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聖フランシスコと味わう主日のみことば〈年間第18主日〉


イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」(ヨハネ6・35)。



わたしたちの身体は、口から取り入れる食物によって、生かされています。何を、いつ、どのように食べるかは、身体の健康を維持するために、とても大事なことです。近年の健康ブームもあって、わたしたちはそうした食に関する情報に接する機会が増え、多くの人が《食べる》ということに、大きな関心を払っているのではないでしょうか。

しかし、同時にわたしたちは、単に肉体的な存在であるというわけではありません。わたしたちは「肉体と霊魂が一体となったもの」※1、つまり肉体だけでなく、《霊魂》を持った、《霊的な》存在でもあるのです。そうであれば、わたしたちは肉体の健康を維持するための食事に気を遣うように、《霊魂》の健康を維持し、それを養うための《霊的》な食事にも心を配る必要があるはずです。では、この《霊的》な食事とは一体何なのでしょうか。その問いの答えになるものが、今日の福音のイエスの言葉にあります。

先週の福音では、イエスはお腹を空かせた5000人の群衆に、手持ちのわずかなパンと魚を増やすという奇跡をもって、十分な食事を与え、彼らを満足させました。このような奇跡を眼当たりにした人々は、イエスを追って、やってきました。人々の望みは、どうやら、彼らを満足させた食事そのものにあったようです。人々は、イエスが《神の子》として示した《霊的なしるし》としてではなく、彼らの肉体を満足させた《外的な奇跡》として、その食事を捉えていました。つまり、彼らはまた飢えることのないように、食べ物を増やして欲しいと願ったのです。

これは、ある意味、人間として当たり前の反応であるかもしれません。肉体を維持するための食事は、一時的に満腹を覚えても、またお腹が空きます。それは、わたしたちの肉体はいずれ朽ちていくものであり、永遠に存続するものではないからです。そして、このことは、単に、肉体を維持するためのことにとどまりません。わたしたちの《霊》も、過ぎゆくこの世の儚い事物によっては、決してその望みを満たされることがないのです。なぜなら、《霊》は《永遠》に存在するものであり、それを満足させることが出来るのは、同じように《永遠》に存在するものによってでしかないからです。

イエスはそのことを知っていたからこそ、人々に言います。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である」(ヨハ6・26)。

では、イエスの言う《永遠の命に至る食べ物》とは何でしょうか。それが、次の言葉にはっきりと示されています。「わたしが命のパンである」(ヨハ6・35)―。つまり、イエスご自身を、わたしたちの《霊魂》の食べ物として、明確に差し出しておられるのです。

《命のパン》―、これを、《聖体の秘跡》※2として捉えることもできるでしょう。そして、それはカトリック教会の伝統的な理解としては正しいことでしょう。また同時に、より深く、広い意味で捉えるとするならば、《命のパン》であるイエスを頂くということは、イエスご自身の存在そのものを、わたしたち自身のうちに取り込み、血肉化し、イエスご自身にわたしたちの内に生きていただくと言えるほどに、イエスの生き方をわたしたち自身の生き方と一致させることだと言えるでしょう。

これは、より一層、わたしたちが積極的にイエスの現存を意識し、内在化するように励むことなくしては、なしえないことのように思われます。アシジの聖フランシスコの次の言葉は、そのことをわたしたちに気づかせてくれます。

全宇宙の主、神、神の御子が 私たちの救いのために小さなパンの形式のうちに隠れるほど、へりくだられるとは!
兄弟たち、神の謙遜を見なさい。
そして、「あなたたちの心を 神の御前に注ぎ出しなさい」(詩62・8)。
あなたたちも「へりくだりなさい。そうすれば、神が高めてくださいます」(Ⅰペト5・6)。


ですから、あなたたちのものを何も、自分たちのために取っておかぬようにしなさい。
それは、御自身を残りなく あなたたちにお与えになる方が
あなたたちを残りなく 受け入れてくださるためです。※3

これは、一見、とても高い目標のように思われるかも知れません。そして、実際、とても高い目標だと思います。しかし、それだからこそ、そこに向かって私たち自身のすべてを懸けていく価値のあることなのではないでしょうか。なぜなら、イエスは次のように、約束してくださっているからです。

「わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」(ヨハネ6・35)。


※1『第二バチカン公会議公文書 改訂公式訳』第2バチカン公会議文書公式訳改訂特別委員会、カトリック中央協議会、2013年、613頁(『現代世界憲章』)。
※2ミサ聖祭の中で、司祭が唱えるキリストの言葉と聖霊の働きを願う祈りとによって、用意されたパンと葡萄酒が、キリスト自身のからだと血に変化すると信じられている秘跡。ミサ聖祭に参加した信者は、これを拝領する。
※3『アシジの聖フランシスコの小品集』庄司篤訳、聖母の騎士社、1988年、101-102頁

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