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爆笑問題・太田、テレビ業界から「干されて」いた時期に一条の光を射してくれた松村邦洋の一言

爆笑問題は、1988年に日本大学芸術学部を退学後に結成している。渡辺正行主催のラ・ママ新人コント大会に出演し、そこで太田プロの瀬名英彦マネージャーにスカウトされると、同年7月にはフジテレビ系の深夜番組『笑いの殿堂』でテレビ初出演を果たしている。

芸人として、まさに順調なスタートダッシュを切っており、第一回目の太田プロライブでトップバッターを任される、テレビ番組でもレギュラーを獲得していった。ビートたけしが抜けた後の太田プロで、まさに期待の新人という存在だった。

順調な滑り出しであった中、いきなり暗雲が立ち込めることになる。それが1990年に起きた太田プロからの独立騒動である。

爆笑問題、太田プロからの独立

なぜ爆笑問題は太田プロからの独立を考えたのか。そのことについて、太田は次のように語っている(*1)。

俺らをスカウトしたヤツ(瀬名英彦氏)がいて、『俺がたけちゃんを育てた』って言うから、その人に付いて行ったんですよ。そしたら、後でたけしさんに訊いたら、『あんな奴、知らねぇよ』って」

だが、それだけでなく、1990年3月30日、31日に開催された初の単独ライブ『爆笑問題集・職業選択の不自由』での太田と、太田プロ側との意見の衝突もあったものと思われる(*2)。

その独立は「円満退所」などとは程遠い、まさに喧嘩別れの様相だった。その理由としては、次のような事情があったからだという(*3)。

「あの日、俺らが…要するにウチのマネージャー、瀬名が勝手に、お世話になった太田プロを『この業界を辞めます』って言って、辞めたんだよね。それで俺らは、先に『ついてきてくれ』って言われてたんだけど、『それは瀬名さん、ちゃんと話を付けて下さいね、太田プロと。芸能事務所をやるってことを言ってくださいね』って言っていて、『分かった』って言ってたんだけど」

「実は太田プロには(瀬名マネージャーが)『業界をやめます』って言っていて。だから、みんなに祝福されて辞めたんですよ。で、俺らが『ちょっと話違うじゃない』って言った時に、そのマネージャーは結局、高跳びしちゃって、アメリカに」

「で、俺らが全部事務所に、全てのことを社長、副社長の前で言わなきゃいけなかった。そりゃまぁ、やっぱり怒りますよ。5時間くらいの話し合いだったよね」

なぜ爆笑問題は干されたか

瀬名マネージャーが「業界をやめます」と嘘をついて太田プロを辞め、さらには有望株の爆笑問題を引き抜こうとしていた。そのことに太田プロの磯野勉社長らは激怒したということだろう。

結局は瀬名不在の状態で、爆笑問題、そして磯野社長・泰子副社長との話し合いが行われることになる。爆笑問題への遺留の話もあっただろうが、独立という選択を譲ることはなく、5時間の話し合いの末「決裂」状態となった。

必然的に、爆笑問題は太田プロから喧嘩別れに近い状態で独立をすることになる。太田プロに不義理を働いた瀬名とも袂を分かち、爆笑問題は所属事務所を失うことになってしまう(独立は1990年、タイタン設立は1993年)。この独立により、爆笑問題はテレビ業界から「干される」ことになった。この時期、番組出演ができるのは、NHKとテレビ東京のみだったという。

芸人としての活動が思うようにできなくなり、田中裕二はコンビニのミニストップで働く一方、太田はバイトもせず自宅でファミコンをし続けていた。借金取りから追われていたため、居留守を使って自室に籠もっている必要があったという(*4)。

そんな中、松村邦洋から頻繁に電話がかかってきていた。そして、その電話がある日、爆笑問題の運命を大きく変えることになる(*5)。

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