「仲間」と「友だち」について思い出したこと〜ヌトミックのメルマガVOL。3を読んで〜

線、さっき線と言ったけれど、線、線、友だちは線
線的な繋がり、だと思っているところがあるのだろうか、幸せの赤い糸?

向かうところがなくても線は保持されるような、そういう関係のこと?
(以上引用:ヌトミックのメルマガvol.3 長沼航『04|ひととヒトと他人と』より)

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 コロナ自粛に入ってから何気に『友だち』というワードを聞く頻度が上がったように思う。「休校中はお友だちに会えなくて寂しいけど…」とか「オンラインゲームで友だちと交流」とか。耳にする度に何故かひっかかる自分がいるな、と思っていたところ、ヌトミックのメルマガvol.3を読んだ。長沼航さんの新連載『ひととヒトと他人と』で『友だち』という存在について思考を深めていて、どんぴしゃに興味深かった。

 長沼さんは『仲間』と対比させて『友だち』について考えている。仲間は『円』、中心という向かうべき場所があるのに対して友だちは

(引用)
<線、さっき線と言ったけれど、線、線、友だちは線
線的な繋がり、だと思っているところがあるのだろうか、幸せの赤い糸?

向かうところがなくても線は保持されるような、そういう関係のこと?>

と表現している。また仲間と友だちの違いについて

(引用)
<集まりの持続性、集まりからの発展性の違い、なのかもしれないですよね>
(以上引用:ヌトミックのメルマガvol.3 長沼航『04|ひととヒトと他人と』より)

とも書いている。確かに、仲間は仕事とか大会とか何かの目標遂行のために集まっているし、何となく向かい会って話しているようなイメージもある。逆に友だちの集まりにはまず目的がない。横に並んで座って他愛もないことをだべる、そんなイメージだ。あくまで一人と一人がつながった線が友だちなのだと思う。

 高校生のとき、同級生とずっとばかっぱなしをしていた。中でもある子と架空のキャラクターを作って物語を想像するのが楽しかった。「こんな性格のキャラクターが登場したらどうする?」「どの声優さんがCVをやるかで雰囲気変わってくるよ」と結構真剣なトーンで話していた。そしていつも「これ、書き留めておいたら本出せるよね」という言葉で話を終えていた。私は話しながら夢をみていたというか、彼女と一緒に将来何か作品を創造できると思っていた。
 それは大学生になってからだったと思うが、私はある小説を読んでえらく感動して、いつかこれを舞台化したいと思った。その野望を彼女なら分かってくれそうな気がして話をした。今まで架空ではあれど散々一緒に物語を作っていたのだから、きっとまた良いアイディアをくれるんじゃないかと思ったのだ。けれど「えー…そんな大規模なことできるわけないじゃん。そういうことは、何か演劇で賞取ってから言いなよ」と言われてしまった。非常にショックだった。その子の言ったことは最もなだけに、ずっと共有していた何かがただの幻想だったような気がして、そのとき「この人は友だちじゃなかったんだな」と思った。今まで話していたこともばかばかしくなって、それからしばらく連絡を取っていなかった。
 けれど、そのうち勝手に私は寂しくなって、気づいたら以前と同じ調子で話をしていた。何でこんなに意味のないことを話していられるんだろう、と思いながら「やっぱり友だちなんだな」と感じた。
 長沼さんの文章を読んでいて、その友だちのことを思いだした。彼女は『仲間』ではなかった。私は一時目的もなく集まったり話したりすることをばかばかしいと思っていたのかも知れない。今は仲間も友だちも、どちらもなくてはならないつながり方だと思っているのだが。

 しかし、仲間にしろ友だちにしろ、私は少ないなー。何を基準にしているのか分からないが、とにかく少ないと思う。何故なのだろう。この連載を読みながら考えてみたい。

2020年6月27日夕方

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