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私たちののありのまま全てを認めて愛してくれる存在

 私たちは誰もが 誰かと仲良くしたい、相手とわかりあいたいと願っています。しかし、その願いに反して「アラ探し」によって人を貶める性質も持っています。無意識的にしろ「あいつはダメだ」「できない人間」 など、様々なレッテルを人に貼ってしまいます。

確かに相手の責任もあるでしょう。その人の責任を社会が追求することはできます。しかし社会は、その人の弱さ、罪から抜け出す力を本人に与えることはできません。「ダメじゃないか」「なぜ できない」 といくら責め立てても、相手を生かして、その人を立て上げる力にはならない のです。


なぜ、イエス・キリストは、十字架につけられたのでしょうか。世の中のすべての「レッテル」「差別偏見」を引き受けるためです。キリストは社会でレッテルを貼られた私達一人一人の弱さに寄り添ってくださいました。そして、イエスが3日目に復活したことにより、私たちに貼られたレッテルは剥がれ落ちた、と私は信じています。

他人と比べられようと、 レッテルを貼られようと、私達をデザインした創造主はその人を 「ダメな奴」 と見なしていません。むしろ、私たちのありのまま全てを認めて愛してくれる目に見えない存在が私達を生かしてくださっています。このことを体験する時に、人が人に貼り付けるあらゆるレッテル、私たちを縛り付ける力を失います。

真理は私たちを自由にする

新約聖書ヨハネによる福音書


相手を裁き傷つけてしまうのが私たちです。しかし、その私たちもイエス・キリストの信ゆえに、罪が贖われて、神の子とされました。だから、私たちはキリストゆえに「命の新しさ (ローマ書 6:4)」に生かされ、相手の長所を見つける寛容な人へと目指していこうではありませんか。


ガラテヤの信徒への手紙2章16節を「イエス・キリストへの信仰」と訳すか「イエス・キリストの真実」「イエス・キリストの信」と訳すかという議論があります。

ともすると 「信仰」 が 「業績」にすり替わる教会の現実があります。
しかし
「イエス・キリストの信」(主語的解釈)は、神の恵みの絶対性を改めて考える契機を与えると考えます。


プロテスタント神学に「信仰義認論」 という考えがあります。行いのない者を値なしに義と認めるというパウロの 「信仰義認論」は、「不敬虔」 「罪人」 をこそ受け入れ愛した主イエス・キリストを想い起こさせます。

現代の個人主義の風潮の中、ともすると「私の救い」 という個人的敬虔や 救いの個人性が強調されています。この点、キリストへの参与という連帯性、 共同体性、 社会性を意識することは、人の痛みに鈍感な私たち人間が共同体とはなにかを考えることにつながるはずです。

ここに、 信仰義認論を参与という角度から読み直すことの今日的な意義があります。

「たいせつなきみ」マックス・ルケード,

最後に「たいせつなきみ」という絵本をご紹介します。社会のレッテルで馬鹿にされたり傷つけられてしまう私たちですが、私たちのの短所も含めてありのまま全てを認めて愛してくれる存在がいる、というメッセージが素敵な絵と共に描かれています。

*私は博士論文で信仰義認論を参与的な視点で捉えると「個人と共同体の弁証」という視点が見えてくることを論じました。このエッセイは、博士論文の実践神学的な適応の試みです。

<参考文献>高市和久『パウロ書簡における信仰と義認』日本の聖書学、第7号、2002


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