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たいやきとコーヒーの店へ行くわけ

少し離れたホームセンターからの帰り道、何となく、少しでも近回りしようと思い、何でもない知らない道を、ひとりスタスタと歩いていた。
住宅街に小さな町工場がぽつぽつ紛れているような、そんな街並み。車もすれ違うのが困難な狭い道で、「たいやき」と書かれたのれんを見つけて立ち止まった。半年ほど前のことである。

受け渡し用の小さな窓の向こうに若い店主らしき男の人が映り、一瞬目を合わす。「こんにちは」という声は遠慮がちで、店主はすぐに目をそらした。

脇の引き戸が少し開いていて、見ると、低いカウンターと丸椅子が3つ。
座って食べていけるか尋ねると、「どうぞ」と言うので入ることに。余計なお愛想はなく、でも押しつけがましさの無さがすごく気持ちよかった。
カウンターの中には若い女の人がいて、ご夫婦でやっている店だと勝手に判断した。コーヒーを頼み、すぐに出て来ると思ったら中々出てこなくて、でも一口すすったら、時間が掛ったことに感謝できた。かなり。

以来、一週間に一度くらい散歩がてら行くようになった。すごく落ち着く空間なんだけど、あんまり来過ぎてはいけないような気がして、何か、飲み過ぎては効かなくなる薬のように、その存在を覚えたからだろう。

この店は、古い町工場の事務室を改装したものだとか。
昭和そのまま(の雰囲気)を、そのまま利用し、それに合わせて必要なものを付け加えた、新たに作ろうと思っても決してできない質感。BGMは、店主の友達という女性ミュージシャンの牧歌的な音楽がずっと流れている。ギターと声のシンプルな風味で、何か、なんにもしたくなくなる感覚に。

https://www.youtube.com/watch?v=vYhZXhy3fN4

https://www.youtube.com/watch?v=BB_COxVz8MI

たいやきは、「天然」と呼ばれる、一丁焼きスタイル。一つずつ、バタん、バタん、と大きな音を立ててひっくり返されている。

ご夫婦の、「こんにちはー」という声とともに、持ち帰りの注文の声をなんとなく聞く。学校帰りの小学生たちの挨拶が耳に届いてくる。学校の様子を話す子もいたり。自転車の止まる音、何を言ってるか聞き取れない話し声、「またねぇー」と立ち去る気配。
そんなものを背中越しにしながら、スマホに目を預けているが、頭には何も入ってこない。 

店主の「……これをいただけるということは、よかったってことですねー」という声がした。誰かが、無言で通り過ぎる気配だけを残して行った。

ちょっと間を空け、店主は、ヤクルトの5本入りパックを見せ「今のおばあさん、パチンコに勝つと何か持って来てくれるんですよ」と教えてくれた。そのおばあさんの、無言でヤクルトを置いて、手をあげて去っていくその満足げな姿は、見なくたって自動的に頭に浮かんでくる。


目の前の昭和は、現実的なアンティークさながらで、たいやきをひっくり返す、バタん バタん という音のバックに、のんびりした歌声とギター。注文の声、表を通る人との挨拶が交わされて、小さな顔見知りとお店の人の会話……立ち止まる近所の人のどうでもいい話。すべて、背中越し。

スマホをしているふりをしながら、そんなものらに集中して耳を貸していると、何か、自分がかかわってない世界に在るような気分がしてきて、だんだんと、そこに自分が居ないことに、すごく気持ちよく感じてくる。

自分の内と外とが反転し、自分が自分のメインから外れてみると、もしかしたら、ぼくの宿るこの身体には、ぼくの居ない時間が必要ななのかも……なんて、ぼんやり浮かんだ。
休まる、癒える、とは、そういうことなのかもしれない。

今は、何もしない、といういうことがとても困難で、空いた時間は即座に埋まってしまう。自分によって。だから、おそらく身体は、たとえ数十秒でもぼくが留守にしてくれたら助かるんじゃないか。

まあ、どこでだってできることだけど、ここのたいやきとコーヒーが、ちょうどその交差点にあった気がするし、この何でもない道を、またスタスタと歩いて行けたら、と思っている。白い風船を片手に持った気分で。


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