見出し画像

儀礼・儀礼的なもの、大衆、恋愛、普遍性

この記事は全文無料公開です。記載の値段は、あくまで、目安です。これが何かしらあなたの益となったら、投げ銭をお願いします。

先日、いとこの結婚式が行われた。知り合いの、明るいニュースは気持ちが良いものだ。おめでとう、幸せになってください。

さて、結婚式に参列したのは記憶の限りだと、小学生くらい以来だと思う。まいてや親族としての参列はさすがにはじめてだ。親が張り切ってスーツを新調してくれた。新しいものを身にまとうのは中々に気持ちの良いもので、思考も新たに旅の始まりを予感させた。

ただ、単刀直入に言うと、結婚式に参列したことで、僕はどうしようもないニヒルに陥ってしまった。いや、このニヒルはただ結婚式だけのせいで生まれ出たものではないのだが。

もともと結婚とは無縁の人生だと思ってきた。もちろん結婚したいと思ったことは人生の中で数回あるのだが。それでも結婚をする自分なんて想像のしようがなかった。そもそも結婚とは、「単に愛し合う男女(が一般的)が結ばれる行為」ではない。本当はそんなことではない。もっと複雑な意味合いがあるのだ。

本当は、結婚式は、「親孝行の一手段」でもあるのだと思う。晴れ姿を見せる、感謝を形にする。さらには、親だけでないすべての関係者に感謝を表明する。

だから、その姿に感涙するのだ。親は子に、「生まれて来てくれてありがとう」と言うのだ。言ったのだ。本来ならそんなこと誕生日にでも言えばいい。それでも誕生日にはそんなこと言わない。普通何十回も誕生日は来るからだ。そんな感動セリフは誕生日程度では言えない。一生に一度しかない結婚式(その人とは絶対一回しかできない)だから言うのだ。

つまり、結婚は親不孝ではない、親孝行なのだ。子が親元を離れ、どこの馬の骨とも知れぬ相手の元へ向かう。それなのに、親孝行なのだ。

結婚式は、親に向けてのパフォーマンスという側面も(多分に)あるという前提を踏まえた上で、この思考の旅は始まる。今から、長い旅になる。〈僕という人間〉がどういう思考をしているのか、また何に生きる意味を見出しているのか、一体何が普通と違うのか、この旅でおおよそわかるのではないだろうか。果たして僕はどういう恋をするのか、しているのか。今、ラーク・クラシック・マイルドを吸いながら、この長い旅を想う。


001日目:結婚式を挙げること

結婚式とは儀礼の一種である。今回の結婚式は、いわゆるキリスト教式の、チャペルなどといわれる場所で挙げるものであった。だからこの思考はある程度キリスト教というベースに基づいたものであることは断っておくと同時に自分でも認識しておかなくてはならない。

結婚式が儀礼だということはある程度市民権を得ている発想であり、反論は少ないものと思われる。だが、僕がここでいうのは、それが、儀礼の「一種」であるということだ。

つまり、儀礼とは言い切れない。儀礼なんだろうけど儀礼じゃないような気がする、ようなものだと。

結婚式は厳粛で、見ていて非常に気持ちの引き締まるものだった。新郎が入場し、新婦が父親に支えられつつも自らの足で新郎の元へと歩を進める。神父なるものがもはやステレオタイプ化してしまっているような、失礼ながらも「ありきたり」な、あるいは「テレビやらで見たことある」ような言葉を発する。前近代。

「汝は…(中略)…一生愛することを誓いますか?」

「はい、誓います。」

そして、結婚指輪をはめる。おそらく手汗でぐしょ濡れであろう指に丁寧に輪っかをつける。

花嫁のご尊顔を拝む新郎、誓いのキス。凛々しいはにかみ顔の矛盾したような顔が両人からこぼれる。

神父がいう。神が祝福していると。神が救いを与えてくれると。


そんなわけねえじゃん、と思うのは近代以降の合理主義による弊害だ。こういった形式的なものを、一旦は本気で信じる気持ちが、現代には必要だ(と、同時に全く疑わないことも問題なのだが)。

あの時、確かに神はいたのだ。救いを差し伸べる手が、そこにはあった。あれは確かに儀礼だった。あるいは儀式だった。

そこで僕は思ったのだ。おそらく21歳にして、現状の人生の結論だ。本当に考えがピコーンと降りて来た。

個々の事例においては、結婚式は儀式であって儀礼であり、そこに神はいる。しかし、すべて一般化して制度化して捉えた結婚式には神はいない。それは儀礼的なものであって儀礼ではない。

実存哲学は、物事の本質を現前する実存に求めた。それに近い形でいうなら、僕のこの話は、物事の本質は個々の具体物に宿るということになる。

本質とは普通、抽象化されたエッセンス(エッセンス自体本質なので同語反復だが、もっと日本語的なニュアンスを含むエッセンスと思って欲しい)と思われている。本質に個別具体性を求める人はあまりいないように思える。

だが、僕はその思考を反転させる。というより、衝撃的な出来事のせいでそうせざるを得なくなってしまった。間違っているのかもしれないけれど、僕はそうとしか思えない。そう思うから、そうなのである。

すごくわかりやすく簡単に説明すると、タバコの本質は「タバコを吸っている自分」であり、「今、吸っているこの瞬間」であり、「においがいやで分煙している店にしか入りたくない私」なのだ。学校の本質は「学校に通ったあの頃」であり、「学校に通っている今」であり、「学校に通わない自分(ゆたぼん君へ向けて)」なのである。

タバコの本質を「ニコチン」や「タール」、「依存性」に求めても不毛だ。学校の本質を「学習共同体」や「教師」、「団体行動」に求めても何も見つからない。それは、言語的な本質であって、それを実際に享受することはない。僕は本質を、もっと肉体的なものだと考えている。

要は、個々の事例にしか本質は宿らない。どれだけ願っても一般化されてしまった「偽物」に本質は降りてこない。それ=本物で、それ以外=偽物という図式がいついかなる時も存在し、それは対立(矛盾)することなくこの世界に生きる。

先日、世界のdaiya。とかいう人がツイートした、「カクテルと大人になること」の話、あれは僕の身に起こった青天の霹靂を暗示しているのだ。あの人のツイートから少し抜粋しよう。

「…大人になるとは、抽象化された世界を生きることだと思う。…準普遍的な世界に生きる。…大人になるためには酔態(カクテルの話をしていたので)の一般解を出す必要がある。…大人になるとは、言語[記号]としての酒を楽しむことだ。…」
※()は引用者注

大人は、一般に社会の歯車になる。レールの上を渡る。もちろんそのレールを敷く側になる人もいるのだが。それは、具体を捨て抽象を生きることに似ている。レールとは大多数の人間がこう動くと推定されて敷かれるものであるから、その上を歩くことは抽象化された世界に生きることと共通点をもつ。

だから、僕は大人にはなれない。僕は具体から逃げられない。机上で抽象することと、抽象を生きることは全くの別物だ。むしろ、抽象を動詞(つまり動的なもの)として使うことは、具体的極まりないことで、抽象を名詞(つまり静的なもの)として使うことが、抽象化されているという証左になる。僕は抽象することに依存している、怖いからだ。具体的なものはある意味劇薬で、こんなことがあったのだと視覚的にすぐわかってしまう。だから、目に見えない抽象に事象を仮託する。言葉と理論のヴェールで個々の事象を包み込んでしまう。それは執筆活動でもあり、思考の旅でもある。

少し話をもどすと、抽象化された世界が大人の世界であって、具体的なものに塗れているのが子供の世界ということになる。

僕は哲学あるいは思想には不勉強な(まだその次元に達していない)ので、こういった考えが一体誰のいつ頃のものと似ているのかがわからない。あるいは誰の論とぶつかるのかも。僕みたいな変人かぶれの考えていることなど、前の思想家が考えていないわけがない。それはいずれ、猛勉強して見つけてみようと思う。

まあ、本当にゼロベースでこの考えが浮かんだのならそれはそれで哲学のセンスがあるのではないかともおもうのだが(自惚れるな!)、それでも、この考えが自分の軸になる一つの考えであることは揺らがない。21歳当時として、この思考を備忘録的にとどめておこうと思う。

さて、それでその「カクテル」ツイートがなぜ「儀礼的なものと本質」の思考へつながるのか。すこしだけ論理展開して追っていこうと思う。

まず、抽象化された世界を生きるのが大人だと言った。ということは大人になるための行為はどう解釈すればいいのだろう。ここで、新しい言葉(概念)を運用していきたいと思っている。大人になるための行為を、「擬似相対的コドモ化」と言いたい。たとえば結婚式は明らかに大人の階段を登る行為だ。これを擬似的に「大人がする行為」として、あるいは「親の行為の追体験(追体験の定義からは外れる言語使用だが、別の媒体で体験すること程度に捉えて欲しい)」と見てみようということなのである。結婚式が親孝行だとは先ほど言及した。つまり結婚式は「親」を一旦挟むのだ。親孝行をするのは、絶対子供だ。いくつになろうとその人にとっては子供だ。

だから、擬似的な相対化として、自分のことをコドモとしておく行為が、大人になるための行為で、それを「擬似相対的コドモ化」と呼んでみたいと思っているのだ。自分のことをコドモだと「仮定」するのは大人にしかできない。もちろん自分のことを大人と思い込む子供もいて、そういう人が「勘違い」で自分をコドモだと「思い込む」(本当に子供なのに)ことはあるだろう。しかしそれは単に例外的な場合である。適切に思考さえできていれば、自分が大人か子供かの判別など容易なのである。

ちなみに、ここで大人と子供の定義が曖昧だと、いろいろな誤謬が生まれそうなので補足しておくと、ここで子供とは「大人(親)の保護下にあり、自律的な決定のできない者」で、大人とは「そう(子供)ではない者」である。だから、高校生でも一人暮らしなどして自活していれば(それは自立とかなり被るところがあるのだが、自立と自律は別物である)、ある程度大人な側面は持つことになるだろう。

僕個人的な意見としては、大学生以降は大体の人間が大人だと思う。

ある程度「擬似相対的コドモ化」について理解されたと信じたいが、さすがに新概念の登場に説明が結婚式だけなのは拙い気がする。他の例もあげてみる。

それこそ、「セックス」なんてどうだろう。確実に大人になるための行為だと思うが。いささか都合の良い例だったかもしれないが、親が「セックス」したから(まあ人工授精とか精子バンクとか養子とか例外はいっぱいあるなあと思いつつも強行突破します)子供が生まれるのだ。だから、「セックス」は親の行為の追体験として「擬似相対的コドモ化」になるのではないか。

また、「成人式」もよく大人への道のひとつに数えられる。成人式はもっと簡単で、あれは大人になる「儀式」なのだ。一般に成人とされる20歳(18歳に引き下がるのも時間の問題)たち、誕生日は人によってまちまちなのに、1月の2週目の日曜日(だっけ?行ってないからあまり知らない)をもって、その世代全員に「大人」の烙印が押される。成人するということは、その主体は子供たちだ。大人になるのはいつだって子供なのだ。女の子にとっては、最初の晴れ姿を親に見せる舞台として成人式を捉えている子も多い。だがそれは、親孝行というルートを通ってどのみち「擬似相対的コドモ化」にたどりつく。

ここで、ほとんどすべての行為にある共通項を見出す。

「儀式」だ。

さっき結婚式は具体的には儀式だと言ったし、成人式は間違いなく儀式だ。童貞処女を喪失することも神話的な儀式といって差し支えないと思う。最初のセックスをただ快感のために行う人はおるまい。嫌でも純白の喪失を考えざるを得ない。だから儀式なのだ(2回目以降は儀式でなく単に行為となるのが普通だろう)。

「擬似相対的コドモ化」=「儀式」の関係が成り立つ。思えば古代から日本は大人になる儀式を行っていた。抜歯とかね。

だから、その儀式を行う、なりかけの大人たちは、個別的な儀式に没入する。本質を味わう。子供は、擬似相対的にコドモになり、本質を吸うことで大人になる。享楽的に、それは享楽的に、本質を吸う。

やっとふたつの思考がつながってきた。

大人は個別具体的には生きない。だから、禁煙でいう、「最後の一本」が擬似相対的コドモ化であり、本質の一服だ。もっといえばいつだって大人は子供に戻れる。もちろんそれは擬似相対的なものだが。

結婚式は、愛し合う二人が、その晴れ姿を、過去の自分の惨めな姿と対比させて聴衆に提示する。だからその両方の姿が鮮明に映る両親や親族が率先して泣いてしまう。その個別的な式は「儀礼」でしかありえず、神のご加護あって成り立つものだ(神がいるというキリスト教の前提のもとで)。本質は今も何かしらの何かに埋まっている。掘り出して磨いてみると、いつだってコドモになれるのだ。


002日目:結婚するということ

今、僕の周りに結婚したいと願う人はどれくらいいるのだろう。また、結婚したという人はどれくらいいるのだろう。多くの人間が、結婚に魅力を感じているのだと思う。それは単純に一人は寂しいから、とか、子供が欲しいから、とかそういうことだと思う。

僕の知り合いに、結婚業界(いわゆるブライダル系)で働こうとしている人がいて、その人は自分の結婚に興味がなくても、他者の結婚に対して熱くなれるのだと。

僕は結婚自体にはかなり淡白な考えの持ち主で、したいならするよな、とそれ以上は思わない。

現状僕は結婚したいとは思っていなかった。それは僕がまだコドモで、具体に飢えていないからとも言える。

だが、そんな考えが先日の結婚式で大きく揺らいだ。

多分、普通は、具体への欲望としての結婚願望が生まれるのだと思う。出席している人はたいてい大人なのだから。

でも、僕の場合は少し違う。そもそも、結婚したいと思わない思考にブレが生じただけであって、結婚したいと思ったのではない。

儀式というものが、ある程度親孝行性を持つので、というより、結婚式があまりにも親孝行的なので、親孝行としての結婚を義務付けられている感に押し潰れそうになった。一人息子。親としての晴れ舞台でもある結婚式に、僕は立たせてやれないのだろうか。かねてから親不孝者である僕はそう思うのである。

第一次的な家族からは逃れられない。改めてそう思ったのだ。

ここで第一次的な家族とは、生まれた時すでにあった家族(「親」と名のつくもの、あるいは兄弟姉妹等、広く見ればペットや子供の頃からお気に入りのぬいぐるみまで含む)のことで、どっかの何かの本にそう書いてあった気がするものの、未だ正しい呼び方を見つけられていないので、そう言ってしまっているだけである。ちなみに第二次的な家族は結婚した時の相手や、そのあと生まれる子供のことだ。

さて、みんなが思い描く親孝行ってなんなんでしょう。

人は死んでいく。おそらく一人残らず。そういった時、本当に孝行することは可能なのか。嬉しさと優しさのタネを撒き散らすことが、孝行なのだろうか。

結婚式の親孝行的側面が、さらに思考を複雑にさせていくのだった。こんな長編を執筆しようと思っているのも、脳の限界がきたからなのだ。もう無理だ。これ以上考えたら多分爆発する、と。そう思ったから一度脳をスッキリさせるために思考を整理しつつ、皆が理解できる言語に翻訳する。

完全に話がそれること、勘弁願いたいが、僕がオナニーやゲーム実況(エンタメとしての)が好きなのは、多分考えなくて済むからなのだ。おそらく僕がエッチが嫌いなのは(まさかと思われそうだが、実はそうなのである)、そのあと(わりと最中も)色々思考してしまうからなのだ。愛とか性とか、一体何なんでしょう。単発のオナニーは世間一般のヤり捨てである。快感だけを求める世界。思考の入り込む隙を与えない完璧な欲望フィルター。本当は僕はそういうのを求めているのかもしれない。

閑話休題、どうせ考えることから逃げられないので、勇気をもって少し向き合ってみようと思う。もしかしたらこれは僕がオトナになったってことなのかも。皮肉な話だと思う。

さて、結婚式の儀礼性、結婚の親孝行性について考えたら、絶対に逃れられない話が待っている。結婚の愛の部分である。

言葉にするのがためらわれるほど思考が絡み合って大変なことになっているのだが、まあなんとかなるっしょと思っている。僕は人生には悲観的(ペシミスティック)だが、その実意外とポジティヴなのだ。


003日目:結婚するとしたら(前編)

僕が結婚するとしたら、どういう風に、どんな人と、何歳で、結婚するのだろう。結婚なんて大多数の21歳は真剣に考えていないだろうし、考えられるほど身近なものではないようにも思える。

結婚には愛が必要だ。愛があれば結婚できるとは毛頭思わないが、愛がなければ結婚なんて絶対できない。政略結婚だとか、許嫁だとか、愛に依存しない結婚のあり方も多少見受けられるが、それは相手への愛ではないだけで、根幹の部分に愛がある。政略結婚ならその政治主体、許嫁なら親、そういった方向へ愛が向く。

だから、例に漏れず僕も結婚するときは誰かを愛している。もっとライトにいうなら、誰かに恋をしている。誰かが好きだ。

そうなるとまた話がややこしくなるのだ。僕は感情に気づいてしまったAIのようになる。普通から逸れる時に、正道に置いてきたはずの恋愛感情を今になって引っ張り出し、哲学しようとする。柄にもなく病んでいる。いやむしろその方が「僕らしい」とさえ言えるのだが。

僕の恋愛観はかなり特殊なものだと思う。そもそも人を好きになることに懐疑的な僕なので、当然恋愛を見る感覚も歪む。歪んでいるので、せめて恋愛は普通でありたいと願う。ここで、さらなる議論の展開を望むため、短いが3日目を終わりにして、箸休め的な3日目深夜の部屋での友達との恋バナのコーナーを用意したいと思う。遠回り的ではあるが、僕の全てをさらけ出すため、お付き合い願いたい。僕の恋愛観、恋愛事情、恋愛ハウツー(?)は次に宿っている。


003日目夜、恋バナにて:大衆的なものと理想のデートコース

僕は大衆が嫌いだ。なぜなら、大衆は頭が悪いからである、大衆は匿名性に溺れているからである。つまり、大衆は責任を持たないのだ。だが、仕方ない。大衆とはそういうものである。大衆に開かれるとは、すなわちバカでも理解できるということだ。まず、勘違いなさらないで欲しいのが、こんな拙文を読んでくれている時点であなたはバカではない。読もうとする時点でリテラシーを一程度持っていることが担保される。だが、本当にパッパラパーな人がこの世界には存在する。残念だが、それが現実。そして、その中でも頭のいい人、知性に塗れたひとはいて、僕なんかより高度な思考をして、それを高度な言葉で表現している人がいる。哀しさと嬉しさが同居する。大衆の中には色々な人がいる。

それでも、それら全てを大衆と括ってしまえば、先ほどからいう、バカの集団に成り果てる。それが大衆。しょうがない。(補足:大衆についての議論は007日目でまた展開されます)

だがしかし、そんな中で僕は大衆的なものは結構好む傾向にある。

例えば、僕はインスタ映えが好きだ。自分がそういう写真をとったりすることはほとんどないが、そういう場所は好きで、よくインスタや雑誌でチェックしている。

さらに、僕は甘いものが好きだ。それは、こんな僕が甘いもの好きというギャップに自分自身が萌え込んでいるのもあるが、甘いものは脳を幸せで満たしてくれるから好きだ。食べること全般はまあ好きだが、例えばラーメンとかだと、味や麺の硬さ、スープの絡み具合、チャーシューとの兼ね合いなどを「ひとりレヴュー」してしまうので、脳が休まらない。いわゆる「脳死」状態で幸せを獲得できる甘いものが好き。だから、よく雑誌を買っていろんな店を見る。たまに所用で出かけたらそこに寄ってみたりする。(でも一人で行くのがためらわれるキラキラしたお店ばっかりだから、そういうところに一緒にいける友達が欲しい。我こそはという人はLINEしてください。)

話が逸れに逸れまくったところで、一度軌道修正。

僕はインスタや雑誌でお店をよく見る。それはつまり、「大衆的なもの」を欲しているということだ。大衆は嫌いだが、大衆的なものを嫌いにはなれない。これ、実は先ほど1日目のところで言った、「儀礼」と「儀礼的なもの」の関係に似ている。そこでは「儀礼」の方が良いものとして紹介したが、今回は「大衆的なもの」に軍配があがる。インスタなどに上がっているお店はいわば普遍化された情報である。個々の訪れた人たちは大衆でも、その情報は抽象化されたレビューとして提示される。だから「大衆的なもの」になる。あるいは「インスタ映え的なもの」と言えるだろうか。

僕の理想のデートコースは結構センスがいい。自分で言うのもなんだが、多分デートコース選びの感性は鋭い。僕とデートしたことのある女性たち、今こそ同調すべき時だ。

センスがいいと言うより、多分他の男性よりも、好みが女性寄りなのだと思う。だから、女の子が喜べる場所へ行ける。だってそこは僕も喜べるのだから。

しかし、大衆的なものへの欲望は同時に、自分が大衆的でないこと、つまり普通ではないことへの自覚を意味する。

いや、わかってるんだよ、自分が普通じゃないことくらい、と僕はいう。それでも、今もずっと信じている。本当は普通なのは僕なんだって。周りがみんなおかしいだけだって。

それを無残にも打ち砕くのが、大衆的なものへの渇望だ。そもそも意識して摂取すること自体がずれている。本当に大衆的な人(あるいは素直に大衆)は、息をするようにそういう情報を取り入れる。そして忘れていく。僕がそういった情報に詳しいのは、意図的に取り入れたことだから記憶に残っているためなのだ。

それでも僕は普通の恋愛をおそらくしたことがない。まあみんなしてないのだろうが。そもそも普通の恋愛ってなんだ。僕は結構相手の心は読める方で、日夜人間を観察しているから、本当に細かい気配りができるのだけれど、いかんせん思考が狂気的なもので、たまに爆弾を投下してしまう。その節は申し訳ない。

大衆的なものへのあこがれは凄まじい。何度普通でありたいと願ったことか。普通の人間だったらもっと人生は楽しかったはずだ。そうなるはずの人生を僕はデートコースに託す。僕にとってデートとは、「普通になること」なのだ。はっきりした。当時の僕は知らず知らずにそうしていた。彼女の有無に関わらず、デートをするときは、一般的にかっこいい格好をする。ファッションは結構好きだが、デートの日はあえて無難(つまり大衆に紛れる格好)に置きにいく。そして店の基準を相手に据える。僕が単に行きたいだけでない場所に行く。

それでも、僕は普通ではなく、人とディープに付き合うことができない。そもそもディープな付き合いが怖い。それなりに長く付き合った彼女も、結局深入りするとどうにもなくなる。Yさんなんかは友達として結構深いところまで関わったけれども。

もちろん、自分の思考を共有してもらうだとか、理解してもらおうなどとは思っていない。多分できないからだ。だから執筆というおおよそ正常な精神状態の人間がするはずもないことをしている。執筆は自身の内心(本心)を迎合的な記号に置き換えて他者へ接続していく行為なのだから。

昔、よくポエムを書いていたことを思い出した。それは、歌詞という形で、歌にして表現できると思っていた。今、そんな幻想は抱かなくなった。歌にできることなんてたかが知れている。歌詞に共感するのは大衆だからだ。正確に言うと、その出来事や思い出が、その時の心情が、唯一無二ではないからだ。もちろん僕も歌詞に泣かされ、共感したことはあるが、それは僕が「そのこと」について作詞者あるいはそれに共感する皆々様と「同じ」部分を有しているからだ。

他者と同じ部分を表現することに僕は最近あまり価値を見出していない。少なくとも、そういう音楽に興味がない。人間として、どうしても共感して涙してしまうことはあれど、哲学徒として、そういう価値感覚には嫌悪感を抱く。

昔、意味もわからないポエムだったものは、言語によって多少意味の通ずる論理になった。感情のままに書きなぐっていたものが、感情を整理して理性で書き連ねるようになった。

勉強していくことは、本当に世界を豊かにするのだろうか。勉強をすることで僕は論理と知識のファッションを身に纏えるようになったが、そのせいで僕は他者と裸の付き合いができなくなった。僕の裸が醜いことを勉強によって知ってしまったからだ。

僕は今でもアンチ勉強派である。自分が一生懸命勉強することと、勉強を善いものとすることは相容れない。塾で教えているのは勉強の名を騙った「頭脳パズル」あるいは「暗記ゲー」だ。中学生が主な対象なので、義務教育が存在するかぎり、せめてそれくらいはやらなくてはならない。それを否定するためには国の制度を変えなくてはならないので、今の僕にそこまでの大口は叩けない。だが、僕は高校生には勉強なんてしなくてもいいと教える。端的に言えば義務ではないからだ。義務ではない理由を考えると、僕はある一つの結論にたどり着く。

高校以降の勉強は、人を生きづらくさせてしまう可能性があるからなのではないか。

僕は、高校に入るまではろくに勉強なんてしなかった。中3の冬休み、毎日8時間勉強したことだけが唯一のまともな誇れる勉強か。でも、高校に入って変わった。部活に入らなかった僕は自然と模試を受けてみる気になって絶望する。そしてその絶望がやる気になり、もともと一橋志望だったので、高みを目指すなら言うことで高1から受験勉強しだしたのだろう。

そこから、僕は哲学に出会ってしまった。難解な文章だった。それを紐解くことが自分の人生に花を咲かすことだと信じてやまなくなった。高校以降の勉強は突き詰めると哲学になる。

歴史哲学、数学哲学、自然科学(これは哲学などの人文科学と対置されるが、自然現象を実験によって法則をみつけ、帰納的な仮説を立てるという科学のあり方は哲学に似ているものだ。)、あるいは大学以降の教育哲学、心理哲学、政治哲学、etc...

人は深く考えないとダメなのだろう。哲学は、「とは何か」を問うていく学問だと僕は思っているが、個々人がどう哲学と向き合い、どう哲学するかは自由で、それこそがまさに哲学の哲学たる所以なのだとも思う。

人が息に詰まる原因は哲学にあり、それを解消させる手段も哲学にある(とは言い切れないが、、、)。哲学というマッチポンプ。だからそんな哲学と出会ってしまったら普通の人は耐えられない(多分僕はかなり精神が強い方だと思う。他の人だったら精神をおかしくしてどうにかなってしまっても特段おかしな話ではないと思う。哲学向きのカラダなのだろう)。だから、高校以降は義務から外し、逃げ道を用意する。

トンデモなようで意外と悪い線は行ってない結論ではないだろうか。まあこれが理解されるのは、高校で(あるいはそれ以降の学習体験で)哲学と出会ってしまった人のみなのだろう。嗚呼悲しい哉。

さて、恋バナから一転闇みたいな話をしてしまったが、どうも僕はすぐ話が逸れる悪い癖があるようだ。しかもそれを丁寧に掘り下げてしまうというオマケつき。

話を一気に戻し、全てを連結させると、僕は勉強によって、自分がどうにも人と違うことを言葉の上でも実感してしまった。だから、僕は自分の頭の中をうまくinterpretする術を身につけた。こうやって今僕が他者に開かれているのは、うまい言葉選びあってのものだ。

これは恋においても同じで、僕が他者と違うことはわかっていても、恋愛感情は人並みに持っているので、誰かを好きになってしまうことはある。そのとき相手に自分を開いていけるように、大衆的なものを知っておく。僕が大衆的なものを好むのにはこういう悲しい理由があるのだとも思う。

多分、筋トレや護身術にかなり前から勤しんでいるのも、近い理由あってのことなのだろう。筋トレは自分が他者より力で優越することで、護身術は自分が他者より技術で優越することで、なんとか「普通でない」を「かっこいい」という方向へ持っていこうとしているのだ。なんて健気なんだ俺。

ということでそろそろ恋バナを終わらせようと思っているが、最後にひとつ。

ここまで自分が特殊だった場合、好きになる相手も特殊なのでは?という話。これについては、諸説あるのだが笑、多分大多数の人が納得するようにいうと、少なくとも好きになったときはその人は普通の人(ここでの普通とは、容姿などの内部パラメータではなく、他人がどう思うかという外部パラメータの話である)なのだ。付き合うことでその人を普通でなくしてしまうことはあるのかもしれないけれど笑。

ある程度多方面から文句を言われそうな言説をしたところで、ここでの話は締めよう。また4日目に似たような話は出てくるので、そこでもう一度楽しい恋バナをしようではないか。

それじゃ、おやすみ。


004日目:結婚するとしたら(後編)

さて、朝が来た。普通恋バナとは具体的なあれこれなのだが、こうまで抽象的な恋バナをされても困ってしまうはずだ。恋バナの、言語的本質性。

そもそも恋とはなんだか考えたことがあろうか。

単に人を好きになることが恋なのだろうか。また、恋と愛は同義なのか。

こうまで深く考えてある真理に気づく。

恋の本質は、具体にしか宿らない。

では、僕に恋の本質を見ることはできるのだろうか。そもそも恋に本質なんてものが宿るのだろうか。

それが片思いの場合、その本人には本質は宿っているだろう。では両思いの場合、お互いに同じ本質が同居しているのか?否、そんなはずはない。本質は十人十色だ。だから本質なのである。つまり、同じ恋をしていても、違う恋の本質がある。

それが、恋の本質の本質なのではないだろうか。今、「恋の本質」について考えている僕がいる、それこそがまさに「恋の本質」の本質で、そうやって考えたものでしか本質を俯瞰することはできない。今、裏技を使って本質に迫ろうとしている。つまり恋のメタ認知。

さて、恋について理解するのに手っ取り早い話が、恋をすればいいのだ、と。そう誰かが呟く声が聞こえる。

恋をすることそれ自体は自由なことであり、ある意味受動的な側面の否定もできない。だから恋をしようと思ってしなくても、誰かを好きになってしまうことはある。だが、恋の本質に迫る「普通の恋」は、つまり「平凡な幸せ」に直結する。

僕は、「平凡な幸せ」を捨てた。それを育みたい気持ちは強いが、それでも特殊という事情からは逃れられない。

誰かを好きになったら好きになればいい、そうやって内なる欲望に素直になる。もしそういう風に「ただ人を好きになっ」た場合、それでは僕は普通ではない普通の人だ。自家撞着の最たる例だ。矛盾だ、背馳だ。

僕は予想以上に大きなものを背負いすぎた。どちらにも居場所がありすぎた。もともと浮世離れしていた人間ではなく、次第に世間との乖離を自覚してしまったために、狡猾に世間で生きることができるようになってしまった。あえて社会に溶け込むことが得意になった。そうやって自分と世間を騙して生きていくことで心の平穏を保ち、道化を演じることで他者に開き、毎日充実しているように見せかける。

僕はいつだって危険信号が赤く点滅している状態にあるのだ。だましだましで、自己を平静にすることで、その一瞬のみ普通になれる。異常なのだ。

僕はそれでもその問いにぶつかろうとする。目を背けたくなかったわけではない。むしろ、目を逸らそうとはした。しかし、世の中には、問いの方から肉薄してくるような人種がいるのだ(ここであえて人種という言葉を使った背景を考えてみてほしい)。

青鬼というゲームがある。いわゆるフリーホラーゲームの王道である。館に迷い込んでしまった主人公一同を、青鬼というバケモンが襲いかかる。言ってしまえばよくある鬼ごっこ系ホラーゲームなのだが、僕の場合、まさにこういうゲームのような形で種々の問いが追いかけてくる。

問いの方から肉薄してくる。その恐怖を、デフォルメ化した妖怪に託して世間に頒布したのが、ホラーゲームである。

さて、そもそも妖怪とはなんなのだろうか。妖怪という言葉から、今の僕の悩みに「肉薄」してみたい。

そもそも僕は人間なのかと考えたことがある。その問いからさらに、人間とは何かという問いが派生する。哲学のスタートなのだが。かつての偉大な哲学者たちもこうやって人間という問いにぶつかってきたのだと思う。

それで、僕は妖怪の一種なのではないかと思ったことがあった。だから妖怪とはなんなのか、これを明らかにしたかったのだ。

ところで、妖怪と神の違いを明確に説明できるだろうか。ひとつの区分には、霊的(超越的)現象のうち、人に危害を加えるもの(人的制御のきかないもの)が妖怪、人に危害を加えない、あるいは利益をもたらすもの(人的制御下にあるもの)が神、というのがある。小松和彦氏の『妖怪学新考』から借りた区分法である。なんともシンプルでわかりやすい区分だろうか。

僕は妖怪だろうか、神だろうか。はたまた人間であろうか。僕はともすると人に危害を与えているやもしれない。だが、僕自身が霊的なものだとは思っていない。なぜならそう思考する実在があるからだ。いささかデカルトの「コギト・エルゴ・スム」のようでもある。

それでは妖怪は自分自身を実体のない(霊的)存在だと認識しているのだろうか。

僕が、妖怪(的なもの)に関して前から疑問に思っていることは、「果たして彼らは僕らを脅かそうと意図している(つまり自身を妖怪と認識している)のか」ということだ。例えば、この世と平行して、同時に進行するアナザーワールドが(パラレルワールドというよりもそっちの方が適切な呼称な気がする)存在していて、それが相互に連関することでひとつの地球を作り上げていると仮定した場合、普通に存在する妖怪とそれを勝手にビビる人間とに分割できないだろうか。これが、僕の心の片隅にある「アナザーワールド論」なのだが、まあそれは結構暴論で、この世の事象をよく観察してみると、妖怪はこちら側に明らかに敵意を向けている場合が多い。

例えば、学校のトイレの花子さん。学校のトイレで、扉を3回ノックし、「花子さんいらっしゃいますか?」と尋ねる行為を一番手前の個室から奥まで3回ずつやると、3番目の個室から「はい」と返事が返ってくる。その音を頼りにドアを開けると、おかっぱ頭で赤いスカートを履いた女の子がいて、そのままトイレに引きずりこまれる、というのがおよそ一般的な花子さんだろう。

この場合、花子さんがトイレに引きずり込む理由はなんなのだろうか?

そもそも花子さんとはなんなのだろう。最も有名な説には、花子さんは学校にて変質者に追われていて、トイレの個室へ逃げ込んだが見つかって殺されてしまった、というのがある。だから、花子さんは「死んだ花子さんがかつての姿のままで存在している」ということになる。つまり幽霊(妖怪)の類である。そして、この花子さんはおそらくその変質者に強い恨みを持っているのだろう。そのせいで成仏もままならず、いまだにトイレの3個目の個室に立てこもっているのである。

だから、花子さんは明らかに我々(この場合は花子さん召喚の儀を行ってしまった者のみに限定されるが)に何か悪いことをしようと企んでいる。それは「恨み」という感情に象徴される。つまり妖怪=怨恨の具現化とも言える。

よって、論理的に考えれば妖怪は確実に我々人間に「何かしら」をしようとする意図をもつ。それが良いこと(誰かにとって)であれ、悪いこと(誰かにとって)であれ。だが、どうしても感情的には、妖怪がただ対人間怨恨蒸発装置として存在しているとは思えない。妖怪には妖怪の人生(妖生?)があって、それが何かのきっかけで人間側の世界線と共鳴してしまうと考えてしまう自分もいる。

僕は現代にてそれを引き起こすのが、ホラーゲームだと思っている。それは抽象的に、妖怪をメタ的に操作する人間がい(操作するのはおよそ人間の主人公だが、それを巧みに操って妖怪を撒いたりするわけで、間接的に妖怪を操作していると言っても過言ではない)て、そこで妖怪と人間の次元の乱れが生じる。妖怪は2次元から3次元へ、「問い」へと姿を変え、我々の元へ現れる。

すなわち、僕が言いたいのは妖怪=問いという図式である。これこそが、僕が自分を妖怪と誤認識した理由である。問い(妖怪)と向き合いすぎているがために自分を妖怪(問い)と誤って把握してしまう。例えばナルシストは、自分をイケメンという特性のもとでそれにこだわって生きていく。だからナルシストはその実際はどうであれ、自分のことをイケメンと認識する。あるいはコンビニ店員としての癖がつきすぎて、別のコンビニで他の客が出て行くときに「ありがとうございましたー!」と言ってしまう、とか。人間は思い込みに長ける存在だ。イケメンだという思い込み、常にコンビニ店員という属性を持っているという思い込み。

現代になって、夜が短くなった(明かりが増えたので)。都市化が進んだ。妖怪たちは居場所をどんどん無くしていった。そこで妖怪たちは自らを「哲学的問い」へと変貌させ、見事にホラーゲームの中に溶け込み、我々にアプローチしてくる。妖怪達も生きるのに必死なのだ(?)。

さて、やや暴論のような僕の妖怪論だが、ここでおおよその人間に共通して認識されていることとして、「妖怪などの超常現象は合理性の枠から外れたものだ」というのを挙げてみる。

科学では説明のつかない、非合理なことを、妖怪のせいとすることで、心の平穏を保つ。何が何だかわからない状態が一番怖いのだから。妖怪ですら、いてくいれた方がマシなのだ。枯れ木も山の賑わいといったところか。

こういった意味で、妖怪とは答えの出ない問いと共通項を持つ。「人間はなんのために生きるのか」といった問いへは、合理性ではおおよそ答えにはたどり着けそうもない。科学の進歩とともに、かっての妖怪たちは駆逐され、妖怪の魂が「哲学的問題」に憑依した、とでも表現されようか。いささか文学的な説であることは否定できないが、なかなか一考に値する話ではないだろうか?

だから、妖怪が追いかけてくるホラーゲームは、現代的妖怪が「問い」となって我々の元にやってくることに似ているのである。つまり、問いに直面し頭を悩ませることは、呪われていることにも共通する。すなわち、思考=呪いでもあるのだ。GAME OVERの思考的呪詛性。

「哲学的ゾンビ」という言葉があるが、これは、本来の定義から外して「言葉」のつながりとしてだけ見れば、哲学に囚われるのは、妖怪(超常的なもの)に囚われているからで、哲学という呪いの妖怪に取り憑かれた人間的なものが、「哲学的ゾンビ」だと、そうは言えないだろうか?

だから、こういう、僕みたいな人間は、妖怪に憑依された、ホラーゲーム上を生きる人間だということができる。そこに存在するバケモノと、自分との区別が曖昧になる。妖怪の世界線へ足を踏み入れた者は、カタギの方々とは交わり難くなる。敷居をまたぐというより、その世界線へ行ってしまう。そうやって気づいた時には自分は「哲学的ゾンビ」へと変わっている。

そして、僕はその人生のほとんどが「哲学的ゾンビ」つまりゾンビ生に取って代わられている。合理性がいまだ幅ァ利かせるこの時代に、非合理極まりないゲームに生きる。

これが、「平凡な幸せ」とどのような因果を持つのかはわからないが、僕が素直に平凡性に悦ぶことができないのは、その妖怪性ゆえであることは確かだろう。


結局、4日目になっても答えは出なかった。なぜなら妖怪に話が逸れたにも関わらず、その妖怪についての認識が曖昧性から抜け出せないことの再認識としてしか、議論が進展しなかったからだ。予想以上に大きなテーマであって、自分自身うまく扱えていないのを感じる。ゾクゾクに似た背筋の不快な蠢き、俺はこうやって苦に悶えながら脳の髄まで満たされている毒を吐き出すことが、「倒錯」的な快への指向が、たまらなく生きている心地を得られるのだろう(あえて文法を無視した。こうでなければ伝わらないからだ)。

このテーマは5日目に譲ろう。もう少し直球に「恋愛」に踏み込んでみようと思う。これは僕の文脈を知っている人が読めば、より面白く感じられるのだろう。


005日目:人と結ばれること

僕は今までにも複数の「女性」と付き合った(もちろん同時多発ではない)。ここでカギカッコ付の女性としたのには、意味がある。なぜなら僕はバイだからである。正しい言い方をするなら、僕が異性愛者であるという証拠がない、ということになる。

みなさんは自分が異性愛者だと(あるいは同性愛者だと)言い切れるだろうか。いままでたまたま好きになった人が異性であった(以下異性愛を前提として記述することを了承願いたい)、それだけではないだろうか。

僕は今まで、確かに女性を好きになった。現に女性が好きだ。あるいは女性にエロスを感じてきていた。それはつまり男性の裸を見ても勃たないということにもつながる。ただこれも、今までがたまたま(タマタマではない)そうであっただけで、これからはわからないのではないか。

つまり、今までの自分に対して異性愛者「だった」と言うことはできる。なぜならそう「だった」からである。だが、僕がこれからもずっと異性愛者かどうかはわからない。まあ現状異性愛者なのだが。

そもそも僕自身かなり尖った考えの持ち主で、愛に性別も年齢も、人種や生物種も関係ないと思っている。当然人間が犬に恋をすることは特殊だ。だが、その特殊さは愛という人間の倒錯的感情において普遍的なものではないだろうか。

特殊が普通。

これは例えば–––例自体に偏見が含まれるのは容赦願いたいが–––灘中・灘高という空間において、勉強をする(勉強ができる)のが当たり前だから、それをなんとも思っていないことに似ている。

あるいは、SM風俗に行ったらSMプレイをするのが当たり前だということにも似ているかもしれない。

要は、その環境が特殊であるために、普通なものの方が異端としてはじき出されてしまう。

これが愛にも当てはまるのだと思う。愛というもともと特殊な(普通のように見えるが考えてみれば「他者を好きになる」なんて訳も分からないことである)感情において、普通を定義する方が難しい。ありとあらゆる愛は倒錯的で、それだから美しいとも言える。

だから、誰を何をどう愛そうがねじ曲がっているのである。

妥協的にいうならば、曲がり具合が違うだけで、それでも曲がっているのである。倒錯している。人間は本来そういった倒錯のもとで苦痛に対し快楽を覚える。

僕もそういう意味で例に漏れない。僕はかなり倒錯しているが、それでいい。むしろそれを認めないと、倒錯は暴力的な形をとって現前してしまう。

人間の異常さを認めなければまともな恋愛などできない。人間は異常であるから、それこそ倒錯的に(ここでは逆説的に、くらいの意味)普通な恋愛ができる。

では、僕はなぜ普通に恋愛ができないのか。答えは本当に単純なのだ。

僕が、正常であってしまうからなのだ。つまり僕の元にある倒錯を僕自身が飼いならせていない。

かなり抽象的な物言い、だがそれで十分通じるのではないだろうか。

いわゆる、「慣性」のように、あるいは「作用・反作用」のように、異常性を正常の方向へと軌道修正してしまう無意識があるのである。

あるのだから否定のしようがない。あるのである、ただそれだけ。

先ほど、普通ではない普通の人になってしまうと4日目に記した。まさにそういうことなのである。普通と普通でないが何層も、地層のように織り込まれている。それが、「普通の人」より多いのである。つまり、倒錯回数が多い。

僕は、けっこう女性の心が読める方なのだが(当然、すべて読めるわけがない。自分自身の心も完全には読めないのだから。)、それは僕が恋愛的なもの、女性がらみ、性的なもの、それら全てを俯瞰して眺める癖を有しているからなのだ。

それは自分の出来事をゲームに喩えることに少し似ている。要は自分自身が行うことに対して、メタの視点に執着しすぎているのだ。

つまり、僕の人生とはフリーホラーゲームなのだ。

あるいは俯瞰するとは、総論だけを学び各論を捨てることだとも言える。もっと簡単に、「浅く広く」概論だけをさらっているとも言える。

もっともっと簡潔にいうと、一歩引いて考えるきらいがあるということ。

どうしても、自分自身のあれこれが、自分だけのもの(各論)だと思えないのだ。だからいわゆる恋愛ハウツー(総論)に求める。私はおかしいのでしょうかと総論に訊く。

だから、今までの僕の恋愛は総論的とも言える。やや極端に言えば抽象的。強いて各論的であるといえば「あのかくかくしかじかのこと」くらいかなと思う(これだけでもわかる人にはわかってしまうのだから人間の記憶と想像のマリアージュは怖い。創造=記憶+想像である。ただ、その創造が正しいとは思い込まない方が良いのである)。

今、ある程度の考察を終えたところで、私小説のようで全くもって私小説である(あるんかい)、そんな語りを6日目ではしてみたいと思う。これは、論考風エッセイの続きであり、修辞多めのエッセイでもある。小説という類とはまた別の、自分をさらけ出す出力機構。一度ここで結婚式から儀礼、そして儀礼的なものと本質の有無、恋愛における特殊性と倒錯、妖怪的な人生、ホラーゲーム、と数多枝分かれした議論を総括して、短篇へと進んでもらおう。


僕は、ホラーゲーム的な、妖怪という問いと一体化した人生において、自家撞着的な倒錯で、肉体的な愛およびプラトニックラブを求める。その僕自身はまさに本質で、それを抽象化してしまうと、「的なもの」の域を脱することはできなくなり、そうやって生まれた、「的な」普遍性を有する世界で生きることが、大人になるということだ。大人はいつだって「擬似相対的コドモ化」によって「あの頃」に帰れる。ただし、それは仮象にすぎない。大人は大人だ。「抽象する具体」の存在を意識した時、大人ははじめて子供へ、本当の意味で回帰することが可能となる。いつだって童貞たれ。いつだって処女たれ。いつだって抽象することが、それでいて具体であり続けることが、僕らをvirginへと戻させる可能性になる。可能性を追い続ける、そんな特殊性に生きるのだ。



006日目:短篇『セブン=デイズ』


考えすぎて、朝方。昨日のアルコールが稍残っている。それで、俺は何をすればいいんだっけ。薄明るい空を横目に、パーラメントに火をつける。ジッポがこすれる微かな音に、ひとときの安心感を覚えていた。

中央大学に通いだしてもう3年になる。浪人までして一橋大学を目指していたのだが、性根が不真面目な俺には受験勉強なんて苦痛でしかなかった。結局一橋には2回落ちたことになる。併願で受けた中央大学文学部、早稲田大学文学部と文化構想学部、上智大学文学部、明治大学政経学部のうち、早稲田のふたつ以外は受かった。文学部志望だったから、普通は偏差値的に上智に行くもんなんだろうが、なぜかその気にはならなかった。高校時代の親友が中央にいたこと、日本史学をやってみたかったこと(上智では国文学科を受けたのだった)、それだけが理由で中央大学への進学を決めた。

中大に入ってよかったことって何かあったかな。そこそこにぎやかなサークルに入れて、そこそこかわいい女を抱けて、そこそこにうまい学食が食えて。まあ十分か。でも、本当は哲学もやってみたかった。それは大学2年になって急に思い始めたことなのだが。

パーラメントが縮んでいく。どうやら雨は上がっているようで、昨日の悪天候が嘘のように晴れている。もう朝か。時計は7時24分を指している。今日は史料解読のゼミの発表がある、レジュメはもう作ってあるが印刷をしていない。少し早めに家を出よう。

朝食はうざったらしいほど焦げ目のついたトースト。焦げなんてマーガリンを塗りたくれば見えなくなるのだから気にすることはない。真っ白に焦げ付いたパン、一口一口が言いようのないやるせなさに満ちている。まるで、トーストの味がすると言われる、ラッキーストライクのような味がする。この世はすべてアナロジーだと思うとその言語性の不甲斐なさに、無性に腹が立ってくる。


2限、史料解読。前期は建武式目がテーマ。こうやって史料と向き合うと、昔の日本には足利尊氏のような人がいて、幕府という機構があって、そういう価値観の中で生きる人が「いた」のだと実感せざるを得ない。逐語訳の解説途中で先生から訳上のミスを指摘される。これ、反語で訳すほうが適切なんだと。ほんの数年前まで死ぬほどやった古典もこうやって登場されりゃ何の役にも立ちやしねえ、と心の中で毒づく。

今日の発表は無難に終わった、可もなく不可もなくといったところ。一仕事終えてやったという気持ちに満たされた俺は学食で飯でも食って帰ろうかと考えていた。今日の授業は2限と5限なのだが、どうにも5限に出る気分にはならなかった。もう3回欠席してる。4欠までセーフだからあと2回欠席したら落単か、と頭の中で小学生の算数をする(たぶん幼稚園生でもできる)。じゃあ、今日は休もう。来週から全部出ればいいや、と自分に言い聞かす。

多分落とすのだろうけど、多分来週も行かないのだろうけど。まあ、それでいい。


18時半、ラインに通知。

「時和(ときわ)夜空いてる?飲みいこー」

優衣(ゆうい)からだ。これは、要はセックスのお誘いである。

俺と優衣の関係はいわゆるセックスフレンドだ。もともと同じサークルの同期なのだが。あいつは俺に彼女がいることを知っている。知っていてなおそれでいいのだと。俺のことが好きなのかと昔聞いたことがある。バカじゃん(笑)と返されたが。あいつは俺じゃなくて俺のカラダが好きらしい。そっちの方が、バカじゃん(笑)と俺は思う。思うが、まあ、それなりに可愛い女を抱けるのならそれはそれでいい。かれこれ1年以上の付き合いになる。

「19時多摩セン。店はどっか考えといて」

とやや素気無い返事を返す。そのままの流れで天気予報、ツイッター、インスタを眺めた。えーと、今日何曜だったっけ。もし、今日が月曜か木曜だった場合、明日は1限がある。ああ、よかった今日水曜じゃん。少しだけ焦った。今日が発表の日だったというのに、水曜日だという感覚がまるでありやしない。

明日が木曜ということは、朝に追いセックスができる。なぜなら、木曜は3限からだからだ。確か優衣は2限からだったかな。

俺は別に性に飢えてるというわけではないと思う。それでも、ヤりたいことにはヤりたいし、勃つもんは勃つ。毎日が空虚なものだから、その分その穴を、文字通り埋めるように、まさに穴を埋めるように、俺は今日もラブホテルへと向かう。エッチは好きではないが(意外に思われるかもしれないがそうなのである)、快楽は嫌いではないので、まるで自慰行為をするかのように優衣と関係を持つ。

結局、19時まで暇になるので5限には出ることにした。優衣との待ち合わせまであと1時間半。スタバの新作を飲みながらテキトーに、授業を受けた。来週は休んでやろうか。でも、なんだかんだこの人の授業は面白いと感じる。interestingでもあり、funnyでもある。受ければ楽しいと思えるのだが、受けたくない。そういう矛盾が自分の中でいつ生じたのだろうかと考えていたら、いつの間にか授業は終わっていた。やっぱり、多分来週も出席するのだろう。

さ、行くか。雑音にまみれている大教室の真ん中で、俺は囁き声よりも小さく声に出した。


20時17分、居酒屋にて。

5本目のパーラメントに火をつける。4杯目のハイボールと、5本目のタバコ。酒とタバコは「普通」によく合う。だが、吸えど吸えど、未来は一向に明るくなる気がしない。タバコは人生を暗くする。だが、それでいい。暗い方が、俺には適う。

頭が痛くなりそうなほど甘ったるい、この店の名物の厚焼き玉子を頬張りながら優衣が喋る。

「就職とかどうするか決めた?今年の夏はインターンで忙しいよね。」

就職「とか」とは何か。俺はその「とか」にとかく思索を巡らしたが、「とか」に語調を整える以外の役割は特に見当たらなかった。

「まあ、俺はフリーターとかでもいいかなって思ってるよ。どっかの会社に入って、スーツ着て、バリバリこなすなんて俺にはちょっと想像できないな。」

フリーター「とか」とは何か。俺は明確にそこを意識してこの言葉を放った。そしてハイボールで全て流し込む、俺の想いも、口に残るパーラメントの感覚も。

「私はブライダル系に行きたいの。なんか楽しそうじゃない?」

多分優衣は何も考えてなんかいない。ただ直感に任せて、楽しそうな方角を目指す。人生なんて楽しけりゃいいなんてよく言ったもんだ。その楽しさが、いつ地獄のような苦しみに化けて出てくるかなんてつゆも知らないくせに。

「お前がブライダル業界か。プライベートじゃ一番縁遠そうなのになあ笑。」

ほんのすこしだけ皮肉を込めて言ってみる。だってそうじゃん。彼女持ちの男とサシで飲みに行って、そのままセックスのおまけつき。そんな貞操観念の女が結婚なんてできるわけがない。

「んー、まあ、私別に結婚とか興味ないからさ。あ、自分のね!」

出た、結婚「とか」。この文脈で結婚以外に何があるんだよ。

「じゃあなんで人の結婚に関わる仕事したいんだよ?」

「自分に結婚する気がないから、他人の結婚くらいは拝みたいの。だめ?笑」

「なんで結婚する気ねえの?」

「だって、私と結婚できる人なんていないよ。私こう見えても結構特殊な人間なんだよ?笑」

俺にどう見えていると思っているのかは知らないが、優衣はどう考えても普通の人間ではない。が、あえてそのことには黙っておく。いじらしげな優衣の目つきを見て、嗜虐心に火がついた。だからあえて別のところからイヤらしくつっついてやることにした。

「まあ、彼女いる男とサシ飲みフィーチャリングセックスだもんな。俺も大概だがお前も十分素質あるよ。」

「でも別に結婚とセックスは関係なくない?」

予想外の返答だった。いや関係なくないだろ。真意を図りかねて、少しだけ上ずった間抜けな声で返答をしてしまった。

「え?どういうこと?」

「だから、結婚は愛があってすることでしょ。でもセックスは性欲があってすることじゃん、だから別物。」

「いやでも結婚してその人とセックスするときは愛も性欲もあるだろ。それはどう説明すんのよ?」

「愛のあるセックスなんてしたことないよ私。」

それ、答えになってんのか?でも、そう言われればそうかもしれないと思う。俺だって、優衣が好きで抱いてるわけじゃない。お互いの性欲とカラダの好みが一致しているだけだ。これは取引、ないし貿易に近い。これは穴ロジーだ、とクソみたいな親父ギャグが頭に浮かんだ。それをすぐにタバコの火でかき消した。

「お前彼氏いたことなかったっけ?」

「いたことは何回かあるけど、この歳で愛のあるセックスとか、そんなん無理でしょ笑。」

優衣は現役で中大に入っている。だから今20歳。早生まれだから成人式の時は19だったらしい。成人式、俺はどうにも行く気が起きなかった。儀礼的なものとして大人になってしまうことが、怖かった。子供と大人の間に、明確な境界線が存在するということを認識してしまうことが、たまらなく怖かったのだ。

そんな、成人したてホヤホヤ、ハタチそこそこで愛を語るなんて、確かにおこがましい気もしてきた。

「じゃあ俺も、芳乃(よしの)とは愛あるセックスできてないんだろな。」

「彼女いるのに他の子とデートして身体の関係まで持っちゃうようなクズ男が、『愛ある』だなんて図々しいにもほどがあるでしょ笑。」

先ほどの皮肉に、微量の(否、多量の)味付けをして提供された。それが3日前にできた下唇の口内炎にツンとしみて痛かった。

「まあ、それはそれだろ。」

ヤリチンのふりをして、クズのふりをして、すかし顔のままジッポでタバコに火をつけた。7本目のパーラメント。そして、5杯目のハイボールを頼んだ。


22時20分、酔いが回り今日はどうにでもなってやれとヤケになる。

優衣はこの5月半ばの、夜風が肌寒い季節にはそぐわない半袖を着ている。少し鳥肌が立っている。

俺はその綺麗な純白な、それでいてほんのり赤い腕先をなぞってみた。

「なに、したくなっちゃった?」

そうではない。ただ、非言語のコミュニケーションをしてみようと思ったのだ。体に「触れる」のではなく、「なぞる」。そこに何か意味があったように。俺は返事もせずになぞり続ける。手先から肩先へ、昇っていくようになぞった。袖の上を滑らす。肩から首筋にかけて。なめるように一途になぞる。いや、もしかしたら本当になめていたのかもしれない。俺の指先はいま、性感帯へと変わり、そして、舌へと変わるのだ。

「くすぐったい。」

優衣は言う。

「ヤるなら早くヤろうよ。半袖一枚じゃさすがに寒すぎたよ。ホテルいこ。」

非言語の纏うエロさに俺は打ちのめされそうになったが、やや理性に呼びもどされ、正常を気取る。言葉で返した。

「行こうか。昨日給料日だったし、今日は俺出すよ。」


24時ちょうど。何とは言わないが。

それでいて純朴な肌に抱かれ、とにかくお互いのイイトコロだけ見あう。ある意味で幸せな関係ではある。都合がいいと世間では言うのだろう。

俺は一服をする、全ての雑念を一旦リセットするため。いわゆる賢者タイムか。

「俺、愛とか恋とか、性欲とか、もうよくわかんなくなってきたよ。」

「んー多分それ、恋してるんだよ。何に恋してんのかは知らないけど、恋してる時って、その感情がなんなのかわからない。わからないから愛なのかも、恋なのかも、もしかしたらセックスがしたいだけなのかも、って考えちゃう。」

「じゃあ俺、誰に恋してんだろな。」

「私じゃん?」

「まさか笑。」


翌朝、7時21分。昨日もこれくらいに起きたな、と独り言ちる。

予想通り(あるいは期待通り)の朝の性交渉。太陽が昇り始めた頃からハードな勝負(駆け引きといってもいい)をした。そしてそれをパーラメントで上書きする。最後の一本だった。所詮恋路なんて上書きの連続だ。オナニーのような性の交わり合い。全てはなかったことになる。無に帰す。

乱れた髪をセットしなおす。ここ最近、髪がキシキシしてしょうがない。ブリーチ、しすぎたかな。とちょっとだけ反省する。

優衣はやはり2限があるというので、身支度して外に出た。駅前のドトールでジャーマンドックとブレンドのS。パーラメントはさきほど全部吸ってしまったので、優衣のアークロイヤル・パラダイス・ティーを一本拝借する。あいつのナリ的にもっといかついタバコを吸っているもんだと思っていたから、女の子らしいタバコで少々拍子抜け。味は、まあうまい。でも俺は甘いタバコより、喫味のキツいタバコの方が好きなんだよなと再認識。キャスターは、でも例外かな。なんて頭の中で色々な銘柄が浮かれ立っていた。とは言っても長袖のシャツじゃもう汗ばむ、そんな時期だった。


6月1日金曜日。優衣とはあれから2週間、サークルでも会っていない。多分あいつは俺を避けてる。今まで何度も交じり合っては、その度に幾度も分離し合った。それが、「彼女」とは違う、優衣との、関係であった。

今日は芳乃と会う。あいつは俺と同い年だが(高校から付き合っているので当たり前ではある)現役で成蹊大学経営学部に入学した。だから、今は4年生。就活で忙しいというので俺は、あえて彼女から距離をとっていた。

どうやら第一志望の企業の最終面接までこぎつけたようで、ラインの文面も心なしか踊っているようだった。

俺は、芳乃が好きだ。多分、大好きだ。愛していると言い換えても良いのかもしれない。それは頭ではわかっている。それでも、俺はクズでありたい、そして、そんな堕欲のために浮気性でありたい。普通の恋をして、普通の幸せを享受することが怖い。

「15時ごろ吉祥寺まで迎えにいくよ」

俺はそうラインし、以後、芳乃に会うまで一切スマホを開くことはなかった。


15時3分、吉祥寺駅前。もう6月だという時分にしては、果てしなく心地よい。心地よい風が吹いているのだ。芳乃は、なんでもそつなくこなすタイプで、単位も順調に取っていったらしい。それでもいくつか卒業単位が残っているというので週2回、水金に大学に通っている。

「よう。」

いつもより声のトーンを低くする。要はカッコつけているのだろう。

「久しぶりだねー。元気してた?」

「まあ、ぼちぼちかな。」

優衣と同衾していたなんて、口が裂けても言えねーや。まあ、芳乃も芳乃で、なんかしらやましいことはあるのだろう。いや、あってくれと願う。それでも人間はこうやって、やましいことなんてなかったかのように振る舞うのだから。一番裸で付き合っているはず(べき)の他人に対して、どうしようもないまでの嘘の下着をかぶってしまう。そして、その下着の中に何が入っている(た)かなど、死んでも理解させない。逆に、こちらからしても死んでも理解できないから、決して探ろうとはしない。それを理解するという行為が、無駄なものだと、みんなホンネでは気づいているはずだ。

「今日焼肉食べたいなー!」

「じゃあ李朝園行く?」

「時和のおごり?笑」

「そうだな、じゃあ今晩は覚悟しとけよな。」

「わたし、犯されちゃう?笑」

芳乃はニヤニヤしている。まるで挑発的だ。本当に犯してやろうかとも思ったが、俺にそんな趣味はない。あくまで「合意」のもとだ。合意的に強姦することが、つまりは倒錯的に普通なセックスだということでもある。


17時52分。肉が焼ける哲学的な音と、その官能的な煙。ジンハイ。俺の目の前には芳乃が座っている。焼肉は、1年ぶりくらいだろうか。芳乃と行くと、いつも俺が焼く側にまわされる。美味しそうに笑顔で肉を頬張る(俺にはそういう風に見える)彼女を見ていると、「ま、いっか」と思えてしまう。

肉を食らう、という男性的な行為は、それを女性が行うことによって化ける。つまり、エモいということである。この煙に紛れて、俺は芳乃の顔を、目を、じっと見つめていた。

その視線に気づいた彼女。嬉しそうな笑顔から俺に対しての微笑み顔に変わるまでおよそ1.7秒といったところだった。「まんまる」と形容されるその瞳の見える面積が徐々に、否、急に小さくなっていく様子が、月食のようだった。俺は、芳乃自身が気づけない内的な月食に立ち会っている。月食とは衰退か、はたまた繁栄への前触れなのか。俺たちはこれからどうなるのか。ふっと、

結婚、するのだろうか。

おぞましい凄惨な同音をもつその二字熟語が頭の一隅からふいに飛び出てきて、脳を流れる血液と衝突事故を起こした。思わず飲みかけていたハイボールを吹き出す。なにやってるのとほんのり眉をひそめる俺のツレ。その視線が直に俺の脳内に触れ、まるでときめいているかのような俺。咳払いをして、聞く。

「結婚ってさ、考えたりする?」

大怪我をしているその言葉を口から出してやることで避難させる。

「急にどうしたの?」

「いやなんか、お前見てたら頭の中に浮かんできたからさ。」

「なんかそれ、プロポーズみたい笑。」

確かにプロポーズみたい!とえもいわれぬ恥ずかしさに俺は顔を赤らめていた、かもしれない。それを知っているのは芳乃だけだ。

「まあ俺たち長いじゃん?なんかそういうこと考えててもおかしくはねーよなって。」

「わたしは時和のそういう変な真面目さ、好きだよ。」

実は、結婚について考えていたのは前からである。というのも、結婚式というものが俺の身近であったからだ。目の前で結婚する2人を見せつけられ、どうして俺が芳乃を想起しないということがあろうか。ただ、その事実は一旦隠す。好きだよなんて言われたら、俺も黙っちゃいられないからだ。

「じゃあ俺と結婚したいと思ってるのか?」

「今は結婚なんて考えられないけど、考えられる歳になったら、そのときにまだ時和と付き合ってたら、ね。」

焼肉屋で、結婚について語る若いアベック。他の客に聞かれてなきゃいいけど。焦げ付いたホルモンを一気にジンハイで流し込んだ。焦げ、以上に苦い思いの味がした。ジンハイ程度じゃ上書きできない、焦げ付いた愛を今経験した。


20時11分。もう少し飲もうということになって、中央線で新宿まで出た。行きつけの(といっても芳乃と行くのは2回目なのだが)バーがあるのでそこでカクテルでも飲もうぜと誘った。

俺はジンベースのカクテルが好きだ。まず、店に入るとともにマティーニを頼む。ドライベルモットのやや特徴的な香りがたまらなく気分を高揚させる。芳乃はバーテンにおすすめを聞いていた。詳しくは忘れたが、なんだったかストロベリーリキュールをつかったカクテルだった。

この店はタバコが席で吸える。21にして生意気に、と思われるかもしれないが、酒とタバコはセットでなくては「ダメ」だと思う。まずは一本。優衣とセックスした日以来パーラメントは吸っていなく、ラーク・クラシック・マイルドに浮気をしていた。それも全部吸ってしまったので、昨日再びパーラメントへともどしたのだった。

パーラメントはマティーニと合う(とは言ってもそれ以外の組み合わせをしたことがないので正確にはわからない)。カクテルピックに刺さったオリーブを途中で食べる。酸味。そしてマティーニの味を捻じ曲げる。いわゆる味変か。

このとき、俺が優衣に求めていたものは「味変」だったのではないかと思った。最初の一口目も好きなのだが、オリーブを食べた後の少し変化した味もたまらなく好きなのだ。俺は、芳乃をより好きになるために優衣を抱いているのかもしれない。だとしたら、あの時の答えは、芳乃だ。俺は優衣を濡らしながら芳乃に濡れる。だとしたら俺はクズだ。おそらく、双方に対してクズだ。

「時和ってさー、たまにすっごい深刻そうな顔するよね。」

「そう、なのか?」

「うん。思いつめたような顔してる。何か考え事でもしてんの?」

「まあ、気苦労の多い性分なんでね、笑。」

と、少し冗談めかして言ってみたが、確かに俺はこうやって思考に没入してしまうことがしばしばある。そしてその没入の後思考は間違いなく暗澹たる結論へと向かう。何にも考えないで生きていけたら、楽なんだろな。悩みとも違う「不意」の思考に俺は支配されている。俺は機械だ。思考という主体にこき使われる奴隷だ。取り憑かれた妖怪だ。それでいて大した推論もできないが、大いなる哲学者のように、そこまで振り切った思考ができれば、それはそれで今よりは生き易いのだろうに。

「ほらまた!笑」

「何か悩んでるなら言ってよ。一緒に悩んだげる!」

芳乃は優しい。けれど、芳乃は俺の何も知らない。いや正確に言えば、芳乃は、「芳乃の前の俺」しか知らない。もし芳乃が俺のこういうところを知った時、それでも俺を包んでくれるだろうか。それでもそうやって悩みを共有しようとしてくれるだろうか。芳乃はいい女だ。だから、ずっといい女であってもらうために俺もいい男を演じなくてはならない。

いい男とは何か。容姿が整っていることか?女性に優しくすることか?喧嘩が強いことか?頭がいいことか?全部違う。いい男とは、女性をいい女にさせる男のことだ。もちろん女性に限らずだが、意中の人、あるいはそれなりに濃く関わった人、そういった人を「いい〇〇」にしてしまうのがいい男の条件だ。

なら、俺はいい男だ。しっかりいい男だ。それは芳乃がいい女であることからはっきりわかる。そして、優衣がいい女であることからも。でも、俺がもし本性を出した時、俺はいい男であれるかはわからない。自信はない。

マティーニに続き俺はブルームーンを頼んだ。いまの俺のどこか掴めない心には、こういうカクテルが合ってる気がする。タバコを咥えかけて(咥えていたかもしれない)、それを箱の中に戻した。マックブックプロの入ったリュックくらいの重さ、の帽子を被っているような、そんな圧迫感を覚えた。頭痛にも似た感触だった。


21時42分。俺は最後にXYZを飲んで、まさにこの終わりのない思考に終止符をうとうとした。芳乃と見つめ合いながら、軽いボディタッチをキメる。触れるだけで、温かくなる。アースクエイクの度数と同じくらい、今俺の体温は上昇している。もっと触れたい。もっと知りたい。そうでなきゃ、俺は芳乃を「性的に」愛せない。思い切って聞いてみた。

「俺、芳乃のこと愛したい。友達が言ってた。愛のあるセックスなんてないって。確かに今の俺にそれを否定はできない。でも、本当はそんなんお互い次第だと思うんだ。俺は芳乃のことを愛している。でもそれだけじゃ、全てを愛で包んでることにならないのかな。」

「そんな、急に小難しいこと言われても困るけど…。でも、わたしも時和のこと愛してるって言えるよ。お互いがそうならそうなんだと思うよ。さっきの結婚もそうだけど、わたしはそうやって関係を真剣に考えてくれる時和が好き。」

なら俺は、芳乃をただの愛で、胸いっぱいの愛で抱けるだろうか。仮に愛と性の共存が可能だったとして、それは愛あるセックスなのだろうか。はたして愛とはなんなのか。わからない、わからないけど、それを知った時、俺はそれが芳乃に対する想いと重複していることを実感するに違いない。だから今は、それでいい。セックスはセックスのために存在していていい。それはそれ、これはこれなのだ。いつかわかる。いつか、わかる。

「好きだよ。」

俺は、偽りのない愛を、偽りの姿で伝えた。外は、鬱陶しい新宿。歓楽街という欲望の巣窟を俺たちは、固い約束のような、縁(えにし)のような手をつないで歩いた。やっぱりまだ半袖一枚では肌寒い、そんな季節だった。


ーーー第一部「普通の愛、特殊な性」終わりーーー


たまに現実と嘘の区別がわからなくなる。12時ちょうど、2限の授業を聞きながら頭の中は思考の旅に出ている。現実と、嘘。ふつう現実は空想や理想に対比され、嘘は真あるいは本当と対比される。だから、実際にはこの二つの言葉は相容れないわけではない。だけど、たまにどうしてもわからなくなってしまう。嘘は現実に、稀に、いやしばしば、包含される。すなわち、「嘘」という「現実」が存在する。例えば、俺が優衣と関係を持っているのは本当のことだが、俺と芳乃の間の現実では、俺は芳乃以外を抱いたことがないという嘘で成り立っている。嘘が成り立つ現実、嘘で成り立つ現実。

あるいはこうとも言える。どんなことでも言えることには言えるのだ。透明人間はいる。カラスが瞬間移動した。アメリカは音楽だ。にげほかをどとろして、たこうする。

事実無根を言える、論理飛躍を言える、無意味を言える。あべあべあ、と言ってみることはできる。

この世の中は言語が支配していると言っても過言ではない。言葉によって作られた嘘が、今日も宙を舞う。


受動性の烙印が、限りなく絶縁のステージにて火を噴く。眼前の灯火と内奥の篝火が、流線型のモノローグとして出荷される。朝が来たらラクダがやってきた。驢馬とルビの、まさに接線上の共通点をふしだらに抱いてみたい。

戦いでなく、狭間で泣く。木々のゆらめきが四肢に刺さる。僕らが旅する、純然な舞台で、無骨なちんけな旅人が草笛のトポロジー。異種格闘技の遊覧船に恰幅の良い中年男性が飛び降りる。手狭なローン繰り。トーン調整。コース取りに苦労する。そんな人間でありたいと願う俺。


俺は言葉を着て、言語を履いて、今日も一日くだらない人生を始める。優衣にラインした。

「今日ちょっと会える?」

37分後に返信、何時?と彼女。

「4限終わり、17時でどう?」

6分後に返信。

「いいよ、じゃあ8号館まで迎えにきてね!」

「了解。」

無限に拡がる悪魔退治の夢が木偶の坊の鼻先にしじまを呼び起こす。モダンジャズの肩書きに能書きで対抗するジキルとハイド。パンティの隙間から万華鏡のブルーズ。ドゥルーズ+ガタリの『アンチオイディプス』の席次。間違いなく悪臭漂うカレンダー寄りのコーナーハンドリング。コールドブリューの定義から解説する夜泣きじじい=千の風になって。その指先を引っ張って矗立してみたいと思う俺。

優衣は今日も派手な格好をしている。手元が狂いそうなほどリングをつけている。そしてピアス、手首には無数のブレスレット。体の10分の1は金属でできているのではないだろうか。まるで手錠だ。現行犯逮捕のメッチェンに俺は切り出す。

「今まで色々俺によくしてくれたけど、悪い。俺愛を追いかけてみたいんだ。前に優衣言ってたろ?俺が誰かに恋してるんじゃねえかって。それ、芳乃だった。いや、芳乃であるべきだと思った。能動性じゃない。受動性。俺は芳乃が好きだという情動に支配されている。機械としての、恋路を歩む運命にあると思う。何言ってんのかわからなかったらごめんだけど、とにかく要は、俺お前とのセフレの関係をやめようと思っている。お前にも失礼だしな。」

中学校の時にクラスから煙たがれていた(イジメとは別の)、あのオタク君に勝るとも劣らない早口で喋った。優衣が引いていないか心配だが。

「そっか。まあそれは時和が決めることだし、私の方こそ、カラダの相性がーとかいって色々振り回してごめんね。でも、どうせなら、最後に一口。忘れられない一口が欲しいかも。」

もしかしたら優衣は俺のことが好きだったのかもしれない。そうだとしたら、バカじゃん(笑)。多分俺に彼女がいるから、その気持ちは黙ってた。でも、セックスには愛なんてないからって、なんとか自分を保とうとしていたんだろう。器用性の彼方には、どうしようもないまでの不器用さが隠れていることがある。

<哲学>の名の下に嫌がる女子高生に無理やりシーシャを吸わせたい。膣壁にオーガの判子を押す。?は一瞬の煌めきに酔って¥へと姿を変える。K2から哀愁を引いてVVVVVVにする営み。天国への階段を匍匐前進で進む一般傭兵。hahanaru大地を母乳に変換してfatherとしての大地を謳う。The earthquake claimed over 444,444,444 people. 美空ひばりをエガちゃんへと曲解する音楽理論。逆は成り立たないが必要十分条件である。有性生殖は満月と関係がありますか。月食の理論を不器用性から考察してみたい俺。


2日ほど経った、ある時、芳乃から電話が来る。俺は電話あまり好きじゃないよって言っていたはずなのに。それでもかけてきたということは、つまり急を要する話か、深刻な話か。

「もしもし。どった?」

「ごめんね電話して。今めっちゃ会いたくて、特に理由はないけど、なんか時和がいなくなっちゃいそうで、寂しいの。」

「なんだ?病んでるのか?笑」

「わかんない。でも、会いたい。会えない?」

「会えるよ。でも今日5限あるからさー…いや、いいや。いつだったか一回二回出席したし、今日休んでもあと全部出れば単位くるから、今日は切る!そしたら今から会えるよ。」

「ほんと?ありがとう。ごめん。」

「いいよ、とりあえず新宿まで行くわ。芳乃今吉祥寺?」

「うん。授業だったから。」

「おっけ。じゃあ急ぎで新宿まで行くわ。またラインする!」

夢はいつか勇気に変わり、ダブルフォルトに化ける。大富豪ならイレブンバック、カクテルならジンバックである。&の官能性に見とれながら#で勤しむ。KRKRKRKRKRKRKRKRKKRKRKRKKRKKRKKRKRKKKRKKKRKRKRKRKという文字列に意味を見出す中学生に性交渉を申し込む。『純粋理性批判』を小一で読破する眉毛の太い何某。の潔癖症。芥川龍之介がサウナでととのう。新高円寺の安いアパートで自動車教習の先生を監禁するかもしれない。しないかもしれないかもしれないかもしれない。だとしたら巨頭オは気持ちいいとして讃えるかい?全身全霊とさほど変わらない俺。


奇しくも俺が優衣と大袈裟な今生の別れを果たした後で、芳乃からいなくなってしまいそうと言われるとは。まるで因果なもんだ。もしかしたら俺は本当にいなくなってしまうのかも、この世から。女性の勘はなぜか当たる。では、この世から、去ってしまうのは悲しいことなのだろうか。

俺は芳乃に会うために多摩モノレール高幡不動駅から京王線に乗り換えた。急いで向かった。あの指先、声、笑顔、鼻に残る蘭麝、体つき、(情緒的な)締まり具合。いますべてが一堂に会している。俺は芳乃の幻影を、俺自身に投影した。そこにいないはずの、可愛い女の子が俺に言う。幸せになろう、と。俺はそれを自分に問い直す。幸せとは何を指すのだろう。金だろうか、愛だろうか、知性だろうか。そのどれもが違う。幸せとは本質だ。何にせよ、そこに実在しているはずの本質をつかむことでしか幸せは得られない。俺は考えを改めた。幸せは享受できない、能動的に手に入れることしかできない。本質は、それを掴める実体と認識することから始まる。なら俺は今幸せか?俺は愛の本質を経験知として知っているのだろうか。机上の愛の空論、俺の芳乃との何もかもはそう要約されてしまうのだろうか。

新宿、またしてもこの地へ降り立つ。カタチとして存在している芳乃を目視する。前髪にかかった髪をさりげなく指で流しながら俺は芳乃に挨拶をする。

「おう、大丈夫か?俺はここにいるぞ笑。」

俺はここにいる、今だからこそ言えることか。つまりこれは心にうしろめたいもの全て無くなった男が、新たな気持ちで彼女に向き合うことを決意した、そのための挨拶なのだ。

「急にごめんね。忙しかった?」

「いや、別に忙しくなんかないよ。俺は毎日暇だよ。」

まああながち嘘でもない。俺は基本サークルにいるか、バイトしているかだ。

「きてくれてありがとうね。なんか、いなくなっちゃうとか思ってごめんね。」

「いなくなるってなんだよなー笑。俺、死ぬみたいじゃん。」

「いなくなるのはいなくなるの!なんでこんなこと考えちゃうのか自分でもよくわからない。」

「多分それ、恋してるんだろ。俺に恋してるの。恋してる時って、余計なこと考えちゃうだろ?過去をねじ曲げたいとか、今をよくしたいとか、未来も一緒にいたいとか。通時的ないろんな感情が渦巻いて脳の機能がストップする。それでありもしないこと考えちゃうんだよ。」

「わたし、時和に恋してるの??でも、そう考えたら少し納得かも笑。」

「ふーん、今日は素直だね笑。」

「女の子にはそういう時もあるの!笑」

実存哲学が梅雨のように肉薄してくる。かの偉大な実存哲学者ミュニエールは言った。「我を悩ますもの、全て実存なり。」と。実存の行方が本質の行方と合致する。回り回って希望のヒカリが有限性のトラップフィールドへとコマを進める。ガーター勲章をストライサンド効果にて大宅世継まで吐き出す、ペリットのような50円切手。ニホンカモシカ。ホルモンバランスの乱れオンザビーチ。鎮魂的鎮魂歌つまりレクイエムの勾配を仰角30度で覗き込む俺。

オムライスの美味しいお店へ行った。オムライスという響き、そのメルヘンな趣。今までの俺には耐えられなかった。だが、今は、見れる。芳乃が、俺と世界をつなぐ。世界が芳乃と一体化する。全てが芳乃に見える、それはそれで気持ち悪い思想だけれど。オムライスにはケチャップが合う。デミグラスもいいけど、やっぱりケチャップ。あの赤さ、黄色に赤が乗っかるあの感じ。赤は赤いし、黄は黄色い、ただそんな当たり前の現実が俺には優しく感じる。まるで危険信号なのに。胃を優しく温める白湯のような、俺に優しく微笑みかける芳乃のような。つまり、芳乃はオムライスだ。なら俺はそのチキンライスの部分でありたい。芳乃に優しく包まれたい。結局誰かの体内でいっしょくたになってしまう、そんな俺たちでいい。そんな俺たちがいい。

一口食べて、おいしいねと笑い合う。にこやかで、風情的なふたりだけのやり取り。誰に聞かれるでもなく、誰に話しかけるでもなく。オムライスにはモヒートで合わせるのが「オツ」なもんだと、俺は思っている。ミントの清涼感は俺たちの関係性を明瞭にする。ふわふわのオムライスは、お互いへと伸びる情動的な可視光線となって、蕩けながら我が軸へと変貌していく。貫く感情を、タテ割りからヨコ割りへと移行し、共時的なつながりのなかでそのお互いの気持ち良さを追求していく。


食後のパーラメント。モクモクとけぶりが空を切る。行きつけのバーで飲み直し。行きつけって言いたいだけ。その言葉の「非意味的気持ち良さ」、口をついて出てくる心地のよさを体験したいだけ。ネグローニを注文する。ジンベース。そして光の速さで飲み干す。キューバリブレへと急ピッチ。俺は酔わなければならない。生物学を超えた、<女>と酒を交わす。個個別別の酒がどうのという具体性のコドモ状態を仮卒業する。あるいはその状態から仮釈放される。そして、その上で擬似相対的にコドモ化する。酒を抽象する、女を抽象する、そしてこの世界を抽象する。そして自らに描き出す。実存だけが、俺を駆り立てる。実存は抽象作業を通して体内にも体外にもはじめて具体的な「実存」として刻まれる。なら、俺はどうする?

芳乃の笑顔を俺のナカに刻印する。コピーアンドペーストとは少しだけ違った愛のあり方。俺はそんなことをおもいながら、XYZを飲み始める。この上ない、誰もこの人以上好きにならない、今日のXYZにはそういう意味が含まれている。芳乃は俺にとってのZだ。つまり、「オムライス・Z」。ダサい戦闘ものみたいな、俺の淡い恋、しかし儚くも濃い愛。恋愛。


熱帯夜の「ような」夜。口直しに吸ったパーラメントの煙でカモフラージュしてキスした。タバコ。まるで自傷行為のような自慰行為、矛盾しているようで本当は一貫した愛。それがタバコのよさ。今、消えてしまいそうな、泡沫のような恋は実存を伴ったカタチとしての愛へ変わり、それは、今宵の営みによって2人のカラダにしっかりと刻みつけられる、それはまるで刺青のように。消えない、消せない、もう、後戻りできない。それでも覚悟を決めて街を彷徨い、ラブホテルに入る。明日は俺は3限から、芳乃は全休。そうだ、だから3回しよう。一回は自分のために、一回は彼女のために、そして、もう一回はお互いに彫り合うために。愛のないセックスは、抽象化によって愛のあるセックスへと転回し、それが統合され、実存の要素を多分に含むエロースとして互いを紡ぐ。それがオトナになるってことか。

小学生の頃飲んだあの粉薬のような苦痛を乗り越えて旅は続く。さわやかな風にあたり、気分が落ち着く。火照った体に月光が差し込む。芳乃、というヒカリ(希望)を前に、俺は眩しさで目を瞑る。2人は目を閉じたまま、バニラアイスを溶かしたようなキスをする。芳乃の髪のにおいをかいでみる。押し付けて感じてみる。目は閉じたまま、此岸と彼岸の区別がつかなくなる。柔らかいシャンプーの香り:紛れもなく俺によって刻まれた、実存の感触。俺たちは布団に潜り込み、頑是なかった「あの頃」をもう一度卒業する。擬似相対的コドモ化。



4日後、普段とは違う、新宿から少し歩いたところにあるバー。

「ウォッカマティーニを、ステアではなくシェイクで。」

かの有名な映画の、かの有名なセリフ。

ウォッカマティーニ:カクテル言葉は「選択」

運命付けられた、それでいて衝動的な「選択」を。


ーーー第二部「現実と嘘」終わりーーー


007日目:好きな人

僕には運命付けられたような好きな人がいて、その人とは長い付き合いになる。まさに私小説的な語りをして、自らの全てを戯れに帰したいということなのだろうか。

先ほど、結婚について論考を書いていた。そして、小説の中で結婚を示唆した。では、今現実に存在する僕はどういうような「平凡な幸せ」にたどり着くだろうか。

好きな人、好きだった人、好きではなかった人、僕を構成する全てが幻惑のように襲ってくる。僕が抱いた人、抱けなかった人。

愛の形を、小説を通じて再構築する。僕の中に燻っていたものが、作品になる。作品になることで、それは「嘘」になる。あるいは虚構と嘯ける。

僕たちが幸せになるには、まず、僕が倒錯から逆行せずに、「普通の倒錯」状態を保っておく必要がある。それは5日目に書いた通り、倒錯という特殊状態がデフォルトである恋愛の文脈において、それは「普通」であり、むしろ普通な状態が「特殊」になってしまう。

僕は倒錯の回数が人より数段階多い。だから、ある意味で普通と言えるし、ある意味で「行き過ぎ」とも言える。すなわち、特殊の普通状態から脱して「来たるべき特殊」の状態になってしまう。先の例だと、SM風俗に行って、バカみたいに縛られ踏まれ罵倒され、なんなら体を刃物で刺されたい、なんてほどのマゾヒスト欲求を掲げたら、それは一発で「ヤベェ客」になるわけで、つまりSMという特殊(実際には人間はSかMかの二元論なので、特殊というわけではないのだが、ここでは「過度な」という修飾語を付けた形で理解されたい)にて、縛られたりムチで叩かれたり(このへんは偏見ですが)するのは普通だが、さらに倒錯して刺されたいとなると、「来たるべき特殊」になる。

人は、倒錯回数によって特殊と普通と「来たるべき特殊」に分類される。さすがにその先がないことは容易に理解されよう。SM風俗で、刃物で刺されたい欲求から、さらに人体実験をされたい欲求まで行くと、それが急に普通になる、なんてことはないからだ。もちろん、全ての欲求は、最終的には完全な「虚無」に求めることになってしまうわけだから、絶対的根拠の存在しないこの世界において、特殊と普通、「来るべき特殊」を区分する基準などは存在しなく、全て「フィーリング」の境界わけになってしまう。SM風俗で、縛られるのは普通か?足で踏まれたいのは普通か?嬲られるのは普通か?刺されるのは普通か?

倒錯ベースで特殊を前面に持ってくる考えは、まさに人間がアプリオリに特殊であると、すなわち個性を持った、他と区別されるべき存在であることにつながる。

「大衆」はそれを、最大公約数的な共通項によってベン図的に繋ぐ。大衆化は個性の素因数分解を可能にし、人間を要素還元主義的に連帯させる。だから大衆はバカなのだ。誰しもが、無知という要素を持っている(簡単にいうと、空集合である)。どんな層から人々を集めても、必ずその集合には、空集合が要素としてある。

だから、こう言い切ってみたい。大衆とは多様な要素を持つ人間が空集合によって繋がった集合である、と。

僕が求めている大衆的なデートコースは、大衆のデートコースではない。つまり、空集合的なデートコースではなく、1と2を共通して要素に持つ集合としてのデートコースなのだ。それは人によって、3と4であったり、1と3と7かもしれない。大衆「的なもの」は、空集合ではない最小限の要素による集合によって形成される。全員に刺さるものを作ろうとしたら必然として空集合化する。20代前半、エモやチルに現を抜かす人たちに刺さる、有要素集合な(数学にこういう用語はない(はず)。あくまで何か知らの要素を含んでいる集合を指す造語としてとらえてほしい)モノ–––例えばシーシャなんてこの世代にドンピシャであろう–––に興味を持つのだ。

普遍性というのは、実は弱い普遍性と強い普遍性がある。同世代あるいは同じグループのみで共有される弱い普遍性、世代やまとまりを超えて共有される強い普遍性。ただし注意しなければならないのは、「弱い」や「強い」は結合力の話であって、その統制力や影響力は逆転する。僕らは小さなコミュニティの中での普遍性に強く縛られながら生きている。日本の中にいて、あるいは地球に生きる者として縛られる普遍性は「法律」の類だ。それはある程度成文律化されているが、弱い普遍性は基本的に不文律である。つまり、暗黙の了解、空気を読めよということである。法律は確かに強い統制力を持つように感じるが、普段何ともなく生きていく上で法律に縛られていると感じることはわりと少ないのではないだろうか。それよりも、この集団の中では自分はいじられ役だ、とか会社では有能上司だが家では奥さんに虐げられているとかの「空気」的なものに縛られていると感じる人の方が多いと思う。

この世界に生きづらさを感じる人間は、この、弱い普遍性に悩まされるのである。学校や職場、あるいは家族の中にいても、その明文化されない「当たり前の空気」を吸うのが苦しくなるのだ。だから、そういうときは、弱い普遍性を脱出する必要がある。強い普遍性に助けを求める。

先ほど、強い普遍性は最終的に「法律」に行き着くの述べたが、これは正確ではない。実は、強い普遍性こそが哲学に繋がる道を有しているからだ。哲学は強い普遍性を疑う。そしてそれを上書きして、より高次の普遍性へと進もうとする。ただしそれはあっけなく法律で片付けられてしまう危険性をはらんでいるのだが。

人を殺してはいけないという「普遍」に対し、なぜかと問う哲学、法律に定められているから(殺人は犯罪であるから)と答える法学。哲学は危険性の美学でもある。法律違反に陥りかねない美学だと言える。人を縛る縄が法律だとするならば、それをちょん切るハサミが哲学とも考えられはしないだろうか。

このように、法律と哲学は対置される。しかし、それは対立しあうものではなく、弁証法的に統合されるはずのものである。アウフーベンの彼方に、我々の新しく清い生き方が待っていると信じて、僕らは哲学をする。そしてその裏で法律と向き合う彼らがいる。

だから、弱い普遍性から脱出するためには、哲学をすればよい。哲学をして、法律とぶつかればよい。そうすれば、強い普遍性は次第にその筋力を増し、人類を繁栄へと持ち上げてくれるはずである。

哲学と法学、どちらも特殊な学問だが、どうにもそれは普遍へと開いていく性質を持つらしい。


でも、僕はその弱い普遍性に悩み、そこから脱出する方法を描いているにも関わらず、「弱い普遍性」的デートコースを所望する。大衆的なもの=弱い普遍性である。だからといって大衆=強い普遍性とはならないのだが。

この矛盾が(実は矛盾ですらないのだが、その説明はかなり難解になるのでやめておく)、まさに倒錯である。弱い普遍性を抜け、強い普遍性を疑い、そこからさらに弱い普遍性へと回帰する。まるで、「来たるべき特殊」のように。

そうか、もしかしたら特殊-普通-来たるべき特殊と、弱い普遍性からの脱出-強い普遍性への没入(疑うとはつまりそのものに強い関心を向けるということである)-弱い普遍性へのUターンは同じような構造を持っているのでは?

特殊から来たるべき特殊への転回と、弱い普遍性への強い普遍性経由の回帰は、倒錯をベースとして根底でつながっている。そのどちらもが人間的で、それでいて人間超越性をもつ。

ならば、僕が大衆的なデートコースを選ぶことは全くおかしいことではない。一度、特殊へと、弱い普遍性からの離脱へと、歩みを始めてしまった人間にとって、その元の世界はあまりにも魅力的すぎる。望んで「普通」から逸れる者などいない(いたとして、その人は結局普通からは脱していない、つまり普通だから普通から逸れようとするのである)。気づいたら世間と違う感じを持っていた、気づいたらクラスのはみ出し者(ここではイジメとかそういうことではない)になっていたという経験はそう少なくない人がしていると思う。

みなは恋人とどのような普遍性で結ばれているだろうか、どのような要素で集合しているだろうか。まずは倒錯ベースで考える。顔が好き、足が好き、尺八が上手い。そしてそこから普通を探る。お互い甘いものが好き、同じ職場で働いている、など。それらを来たるべき特殊に転回していく。甘いものを食べている時の無垢な笑顔を眺めたい、職場で足で踏まれたい、ところかまわず尺八させたい。それらは2人だけの秘密になる。それが、恋人同士をつなぐ普遍性になる。弱すぎる普遍性に翻弄されるのがたまらなく恋人的なのだ。

では、僕らはどんな普遍性で結ばれているだろう。2人だけの秘密、それは実はお互いが秘密にしていることだったりする。あの子との関係だったり、内緒の買い物だったり。


ところで、話が変わるが、僕は電話が嫌いだ。先ほどの『セブン=デイズ』でも触れたが、葉山時和(本編ではフルネームが登場していなくてかわいそうだったので、ここにてお披露目)同様、僕は電話を好まない。というのも、僕は時間のみを共有したメディアが苦手なのだ。時間のみを共有したメディアといえば電話が代表的だが、ほかにもyoutubeライブや、オンライン授業がある。もちろん空間も共有したメディアなら何にも問題がない。つまり、立ち話や、トークイベント、対面授業であれば。僕にとって空間のみの非共有は大きな課題だ。同じ空気を吸い、同じ景色を見ているはずだという思い込みがないとどうにも空回りしてしまう。

その点、ラインやメールは優秀なツールだ。時間も空間も超越できるからだ。送られた文面は特別な操作をしない限り残される。つまり過去から未来まで、それは居残り続ける。

僕は、空気を読むことには長けているが、共有していない空気までをも読むことは不可能だ。だから僕はしばしば電話で変なことを言ってしまう。youtubeライブで初めてコメントした時は緊張で手が震えた。この場でこれを言っていいのか、の駆け引きが空気の温度や色から判別できない。見えているのは自分の目の前の画面だけなのだから。

最近は時間と空間を容易に超越してしまう。僕は空間も時間も統一的に共有しているorしていない状態でないと安心できない。ざっと考えて、空間のみを共有したメディアはそうない。例えば大学の教室とかがそうなのであろう(そもそも教室はメディアなのかということは置いておいて)。好きな子が座ってた席に座っちゃおう、間接オケツだ、とかいって低俗なアレコレに思いを馳せるのは空間のみを共有した考えだ(その場にその子はいないのに、その子のことを感じようとするという点で)。もっとまともな考えだと、A教授の授業は毎週月曜日なので、先週の僕と今週の僕はA教授の授業によって繋がれているとも言える。だがそれでもそういったメディアの例は多くはない。だから、電話などといった、時間のみを共有したメディアに僕は苦手意識を持ってしまう。あの時の電話、結構出るか迷った、ということはしょっちゅうだ。


さて、話を倒錯に戻そう。僕は、弱い普遍性から脱出して強い普遍性に向き合い、その強い普遍性の「強さ」を上書きをするための旅に出ている。つまり、哲学をしているということだ。これから、多くの哲学者の思想を追い、それを文字通りの解釈と自分なりの解釈を通して、最終的に自分の集大成としての思想を明らかにする。それが、僕の生きる道なのだと信じている。

誰もがその道を通る必要はない。弱い普遍性の中で、しっかり地に足つけて生活できている人がわざわざそのホームから抜け出す意味がない。もちろん最終的に答えを出すのは自分だ。自分がそうしたいならすればよい。少しでも弱い普遍性に狭苦しさを感じているのなら、すぐに脱出したほうがいい。一度離れてみることで、来るべき特殊になってUターンができる。

だから、僕は一度彼女との弱い普遍性から抜けてみようと思う。哲学をして、その上書きされた強い普遍性が、僕たちを、来たるべき「弱い普遍性」へと連れ戻してくれることを信じて。

僕にとって哲学とは、限りなく平凡に近づきたい倒錯的な感情の逆説的な顕れなのだ。平凡な幸せ、それがこんな僕にも語れそうな時が来たらきっと本当の愛も知ることができる。あの時刻んだ実存を、僕は忘れない。



俺は今までの全てを箱庭に閉じ込めようとした。どうだろう、直接的すぎたかな。下書きからはじまった全ては、画面右上の緑色に触れることで大衆的な記号に変わる。パーラメントを味わったあとで、俺は席を立った。


今日は菜々との4年記念日だ。彼女とは高3の7月から付き合っている。期末テストに受験勉強に、忙しい中で告白した。浪人を決めた俺を優しく包んでくれた。それは、そう、オムライスのように。

来たる7月1日、俺は菜々との弱い普遍性から仮卒業し、また、菜々と平凡な幸せを望める時が来るまで、俺は哲学をしよう。別に就活なんてしなくていいや。どっかの会社に入って、スーツ着て、バリバリこなすなんて俺にはちょっと想像できないな。それでも、大衆的なもの、平凡な幸せ、弱い普遍性、これらにはいつだって立ち帰れる。それが、儀礼なんだ。

だから、俺は菜々にこう言う。

「俺と一緒に、来たるべき特殊になろう。そして、結婚式を挙げよう。」

俺たちの関係に、欺きはない。あるのは現実としての、「嘘」だけ。嘘は本当と遜色なくこの世界に混ざり合い、それは彩りとして現前する。

モノクロではない愛の形を、俺たちの関係を。吉野菜々に捧げる。

                            20XX.7.1 常盤葉一



ーーー第三部「常盤/フィクション・エッセイ」終わりーーー




ここまで読んでくれてありがとうございます。

最後に、

僕がこれで伝えたかったことは、

本当に嘘が混ざること、嘘に本当が混ざること、それは紛れもなく文学であり、その繊細な機微によって人間は文化的になれるんだということです。

そのために、短篇小説を織り交ぜる形式をとりました。

ぜひ、隅々まで読解していただけたら、僕の受験勉強の励みになります。

僕が、哲学をする理由。それは、みんなと楽しく笑いたいからです。そのためのヒントが、哲学には、ある。

では。



【参考にしたもの】(論文とは違うので、出版社刊行年等は省略する)
千葉雅也『勉強の哲学』
同『デッドライン』
小松和彦『妖怪学新考』
田山花袋『蒲団』
YouTube、雷獣チャンネルより「除夜の鐘で消したい煩悩108選」

ここから先は

0字

¥ 500

期間限定 PayPay支払いすると抽選でお得に!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?