣旨のミサであったようである。このミサには、怜子に手紙を送った死刑囚の蟻の街の子どもたちもそのミサに参加している。塚本慶子[23]によれば、死刑囚に何度も手紙を送ったこと、その囚人のためにミサが行われていたことを述べている[24]。千葉大樹[25]もモンテンルパ刑務所の戦犯死刑囚たちのためのミサについて言及している。

モンテルパに関する出来事について。北原さんが彼らのためにミサをお願いしわたしがミサをささげました(浅草だったと思います)。北原さんは、自分の出した書簡に対する返事も受け取りました。実際、彼らは釈放されました。北原さんは彼らに何の罪もないと思っていたので行動したと思います。[26]

Ⅲ-2-3、蟻の街の住人として
北原怜子が蟻の街との関わりの中で、最初に廃品の回収を行ったのは、子供たちとの活動の中にあってのことだった。蟻の街の子供たちが勉強で使うための机をどうするか検討していた際、「屑拾いをし、そのお金で机を買う」という子供の発言を受け、廃品を生かし、再び世のために再利用する屑拾いという仕事のなかに非常に尊いものを感じていた怜子は、蟻の街の子供たちと共に屑拾いを行う決心を固め、実践している[27]。屑拾いを始めたての怜子は気負いながら屑拾いを行っていたが、聖母マリアの名を唱えたことで羞恥が消え、人々の目が気にならなくなったと手記に残している[28]。
北原怜子は、蟻の街と関わる中で蟻の街の住人になることを強く望んでいた。1952年、北原怜子は、休養、および、べリス・メルセス宣教修道女会のへの入会を念頭に置き、ベリス・メルセス宣教修道女会が経営する山口県の萩にある光塩女子学院に向かう手はずとなっていたが、怜子の体調が悪化したため修道会に入会する計画は実現しなかった。そんな怜子のために蟻の街に住まう人々は、蟻の街の一角に怜子のための部屋を設け、1953年から怜子はそこに居住を移して蟻の街の住人となる。怜子は病床にあったため廃品回収などの肉体を激しく酷使するような労働は行わず、松居桃楼の秘書のような形で書類の作成や清書などの仕事をしていた。1954年春「くず物取扱条令」により、バタヤの取り締まりが行われることとなるが、怜子はこの問題の解決にあたって、松居の助手としてのべ何百枚かに及ぶ書類を一人で作成している。
1954年に換地を斡旋することを条件に出し、蟻の街の移転の要請が東京都から出される。しかし、その条件として1957年に東京都の方から、5000坪を2500万円即金で支払うようにということを東京都から提案される。当時の蟻の街にとってこの条件は厳しいものだった。松居桃楼によれば、蟻の街の現状を考察すると1500万円を5年計画で分割して支払うことしかできなかった。この問題に対して北原怜子は、移転に必要な2500万円という金額を大きく書いた紙を枕元に貼り、床に伏している間、祈り続けた。1958年1月20日「敷地代1500万円で5年間分割」と東京都の担当者が提案するまでこの祈りは続いている。

Ⅲ-3、蟻の街における北原怜子の姿

北原怜子は、カトリック信者としての生活が始まって非常に早い時期から、困難に直面している人に愛徳を示している。北原怜子が愛徳の行為を行ったのは、一時的な感傷からではなく、イエス・キリストのように生きようとしたからである、と彼女を知る人達は証言している[29]。「神のはしためは、心を尽くし、精神を尽くし、すべての被造物を超えて、生涯にわたって絶えず神を愛しましたか」という質問に対し、塚本慎三氏[30]は次のことを述べている。

彼女は神を愛していたと思います。神に対して限りない信頼を抱いていました。子どもたちや友人たちを愛していましたが、主がすべての人を愛しておられるので愛していたのだと思います。[31]

こうして北原怜子は、現実を見て神の望みを感じ取り、イエス・キリストのように生きようとする中で、蟻の街に関わっていった。
北原怜子は、蟻の街での活動の中で苦い経験をしている。怜子が蟻の街に関わりだして初めの頃、当時の蟻の街は世間からは窃盗集団という誤解を受けており、怜子が信頼している教会の関係者たちもまた、その噂を信じ込んでいた。怜子は、自分が世話をしている子供たちが世間から正しく理解されていない、暗い現実を突きつけられる。その直後に誤解の解けていない外国籍の神父が松居桃楼と会談するが、神父は蟻の街の特殊性を理解できず、松居桃楼にはその時の神父の態度が高慢に映ってしまい、神父と松居は話が根本的に食い違ったまま喧嘩別れとなってしまう。バタヤは浮浪者では無く、廃品を回収しそれを売ることで生計を立てている立派な仕事であるが、神父は蟻の街を正しく理解できなかった。怜子は、神父は蟻の街を心配していること、世間からの情報を真に受けてしまっているだけであると松居に弁明に向かうが、その時に松居の口からは、蟻の街の人々が真に求めているのは同情心ではなく、蟻の街の人を理解し、一緒に苦しみを分かち合ってくれる存在であって、高慢な慈善事業を行う人ではないということが伝えられる。蟻の街の人々にとって北原怜子の姿は、当初、裕福な令嬢が自尊心を満たすために行う一種の遊戯のように映っていた。趣味として貧しい人々の世話をしているだけと捉えられていた。怜子はこのことに衝撃を受ける。

この三ヶ月間、得意になってやって来た仕事が、みんな自分の高慢心を満足させるための遊戯にすぎないという非難には一言もありません。イエズス様が、一未信者の口をかりて、エリザベス・怜子を鞭撻して下さっているのだと信ずるよりほか仕方がありませんでした[32]。

 正しいことだと信じて行ってきた蟻の街での怜子の活動は、蟻の街の人々には高慢なものとして捉えられていた。北原怜子は松居桃楼の指摘に対して衝撃を受けるが、彼の言葉に反論するのではなく、松居の言葉を受け止め、反省し、彼の言葉の中にあるキリストの望みが何であるかということを見出そうとしている。怜子には他の人の言葉をまずよく受けとめて思いめぐらし、丁寧に応えようとする一面があった。まだ洗礼を受けていなかった松居の言葉を通して、イエス・キリストの心をより深く思いめぐらしていた。

天主様さえ人間を救うために、御子イエズス様を貧しい大工の倅に生まれさせて、十字架の上で殺させになっているのに、自分のような卑しい者が、蟻の街の子供に勉強を教えてあげる位のことだけで、もう立派なカトリック信者の務めを果たしたような気になっていたのでした。…(中略)…いかに身を粉にして働いても、己の高慢心をそのままにしておいて、貧乏人を助けることなんかできる筈がありません。蟻の街の子を助けるには、私自身も蟻の街の娘になりきるよりほかに道はありません。

北原怜子は、カトリック信者としての自分の歩みを誠実に見つめ、反省し、イエス・キリストに照らして、何が神の望みであるのかをしっかりと把握していく。怜子はまた、松居とのやり取りを通して、聖書に書かれている聖句の中から、蟻の街での自身の在り方を確認している。

マリア(怜子)が自分の家族のもとを離れて蟻の街で生活するために出て行った理由は、コリントの信徒への第二の手紙8章から9章に記されています。彼女よりも前に生きた人々には、貧しい人たち社会の善のために働き、マリア(怜子)よりももっと多くのことを行った聖人、福者、貧しい人たちの中でも最も貧しいものとなるための手がかりを福音から得ました[33]。

 聖書の言葉を通して、北原怜子は蟻の街の住人となってこそ、蟻の街の人々と真に関わることができるということを理解した。蟻の街の住人として貧しい人々の中で、彼らとともに苦難を分かち合う。このことは蟻の街に住む人々が世間の人々に求めていたことそのものであった。彼女はこの経験を通して、蟻の街の住人となることを望むようになった。一人の若い女性として貧しい蟻の街に住み、蟻の街の人になろうと決意したことは、当時の日本社会としては英断といえる。この点に関して、アルベルト・ボルト[34]は、日本人が和を重んじる一方、他者に合わせてしまう欠点も持っているという特徴に触れながら、北原怜子の独自性を次のように述べている。

ここでは、集団で行動する精神が非常に強いです。個人が集団とは異なる形で何かを行うことは、非常に困難です。つまり、彼女が行ったこと、集団ではなく一人で決断したことを全力で実行するのは、非常に困難です。彼女が乗り越えなければならなかった最初の集団とは、あまり喜んでいなかった家族です。彼女が置かれていたような状況において、彼女が行ったことを実行するのは、「英雄的」という言葉を使いたくありませんが、実に強い意志力が必要です。それは、神の望みに答えるために人間関係にあまりとらわれてない意志力です。日本における状況では実に「英雄的」と呼ぶことができると思います。日本では集団と異なるのは非常に困難です[35]。

北原怜子は、現実を受け止め、神の望みを感じ取り、イエス・キリストのように生きようとする中で、蟻の街に関わっていった。「彼女が蟻の街に住んだことは人間として賢慮さに反するものといえるのではないか、という考えに対してどう思いますか」という質問に対し、ロベール・バラード師[36]は次のように回答している[37]。

  人としての生き方の面でも非常に正しいことです。彼女がこうしたことについて考えていたかどうかは分かりません。しかし彼女は、人としての純粋さを超えて、(蟻の街に住むことが)神の望みであると考えていました[38]。

 蟻の街で活動する北原怜子に、「蟻の街のマリア」という呼び名が世間からつけられ、そう呼ばれるようになっていた。新聞の見出しや雑誌の記事にもこの名称が用いられている。「蟻の街のマリア」の呼び名に怜子は気恥ずかしさを感じていたが、この呼び名が怜子にとって神のみ旨を自身の中心とする北原怜子のあり方を見つめなおす機会となる。蟻の街で活動していた怜子は一時療養のために蟻の街を離れている。しばらくして蟻の街に戻ると、怜子の代わりに子供たちの世話をしてくれる佐野慶子という女性が、「第二の蟻の街のマリア」として蟻の街で活動していた。怜子は子供たちに慕われる第二の蟻の街のマリアを見て、蟻の街のマリアとして活動しているのは北原怜子であるという高慢さを自身の内面に見出し、自身の在り方を見つめなおしている。

正直言うと。初めて箱根旅行の時に“蟻の街のマリア”として私の名が新聞に大きく掲載された時には、家じゅうが大騒ぎをし、私も嬉しいような気恥しいような、なんとも言えない気持ちで、その新聞を何度も何度も読み直した位でした。それが、次にまた同じような記事が雑誌に掲載され、ラジオで放送され、ニュース映画にもたびたび映されるようになってきますと、だんだん当たり前のような気がしてきました。しまいには、またかというような気持がしたり、写真を撮りにいらした方に、何かうるさいというような態度でお断りしたことすらありました。それが今になってみると、みんな先生の演出によることだったということに気が付いた時、私は自分が操り人形だったような気がして、正直を言うと最初は先生が憎くてたまらなくなったほどでした。しかしすぐに気が付いたことは、いやしくもカトリックの信者はである以上は、自分は、天主様の御旨を、世の中に伝えるための媒介体に過ぎないと心得ているべきだったのに、私にうぬぼれがあったからこそ、自分一人の力で、何もかもやれるような気がしたり、またそれでなければ面白くないような気持ちすらしておりました。…(中略)…私の力によって行われたものは何もないことが、はっきり分かった今、この教会を自分のもののように思って、わがままに使ってきたこの一年間を振り返ってみると、ただ恥ずかしい気持ちでいっぱいになるばかりです[39]。

北原怜子の特徴は、困難や失敗もすべて、マリアやイエス・キリストのように御父の望みを絶えずより深く感じ取って生きるための道具として捉えなおすことができるという点である。北原怜子は、「蟻の街のマリア」と呼ばれることで、恥ずかしい体験をし、自分の心の中に多少なりともまだ高慢な部分があること、自分が神の望みを伝える者でしかないということに気が付いている。怜子はこれまで、蟻の街の住人と同じように廃品回収を行い、蟻の街に飛び出すことで自身のすべてを捨てたことになると考察していたが、蟻の街から姿を消すこと、蟻の街を自身から手離すことで、すべてを捨てることになるのだと理解した。蟻の街さえも手放さなければ、愛のためにすべてを手放したイエス・キリストのように生きられないことを理解した。この気づきを通して、北原怜子は神を自身の中心とし、自身のすべてを神に委ねる姿勢をとることができるようになった。イエス・キリストを中心におき、自身の望みではなく、神の望みの実現を願っていた。蟻の街における重要な計画を進めるうえで、北原怜子に意見を求めると、「み旨ならば」という言葉を、非常に純粋な言い方で返していた。「蟻の街のマリア」という華々しい呼び名は消え、イエス・キリストとマリアのように神の愛の望みのためにすべてを捧げて仕える者となった。結核の病にかかってさえも蟻の街に住み込む決意を保ち、信仰によって病による苦痛を耐え、いつも穏やかで、微笑みをたたえていた。蟻の街に住み、イエス・キリストの様に神の愛のために生きた北原怜子は、1958年1月23日にその生涯を終えている。怜子の最後はほんとうに地味な姿として映るが、エバンヘリスタ師は、「愛の殉教者」と怜子を評価している[40]。(続く)


[11] 『蟻の街の子供たち』、14頁。
[12] 谷崎新一朗「福音を生きる(イエス様のように生きる)心から尊者エリザベト・マリア北原怜子を見つめて」(2016年2月14日、亀有教会にて)、2016年、9頁。
[13] 1910-1994年。本名、松居桃太楼。1950年から蟻の街に住み、蟻の街の運営の中心的人物。著書として『蟻の街のマリア』、『ゼノ死ぬひまない<アリの町の神父>』。
[14] Positio super virtutibus (Beatificationis et Canonizationis, Servae Dei Elisabeth Mariae Satoko Kitahara, Juvenis Saecularis),p.131.
[15] 1914 年生まれ。イエズス会司祭。べリス・メルセス宣教修道女会に奉仕していた関係上、尊者北原怜子を知る。1951年から1952年にかけて週に何度か蟻の街に赴く。
[16] Positio super virtutibus (Beatificationis et Canonizationis, Servae Dei Elisabeth Mariae Satoko Kitahara, Juvenis Saecularis),pp.290-291.
[17]『アリの町のマリア北原怜子』、131頁参照。
[18] 実際は堀池氏。
[19] Positio super virtutibus (Beatificationis et Canonizationis, Servae Dei Elisabeth Mariae Satoko Kitahara, Juvenis Saecularis),p.p.42
[20] Positio super virtutibus (Beatificationis et Canonizationis, Servae Dei Elisabeth Mariae Satoko Kitahara, Juvenis Saecularis),p.126.
[21] 1920年生まれ。北原怜子の姉。
[22] Positio super virtutibus (Beatificationis et Canonizationis, Servae Dei Elisabeth Mariae Satoko Kitahara, Juvenis Saecularis),p.92
[23] 1925年生まれ。蟻の街に住んでいた方の一人。塚本慎三氏の夫人。北原怜子の書簡や伝記に登場する、「第二の蟻の街のマリア」と呼ばれた佐野慶子氏。
[24] Positio super virtutibus (Beatificationis et Canonizationis, Servae Dei Elisabeth Mariae Satoko Kitahara, Juvenis Saecularis),p.66
[25] 1909-2007年。当時、浅草教会の主任司祭で北原怜子さんを秘跡の面で支えた司祭。
[26] Positio super virtutibus (Beatificationis et Canonizationis, Servae Dei Elisabeth Mariae Satoko Kitahara, Juvenis Saecularis),pp.211-212
[27]『蟻の街の子供たち』、153頁。
[28] 同上。
[29] 谷崎新一朗「福音を生きる(イエス様のように生きる)心から尊者エリザベト・マリア北原怜子を見つめて」(2016年2月14日、亀有教会にて)、2016年、15頁。
[30] 1915 年生まれ。1951 年以降、蟻の街に住み、受洗。尊者北原怜子が「第二の蟻の街のマリア」と呼ぶ佐野慶子氏と後に結婚。
[31] Positio super virtutibus (Beatificationis et Canonizationis, Servae Dei Elisabeth Mariae Satoko Kitahara, Juvenis Saecularis),p.53.
[32] 『蟻の街の子供たち』、91頁。
[33] Positio super virtutibus (Beatificationis et Canonizationis, Servae Dei Elisabeth Mariae Satoko Kitahara, Juvenis Saecularis),p.341.
[34] 1908年生まれ。神言会司祭。1935年に来日。1949年に尊者北原怜子に洗礼を授ける。以来、北原怜子と交流があった。
[35] Positio super virtutibus (Beatificationis et Canonizationis, Servae Dei Elisabeth Mariae Satoko Kitahara, Juvenis Saecularis),p.275.
[36] 1914-2007 年。パリ外国宣教会司祭。1950年に来日。1955年以降、蟻の街で生活し、その経験をもとに神戸エマウスまたは暁光会という廃品回収で生計を立てる共同体を創設している。
[37] 「福音を生きる(イエス様のように生きる)心から尊者エリザベト・マリア北原怜子を見つめて」、21頁。
[38] Positio super virtutibus (Beatificationis et Canonizationis, Servae Dei Elisabeth Mariae Satoko Kitahara, Juvenis Saecularis),p.304.
[39] 『蟻の街の子供たち』、237-238、241頁。
[40] Positio super virtutibus (Beatificationis et Canonizationis, Servae Dei Elisabeth Mariae Satoko Kitahara, Juvenis Saecularis),p.294.

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