神学生による随筆「神の祭壇に上ろう。私の若さを喜ばせ給う神の方へ」 ~新たな1年、「若々しく」あるために~
コンベンツアル会M神学生
「あんたも自分があそこに立つ日のことを思い浮かべながら頑張んなさいよ」。
私が小神学校に入学するための推薦状を書いて下さったO神父様から受けた言葉です。
私は2005年に長崎にある小神学校(聖コルベ志願院)に入学しました。翌年の2月、長崎大司教区のカテドラルである浦上天主堂で司祭叙階式があり、教区からはもとよりコンベンツァル会からも新司祭が誕生するということだったので小神学校の皆で参加したのですが、聖堂から出て帰ろうとした際にバッタリとO神父様と出会い、ご挨拶申し上げたところ冒頭に書いたお言葉を頂いたというわけです。
私は2021年度をもって司祭養成のための課程を全て修了し、叙階のための準備を完了することになります。その意味で、新しい年度である2021年度は私にとって叙階に向けた「最後の1年」ということにもなりますが、その最後の1年を迎えるにあたりふと頭をよぎったのが、不思議なことにO神父様のこの言葉でした。
「自分があそこに立つ日」。言うまでもなくそれは自分が受階者として按手を受ける場面のことです。O神父様からこの言葉を受けた時の私はまだ15歳であり、「自分があそこに立つ日」への言いようのない憧れを抱きつつも、その日は本当に遥か彼方にある出来事のように思えました。その後、15年以上を神学生として過ごす中で「言いようのない憧れ」は「主が私を呼んでくださった」という信頼に変わってゆき、遥か彼方にあるように思えた「自分があそこに立つ日」は「目前」と言えるまでに近づいています。長い歩みの中で、当初は漠然としていた「憧れ」がハッキリとした主からの「声」であると認識が深まったのは、何よりも私の召命の歩みを心に留め、気にかけ、心配して下さった方々からのお祈りと支えがあってのことであります。この場を借りて感謝申し上げます。
第二バチカン公会議以前に捧げられていたミサ(今日の「特別形式のミサ」)は司祭が唱える次の祈りによって始まります。
「私は神の祭壇に上ろう。私の若さを喜ばせ給う神の方へ (Introibo ad altare Dei, ad Deum qui laetificat juventutem meam)」。
この祈りを見る時、ふと「自分はまだ若いだろうか」と思うことがあります。教皇フランシスコは2019年に発布された使徒的勧告『キリストは生きている』の中で
「若さとは、年齢よりも心の状態です」(34番)と指摘した上で、「若さ」の「最高の模範」として神からのお告げを受け入れた時のマリアの姿を提示します。
「少女マリアの『はい』の力にはいつも心を打たれます。(中略)マリアは懸けたのです。だからこそマリアは強く、だからこそ彼女はインフルエンサーなのです。神を伝えるインフルエンサーです。『はい』の気持ちと、仕えたいという意欲は、疑いや困難よりもずっと強いのです。(中略)このかたから、おじけづくことなく新たに始める人の辛抱強さと創意をもって『はい』ということを学びましょう」(44番)。
「若々しくある」とか「若さを取り戻す」とは、決して「過去への逆戻り」ではないはずです。私について言うなら、O神父様から言葉をかけて頂いた15年前のあの日に戻ることではありませんし、「主が呼んでくださった」という召命の確信/信頼を再び「言いようのない憧れ」という漠然とした認識に引き戻すことでもありません。
むしろそれは、「未来に開かれた過去の再発見」とでも言うべきものでしょう。まだ右も左も分からない少年時代にあって主は既に私を呼んで下さり、未熟な私が受け入れることができるような仕方で色々な人や出来事と出会わせて下さり、徐々に導いて下さったという気づきと、その気づきから生じる「喜び」こそが「今」を生きる私が持てる力を全て未来に向かって投企する原動力となるのであり、これこそが「若さ」だと思うのです。
私に先の言葉をかけて下さったO神父様は残念ながら数年前に帰天されました。何とはなしにこの言葉が頭に思い浮かんだのは、もしかすると神父様が「あんたはもうすぐ叙階の恵みを頂くんだから、本当の意味での若さを忘れないようにしなさいよ」と天国から語りかけて下さったのかもしれません。
「私は今でも若いだろうか、若々しくあろうとしているだろうか」という問いを大切にしながら、神学生としての最後の年度である2021年度を過ごしていきたいと思います。
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