新科目「歴史総合」をよむ 1-2-0. 18世紀以前の世界:近代化に向けて
1-2. 結びつく世界と日本の開国
1-2-0.18世紀以前の世界:近代化の前史
「歴史総合」は18世紀から始まる。しかし、それ以前の世界がどのような歩みをたどってきたのかを知ることも大切だ。
18世紀以前の世界でおきた事件、出来事や長期的な変動が、18世紀以後の世界にどのような影響を与えたのか? ここでは「近代化」に先立つ時代に注目して見ていくことにしたい。
銀によってつながる世界
これは、1500年頃の世界を、現在の国別にGDP規模に応じて表現した地図だ。
資料 1500年頃の世界のGDP規模分布地図(WORLDMAPPER)
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世界貿易の中心はインド洋にあった
13世紀以降、ユーラシア大陸南縁のインド洋から東シナ海にかけての海域で交易が活発化。
生糸、綿織物、硝石、胡椒・丁字・ニクズク・シナモンなどの香辛料、砂糖、米、蘇木(染料)、銀、銅、錫など、豊かな支配者の求める奢侈品から、庶民の求める日用品に至るまで、さまざまな商品が取引された。
14世紀半ばに寒冷化や黒死病(腺ペスト)の流行でいったん収縮するが、15世紀半ば以降、交易は再び活性化していた。
資料 平均気温の変化(ICPP第6次報告書、出典:環境省資料)
その担い手は、古くから中国人商人、アラブ人やペルシア人のムスリム(イスラーム教徒)商人、インド商人などであった。
資料 「13世紀世界システム」(出典:アブー・ルゴド『』より)
このような状況にあったインド洋に、豊かな物産を求めて割り込んできたのが、ヨーロッパのポルトガル王国やスペイン(イスパニア)王国だった。
キリスト教を信仰する両国は当初、大砲や鉄砲などの火器で武装し、むりやり貿易の利を奪い取ろうとしたが、強大な帝国のたちならぶ当時のアジアで、そんな暴虐が成り立つわけはなかった、
そこでスペイン王国の人は、南北アメリカ大陸で生産した銀をアジアに持ち込み、それでアジアの物産を買い付け、利ざやを稼ぐ戦略に打って出た。これは、南北アメリカの銀を直接スペインに輸送してほしかったスペイン王室の意向にそむくものだった。
なぜか。
スペイン国王は、当時頻発していたヨーロッパ諸国間の戦費のために、銀を欲していたのだ。
16世紀のスペインは、オランダ独立戦争(1568〜1648)に苦しみ、商業の覇権をオランダに奪われつつあった。
中国に吸い込まれる銀
しかし、銀をつなぎとめたいスペイン王室の思惑に反し、16世紀〜17世紀をとおして、莫大な量の銀(20〜50t)が、メキシコのアカプルコからガレオン船にのせられて、フィリピンのマニラに向かった(1570年ごろ、スペインは太平洋航路の開拓に成功した。これをガレオン貿易という)。
資料 1400~1800年の主要な環地球交易ルート(A.G.フランク(山下範久・訳)『リオリエント』147頁)
資料 「銀の大行進」ともいわれる1600年前後の銀の移動
(出典:岡本隆司「世界史のなかの戦国時代〜石見銀山が世界経済を動かす」)
銀の流入にともない商業ブームがおこると、中国の明の取り締まりに逆らう「倭寇」の密貿易が活発化。
16世紀半ばに明は海上貿易の禁止を緩めざるをえなくなった。
しかし、中国の商人による日本との直接貿易は許されなかったので、日本と中国の双方に拠点をもっていたポルトガル人が日中間の貿易の担い手となり、莫大な利益をあげることができたのだ。
アジア域内貿易の中継地として栄えたたのは東南アジアだ。なかでも現在のタイを中心に栄えたアユタヤ朝は典型的な港市国家であった。
オランダの東インド会社(1602年設立、連合東インド会社/VOC)は火器を用いてマルク(モルッカ)諸島の香辛料を独占的に入手し、日本をはじめとするアジア各地に商館をおいて、アジア域内貿易から利益を得た。
資料 VOC(連合東インド会社)のデザインを持つ有田焼
伊万里染付芙蓉手VOCマーク皿(日本・有田、京都国立博物館蔵)
有田焼については、1-2-2.結びつくアジア諸国を参照。
アジアに流れ込んだ巨額な銀は、中国に流れ込むと、北方の軍事拠点に送られ、遊牧民や狩猟民と対峙する兵を維持するための費用や、北方の諸民族から高級毛皮とか薬用人参を買い付ける資金として使われた。これら商品の販売によって力をつけた中国東北地方の女真は、やはり火器を有効に活用しやがて清を建国し、1644年に中国に王朝を建設することになる。
このように、当時のインド洋から東シナ海にかけての海域では、火器を主体とする武器や、それに対応した要塞を建築し、軍事力と領域内の支配を強化する、交易の利益を上げようとする軍事商業勢力が各地で有力となった。
同時代の日本における織豊政権や、東シナ海域の倭寇、スマトラ島のアチェ王国なども、交易ブームを背景とする同時代の軍事商業勢力ととらえることができる。
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流入し続けたメキシコ銀
なお、銀は日本の石見銀山からも輸出されていたが、17世紀末〜18世紀からは生産量が落ち込む。
慶長丁銀
(バプリック・ドメイン、https://ja.wikipedia.org/wiki/慶長丁銀#/media/ファイル:Keicho-chogin2.jpg)
一方、アメリカ大陸からの銀輸出は18世紀になっても続き、スペイン領であったメキシコやペルーで鋳造された純銀25gの8レアル(=1ペソ)銀貨が大量に鋳造され、アジアに流出した。
8レアル銀貨は良質で、そのままアジア間の貿易でも用いられた。中国では「銀圓」とか「銀元」とよばれ、これが現在の日本の「円」、中国の「元」、韓国の「ウォン」の語源となったのだから、メキシコ銀の影響おそるべしである。
メキシコ銀貨(https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ファイル:Mexico_Carlos_III_Pillar_Dollar_of_8_Reales_1771.jpg)スペインのペソ硬貨をもとつくられた。
しかし、スペインは17世紀前半の三十年戦争の結果、没落する。
代わって18世紀イギリスが世界経済の覇権を確立し、1816年に金本位制を採用すると、欧米諸国にもひろがり、銀を基軸とする世界経済体制は幕を閉じることとなった。
次回から、18世紀の世界を具体的に見ていくことになる。
今回見た18世紀以前の時代、とりわけ15世紀〜18世紀末までの時代(|近世《きんせい》)が、それ以降の時代にどれほどの影響を与えたのかということにも、地域ごとに注意していくとよいだろう。
このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊