素顔同盟(改)

原文 素顔同盟 すやまたけし

 その朝も目を覚ますとマスクをつけ、鏡に向かった。にせものの顔がそこにある。人工的すぎる、たとえ笑ったとしてもその表情は伝わらない。目もほおも無表情ですらある。そしてなによりも、その無個性な顔はみんなと同じなのだ。人と同じであることは幸福なのだとみんなは言うが、ぼくはそれに息苦しさを感じている。
 それでもマスク越しのぼくの顔は笑っているようにも見える。みんなと同じ、昨日のぼくと同じ、そして明日と同じ笑顔なのだろう。しかし、マスクの下のぼくは泣いている。ぼくはぼくでありたい。ぼくはいろんな表情をもちたいと、さけんでいる。鏡の中のマスクはそれを隠している。
 学校へ向かうぼくはみんなと同じ顔をしている。黙々と人波が過ぎていく。彼らはマスクの下で、どんな顔をしているのだろう。ぼくのように、疑問や怒りを感じることはないのだろうか。
 授業中もそのことばかり考えていた。先生は社会を教えていた。
「......つまり、市民がマスクをつけだしたことによって、人と人との密接はすっかりなくなり、平穏な毎日を送れるようになった......。」
 先生は教壇の上でマスク越しに笑顔を浮かべ、熱弁をふるっている。確かに、怒った顔も伝わらないなら、このほうがいいのかもしれない。だが、いつも同じ顔の先生にもの足りなさを感じるのも事実だ。
「......この安心を、一度手にしてからは、元に戻るわけにはいかなくなった。やがて、このマスクは法令化され,制度として確立されるようになった......。」
 ぼくは隣の友人の顔を見た。必死にノートをとっている彼の顔ももちろんマスクだった。それと同じ顔が四十個(ぼくの顔も含めて)先生に向けられているのを、先生が同じ顔で受け止めている。どうもこっけいに思えるのだが、隣の友人は奇妙に思うことはないらしく、静かにノートに鉛筆を走らせている。
「......きみたちも現在,義務としてマスクを着用しているわけだが、不便を感じたことがあっただろうか。考えてもみなさい。もし、きみたちがマスクをはずし、飛沫ををそのまま放置したら......。この世は大混乱に陥るだろう。人は憎しみ合い、ののしり合い、争いが絶えなくなるだろう。マスクを着けていつもニコニコ、平和な世界、笑顔を絶やさず、明るい社会。マスクはわたしたちに真の平和と自由を与えてくれたのだ......。」
 ぼくは友人にきいてみた。
「先生の今の話、おかしいと思わない?」
「なぜ? マスクのおかげで、ぼくたちはけんかをしないですんでいるんだろ。」
 彼は目元だけの笑顔で答えた。そのマスク越しの彼の顔は実ににこやかに見えた。しかし、本当にマスクの下でもそう思っているのだろうか。ぼくだけが変な考えにとりつかれているのだろうか。
「......マスクをはずすという反社会的な行為が、人々に不安と恐れを与えるのは当然だ。そのような者を排除して、健全な社会を保とうとするのは......。」
「しかし、みんなのマスクの下に隠しているのが本当のぼくたちの姿じゃないのかな。」
「おい、そこ。さっきから、うるさいぞ。静かに!」と先生はマスク越しの笑顔でぼくに言った。
 ぼくはしょんぼりしながら、その日、一人で帰った。しかし、マスクの下の落胆した表情はやはり表には伝わらない。だから、だれもぼくの心の内を読むことはできなかっただろう。マスクはある意味で便利かもしれないが、ぼくにはひどく味気ないものに感じられた。寂しい時は寂しい顔を、悲しい時は悲しい顔をしたかった。
 やがて、ぼくは街の東側を流れる川の公園のところまでやってきた。川の向こう側は自然保護区の森になっていた。秋になり、森は赤や黄の色彩にあふれていた。こちら側は川岸がコンクリートで固められ、公園になっている。川沿いのイチョウの木は等間隔に並んでいて、黄金色の落ち葉が歩道をうずめていた。
 ぼくはぼんやりと対岸の森林地帯を眺めた。そして振り返ると、高層ビルのぼくの街があった。この橋のない川を隔てて、あまりにも自然と人工物が対立しているのに、改めて驚いた。自然保護区は荒らされてはならない聖域だった。
 イチョウの木の陰に女の子がいた。ぼくと同じぐらいの年齢だろう。街から隠れるようにして、向こう岸を見ていた。ぼくは気づかれないように何本か離れたイチョウの木のそばで彼女を見守った。彼女の顔はみんなと同じマスクだった。ところが、彼女は次に、両手でマスクを覆うと、そっとそれをはずしたのだ。ぼくは思わず息を止めた。事の重大さに胸をどきどきさせながら周りを見回してみたが、だれもいなかった。
 彼女は素顔になると、遠くの森をもう一度見つめ直した。彼女の素顔は寂しそうで、悲しみさえたたえていた。そして、美しかった。
 ぼくは彼女のその行為が違法であることがわかっていながら、不思議ととがめる気持ちにもならなかったし、警察に通報しようとも思わなかった。彼女はぼくと同じ側にいる人間にちがいなかった。初めて同類に会えたのだ。
 その夜、ぼくはなかなか眠れなかった。なぜ、あの時、声をかけなかったのかと悔やんだ。ぼくは、マスクをはずした彼女と一緒にいるところを、だれかに見られるのを恐れたのだ。ぼくは自分の身が大事だったのだ。結局,勇気がなかったのだ。せっかく自分と同じ側にいる人間と出会えたのに、その機会を自分で逃がしてしまったのだ。
 夢の中に彼女が現れた。マスクをはずすと、悲しい素顔が現れた。彼女はぼくを、遠くの方を見つめるようなまなざしで見た。ぼくに失望し、軽蔑しているようにも見えた。
 次の日、ぼくは再び公園に行ってみた。しかし、その場所に彼女はいなかった。
 ぼくはどうしてもあきらめきれなかった。学校はいつものとおりだったし、マスクに疑問をもつ者はいなかった。みんな、統一された変化のないを顔をしていた。
 その後も東の公園に行くのがぼくの習慣になっていた。しかし、彼女に会うことはできなかった。もしかしたら、彼女はマスクをはずしているのを見つけられ、どこかに隔離されているのかもしれなかった。
 数週間が流れ、ぼくはいつものように公園の川岸にたたずみ、対岸の森を眺めていた。
 秋は確実に深くなっていた。そのころ,SNSでうわさされていることがあった。「素顔同盟」という一団があり、彼らはマスクをはずし、社会や警察から逃れて、この川の上流の対岸の森の中で素顔で暮らしているということだった。しかし、それもマスク着用拒否容疑による逮捕者が相次いだことで存続が危ぶまれているらしい。
 川の水は冷たそうにゆっくりと流れていた。真っ赤に色づいたモミジの一群れが過ぎていった。その流れを見ていたぼくはふと妙なものを見つけた。
 マスクだった。水色の不織布のマスクが川に浮いているのだった。それは先日彼女が着けていたマスクに似ていた。ぼくは木の枝を折り、そのマスクを拾い上げた。彼女のものかもしれない。彼女がその川の上流で、マスクを捨てたのだろうか。いや、そうにちがいない。
 ぼくはこの機会を逃がしたら二度と彼女と会えないだろうと思った。ぼくはためらいもなく、その川を上流に向かって歩きだした。

※続きはオリジナルで執筆中です。
 乞うご期待!

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