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聖フランシスコと味わう主日のみことば〈年間第11主日〉

神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない(マルコ4・26-27)。


今日の福音(マルコ4・26-34)では、イエスはガリラヤ湖畔に集まった沢山の人々にむかって、〈神の国〉がどのようなものか、たとえを用いて語ります。そして、イエスはまず、〈神の国〉を〈成長する種〉にたとえます。「人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない」(4・26-27)。

イエスはこうも言います。「土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる」(4・28)。

イエスは、〈神の国〉は、まったく人のあずかり知らないところで、始められ、成長させられ、完成をみるものだと言っているようです。つまり、すべては〈神の恵み〉の結果によるということでしょう。これは、わたしたちの霊的生活についても十分に当てはめることの出来ることではないでしょうか。とりわけ、アシジの聖フランシスコの霊的な遍歴、特に回心の初期において、わたしたちは、それを如実にみることができるでしょう。

フランシスコは、アシジの裕福な織物商の家の長男として生まれました。ある一つの伝記(『三人の伴侶による伝記』)によれば、回心前の青年時代のフランシスコは「陽気で気前が良く、遊興や歌唱に熱中し、似たような者らと群れをなして、昼となく夜となくアシジの町を練り歩き、非常に贅沢に浪費して、所持すること儲けることのできたすべてを豪勢な食事やその他のことに費やして」※1しまう、いわゆるお気楽な〈放蕩息子〉でした。さらに、彼は商人の息子でありながら、将来騎士として名を馳せるという〈世俗の栄誉〉にも欲深い若者でした。

しかし二十歳の時、隣町のペルージアとの戦争に出向いて敗れ、過酷な捕虜生活を一年ほど経験してアシジに戻ってから、もともと華奢な性質だったフランシスコは、身体を壊して病の床に伏さなければなりませんでした。それから数年間、健康を徐々に回復すると、再び友人たちとの享楽的な生活に戻りましたが、なぜか以前と同じような喜びや満足を、そうした生活からは得ることが出来なくなってしまいます。

そのような最中、ある伯爵の下について再び戦争で武勲を立てるという夢を叶える機会がやってきたとき、フランシスコは一つの夢を見ます。夢の中である声がフランシスコに尋ねました。「あなたに一層善いことをすることができるのは誰か。主君か、僕か」※2。フランシスコが「主君です」と答えると、その声は「では、なぜ僕のために主を捨て、臣下のために君主を捨てるのか」※3と問い直してきました。つまり、すべての創造主である神に仕えずに、なぜ、人間に過ぎない一人の伯爵に仕えようとするのか、この世の儚い虚栄という幻影に身を捧げようとするのか、という人生の選択を迫るような投げかけがされたのです。

この夢を見て以降、フランシスコは徐々に、しかし確実に変化していきました。彼は、あれほどまでに夢中になっていた享楽と虚栄の生活から距離を置くようになり、自身の内面から静かに招いてくる声に従います。そして、孤独な祈りと貧しい人々への施し、そして清貧の生活を心から愛するようになっていったのです。晩年、フランシスコはこの当時のことを次のように振り返っています。

主は、私・兄弟フランシスコに、償いの生活を、次のように始めさせてくださいました。私がまだ罪の中にいた頃、癩病者を見ることは、余りにも辛く思われました。それで、主は自ら私を彼らの中に導いてくださいました。そこで、私は彼らを憐れみました。そして、彼らのもとを去った時、以前つらく思われていたことが、私にとって魂と体の甘味に変えられました〈『遺言』〉※4。


わたしたちは、フランシスコの青年時代の精神生活の変遷を、多く残された伝記や彼自身の書き物などの資料から、つぶさに辿ることができます。もちろん、伝記などの場合、その内容のすべてが、史実的に完全にフランシスコ自身の内的な経験と合致している描写であると保証することはできないでしょう。しかし、本人の書き物と伝記とが共通しているのは、目に見えない〈神の恵み〉が、先行的にまだ罪の状態に浸っていた彼の中で働き、フランシスコのあずかり知らぬ状況の中で、彼の精神を〈清め〉、〈照らし〉、〈導いていった〉ということです。フランシスコの場合、長い捕虜生活を経て、心身ともに疲弊した辛い状況に置かれたときに、彼の中に眠っていた〈神の恵み〉が静かに活動し始めたのです。

これは、フランシスコに限らず、多くの聖人たち、否、聖人に限らず、すべての神との出会いに招かれている人々にとって、最も根本的な霊的法則だといえるでしょう。つまり、神はたとえその人が〈罪の状態〉にあったとしても、その人の精神の奥深いところで、ご自身の恵みによって、〈回心〉の道へと静かに、しかし確実に導いて下さっているということです。

イエスが、今日の福音の中で述べている〈神の国〉は、このようにわたしたちの心の中で起こりうる、あるいは、すでに起こっていることなのです。やがて、わたしたちの内に生まれた〈信仰〉の萌芽は、神の恵みに支えられ、成長し、やがて実を結ぶまでになるでしょう。イエスは、そのことを約束して下さっているのです。


※1『アシジの聖フランシスコ伝記資料集』フランシスコ会日本管区訳・監修、教文館、2015年、162頁。
※2同書、165頁。
※3同上。
※4『アシジの聖フランシスコの小品集』庄司篤訳、聖母の騎士社、1988年、287頁。

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