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7.1.1 14世紀の東アジア 世界史の教科書を最初から最後まで

14世紀には世界各地で自然災害や感染症のパンデミックが発生。
東アジアでもこの時期、飢えが続いて元朝の支配力が衰え、混乱の時代を迎えていた。


中国では白蓮教徒による紅巾の乱をきっかけに各地で武装勢力が蜂起した。
反乱のなかでリーダーシップを発揮した、貧しい農民出身の朱元璋(ヂゥーユェンヂァン;しゅげんしょう、在位1328〜98年)は、儒学の素養をもつエリートの協力を得ながら、長江下流域の穀倉地帯を確保。

そして1368年に南京(当時の呼び名は応天府(おうてんふ))を都にし、皇帝の位についた(洪武帝、廟号(びょうごう)は太祖)。
(ミン;みん)という王朝をたてた。

明軍に追われた、元の皇帝は中国から退いたものの、モンゴル高原でその勢力をキープした。
彼らのことを中国人は、北元(ほくげん、1371〜88年)と呼び、トップレベルの警戒体制を続けることとなった。





一方、当時の日本では武士による政権である鎌倉幕府(かまくらばくふ)が、別の武装勢力の反乱によって滅亡。
奈良の吉野(よしの)というところに後醍醐天皇(ごだいごてんのう)が天皇中心の政権(南朝)を建てた。

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しかし、武士のグループが天皇中心の支配を嫌い、京都を中心に「別の天皇」を立て、有力勢力の連合政権を建てることに。
これが北朝(ほくちょう)を保護した室町幕府だ。

南朝と北朝は、本州だけでなく九州でも激しく争った。


こうした混乱を背景に、日本周辺の海域では海賊の取り締まりができなくなり、“なんでもあり”の状態に。

そんな中、中国の明による取り締まりを逃れ自由に貿易をしようとした貿易商人たちや、沿岸の貧しい人々が船に乗り込み海賊となった。

彼らは東シナ海周辺に進出し、沿岸の村々や都市を襲い「倭寇(わこう)」として恐れられていくようになる。

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こうした中、朝鮮半島では「倭寇」退治で名を挙げた将軍 李成桂(りせいけい;イソンゲ)が、高麗(コリョ;こうらい)を倒し、1392年に王を名乗る。
国の名前は朝鮮とされ、首都は現在のソウル(漢城)とした。
ソウル中心部にある景福宮(キョンボックン)の建設も、この時にはじまった。

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なお同じ1392年には日本でも、2人の天皇同士の争いが“北の天皇”の勝利で決着。

1351年の紅巾の乱以降の東アジアにおけるゴタゴタは、ようやく中国の明(みん)中心の秩序が作られる形で安定することになったのだ。

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