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聖フランシスコと味わう主日のみことば〈受難の主日〉



「そこへ、シモンというキレネ人が、田舎から出て来て通りかかったので、兵士たちはイエスの十字架を無理に担がせた」(マルコ15・21)。



受難の主日(枝の主日)によって、いよいよ聖週間に入ります。カトリック教会は、主日の福音に関して、共観福音書を3年周期で回して読むことになっており、今年はマルコ福音書の受難物語(マコ15・1-39:短い場合)が読まれます。

無実にもかかわらず裁判に引き出され、当時のユダヤ教の指導者階級の人々から政治犯の汚名を着せられたイエスは、扇動された群衆の敵意と憎しみを、黙って一身に受けます。ローマの提督ピラトは、イエスに罪が無いことを知りながらも、「群衆を満足させようと」(15・15)、別の政治犯のバラバを釈放し、イエスを十字架刑に処すよう命令を下しました。ローマの兵士はイエスをむち打ち、茨の冠をかぶせ、嘲りと侮辱の限りを尽くします。

ここでは、徹底的に、イエスは人間の悪意と憎悪の的になり、なぶり者にされています。まるで、一人もイエスの味方になる人間はいないかのようです。まさに、イエスは孤独の極みの状況に投げ出されています。

そのとき、なんとも間の悪い一人の人物が登場します。それが、「シモンというキレネ人」(15・21)です。彼は、たまたまその場に居合わせたにすぎませんでした。異邦人のシモンにとって、ユダヤ人のイエスが引き起こした問題など、どうでもよいことだったでしょう。彼には彼の用事があったに違いありません。しかし、神様のみ摂理は、兵士達の手によって、シモンに「イエスの十字架を無理に担がせた」(15・21)のです。

このときのシモンの気持ちは、一体どんなものだったのでしょう。人々が罵倒し、あざ笑い、軽蔑と反感の的となっているイエス。そのイエスの担いでいる十字架を、無理矢理に担がされたシモンの心の中は、福音書には述べられていません。彼の存在はこの一行のみにしかみられません。では、なぜ、福音記者は、このシモンという間の悪い異質な登場人物をわざわざ描いたのでしょうか。

ところで、聖フランシスコは、イエスがなぜこのような酷い仕打ちを人々から受けなければならないのか、その理由を次のように述べています。

御父のお望みは、祝された栄えある御子が、ご自分の血をもって、十字架という祭壇上で、ご自身を贖いの犠牲としてお捧げになることであり、それは、「万物をお創りになった」ご自分のためではなく(ヨハネ1・3参照)、私たちの罪のためであり、「その足跡に従うようにと、私たちのために模範を残された」のです(1ペト2・21参照)。〈『全キリスト者への手紙Ⅱ』〉※1


フランシスコは、イエスの受難は、すべてわたしたちの〈罪のゆるし〉のためだと言います。つまり、本来、わたしたちが受けなければならない〈罪の罰〉を、イエスが肩代わりしてくれたおかげで、人は、〈救いの恵み〉を神様から受けることができるようになったのです。

しかし、フランシスコは、この神様の〈救いの恵み〉には、一つの法則があることを示しています。それは、〈救いの恵み〉に招かれた者は、「イエスの足跡に従うように」召されてもいるということです。フランシスコは言います。

すべての兄弟よ。主が「敵を愛し、あなたがたを憎む者に善を行いなさい」と言われることに注意しよう(マタ5・44参照)。その「御足跡に従う」べき私たちの主イエズス・キリストは(Ⅰペト2・21参照)、裏切り者を友と呼び(マタ26・50)、十字架に釘づける者に、すすんで御自分をお渡しになったからである。従って、艱難、苦悩、恥辱、不正、悲しみ、責苦、殉教および死を、正当な理由もなく私たちに加えるすべての人こそ、私たちの友である。このような人々を深く愛さねばならない。彼らが私たちに加えるもののために、私たちは永遠の命を得るからである。〈『勅書によって裁可されていない会則』〉※2


さて、ここで、再び、キレネ人シモンに戻りましょう。フランシスコの言葉から、この無理矢理にイエスの十字架を担がされ、イエスと共に歩むようにと強いられた、なんとも間の悪い人物こそ、実はキリストの〈救いの恵み〉に招かれたすべての人を象徴的に表わしていると言えないでしょうか。つまり、キレネ人シモンは、あなたであり、このわたし自身でもあるのです。

そう考えると、イエスと共に、群衆の罵倒と嘲りを一身に受けて十字架を担がされているシモンは、そのとき、何を思っているのか・・・・、これは、わたしたち一人一人が、日々の生き方をとおして答えていかなければならない問いかけなのかもしれません。


※1 『アシジの聖フランシスコの小品集』、庄司篤訳、聖母の騎士社、1988年、79頁。
※2 同書、257頁。



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