聖フランシスコと味わう主日のみことば〈年間第13主日〉
恐れることはない。ただ信じなさい(マルコ5・36)。
わたしたちは、誰しも、身近な大切な人を失うことや、望まない病に罹ってしまうことを経験します。病気や死は、人間であるこの身にとって、決して避けることのできない、宿命のようなものです。なぜ、人は死ななければならないのか。なぜ、人は、病気に苦しまなければならないのか。これは、わたしたちが生きている限り、常にわたしたちを不安や恐れに駆り立てる問題でしょう。
今日の福音(マルコ5・21-43)では、〈死〉と〈病〉にそれぞれ直面している二組の登場人物が、イエスによって癒されます。一人は、ユダヤの会堂長の12歳になる少女で、彼女は死んでいたと思われていましたが、イエスによって息を吹き返しました。もう一人は、12年間も出血の止まらない病気のために大変苦しんでいた婦人でした。イエスにとって、不治の病を癒し、死んでいた人を生き返らせるという、ある意味で人間の常識を越える〈奇跡〉をこの二組に行った意味は、どこにあるのでしょう。
今日の第1朗読で読まれる〈知恵の書〉は、次のように書いています。
神が死を造られたのではなく、
命あるものの滅びを喜ばれるわけでもない。
生かすためにこそ神は万物をお造りになった。
世にある造られた物は価値がある。
滅びをもたらす毒はその中になく、
陰府がこの世を支配することもない。
(1・13-14)
つまり、神は御自分が創造されたすべてのものを、この上なく愛されており、そのうちのどれ一つとして、滅んでしまうことを望まれていないことが分かります。さらに、この〈知恵の書〉は続けます。
神は人間を不滅な者として創造し、
御自分の本性の似姿をして造られた。
悪魔のねたみによって死がこの世に入り、
悪魔の仲間に属する者が死を味わうのである。
(2・23-24)
ここで、本来、人間は滅びることのない不滅な存在として、神に創造されたと言われます。なぜなら、人間は、神ご自身の本性の〈似姿〉として造られたからです。
ここから考えてみると、イエスがこの二組の人々に対して抱いた気持ちを理解することができるでしょう。死の床にある年若い娘のために、イエスに懇願する父親の姿を見たとき、イエスの心が激しく動かされなかったはずはありません。また、長年の原因不明の病に苦しめられ、またそれによって社会的にも不遇の身にあった婦人が、わらにもすがる思いでイエスの衣の裾に触れた、そのありのままの心情を知ったとき、イエスはその婦人の信仰を称え、優しく彼女を祝福する以外のことはできませんでした。
このように、回復は不可能かと思われた状況を、神の恵みの力によって癒された二人ですが、しかし、冷静に考えると、癒されたこの二人とも、いずれ迎えるであろうこの地上における身体的な〈死〉を免れることはできないということに思いがいたります。
では、イエスによるこの癒しは、一時的な意味をもつだけの行為だったのでしょうか。しかし、そうではないでしょう。イエスによる行為は、「悪魔のねたみによって」(知恵2・24)この世に入ってきた〈死〉を、〈救い主〉であるイエスが、討ち滅ぼす力があることを、はっきりと証明しているのです。今日唱えられるアレルヤ唱も、それを示しています。
「わたしたちの救い主イエス・キリストは死を滅ぼし、福音によって生涯を照らして下さった」。
イエスは「死の闇に打ち勝つ命の光」(ヨハネ8・12、51参照)です。だからこそ、イエスは人々に、自分に対する全幅の信頼、絶対的な信仰を求めておられ、こう言われます。「恐れることはない。ただ信じなさい」(マルコ5・36)。
イエスは、御自分を信じる者が、この世における肉体的な死を通して、滅びではなく、永遠の命へと入ることを約束されます。
この永遠の命への招きと約束は、わたしたちにも開かれているものです。わたしたちも病を患うことや、大事な人の死を前にして、イエスに向かって、わらにもすがる思いで助けを求めることがあるはずです。しかし、そのとき、おそらくイエスは奇跡をもって驚くべき癒しを行って下さることはないでしょう。しかし、その代わり、イエスへの全幅の信頼をもってすべてを受け入れることのできる恵みをくださることによって、神は私たちの望む以上のことをもって報いて下さるはずです。
アシジの聖フランシスコは、人間に、このような〈永遠の命〉への入り口となり、神との一致をもたらす機会となる〈死〉について、それを〈姉妹〉と呼んで、自分にとって歓迎すべきものであるとさえ言い、神を讃えています。
私の主よ、あなたは称えられますように、
私たちの姉妹である肉体の死のために。
生きている者はだれも、死から逃れることはできません。
〈『太陽の歌』〉※1
わたしたちも、フランシスコのように、大事な人の〈死〉や、自らの〈死〉を、神との出会い、永遠の命への入り口として、喜びをもって迎えることができるほどのイエスへの信仰の恵みをいただけるよう、祈りたいものです。
※1『アシジの聖フランシスコの小品集』庄司篤訳、聖母の騎士社、1988年、53頁。