読書ノートと雑記とオナニーと

雑然と文字が散りばめられているのが好きだ。漢字の骨格性、ひらがなの跳躍性。そこに文字がいるだけで心が豊かになる。僕は意味とは違う次元で本を好むときがある。もちろん意味に心動かされ、その意味を解釈する、解読する、解体する、血反吐を吐きながら己を捨てて意味に中立的に、誠実に、それだけを捉える。そんな読書も好きだし、それが僕のスタンダードではある。だがしかし、そのスタンダードとは平行して、もうひとつの基準に「文字が踊っているか」がある。活字はまさに活きている文字で、純白な紙の上を没個性的に踊る。没個性と没個性の狭間を人間の個性で埋めるのが読書だ。だから読書の仕方など十人十色でいい。誰かが決めたレールの上を進むなんてまっぴらだぜ!

そう感じたのは、東大の二次試験が終わり、池袋の本屋へと足を運んだ後に、駅に向かう途中で見た喫煙所(喫煙スペース)の光景のせいである。20時をまわっていたため、緊急事態宣言の影響から、喫煙所に入らないように警備の人が促していた。その警備を無視して、聞こえないふりをして、堂々と喫煙所に入っていくスモーカーたち。僕が喫煙者でなかったら「迷惑なやつ」と一言でバッサリ切っていただろう。だが違う。喫煙者の立場からすると、警備員ごときに喫煙をやめさせられるわけにはいかないのだ。吸いたい、いや、吸わなければならない。そういった思いで彼らは勇敢にも正義を振りかざす勇者に立ち向かっていくのだ。「かっこいい」、素直な感想だ。誰かに敷かれたレールを歩まされる。そんなの御免だ。

もちろん、20時以降使わないでくださいと言っているのだから、警備員が明らかに正しい。そこは認める。認めた上で、正しい方をかっこいいと思うかは別である。己の欲望に忠実になった彼らは強かった。吸うと決めたら吸うのだ。それ以上でも以下でもない。そんな生き方を僕は、純真な心でかっこいいと思うのだ。(ただ、そうなりたいなんて思わないし、友達がそういうやつだったらなんか嫌だ。他人だからかっこいいと思えることはしばしばある。)

さて、そんな「レールから逸脱する」生き方を垣間見た僕は、読書ノートについて考えていた。

読んだ内容を簡単にまとめておきたい、チャート化しておきたい、自分の言葉でまとめたい、そんな欲望を満たしてくれるのが読書ノートだ。

僕は読書ノートを幾冊か書いたことがある。途中でやめてしまったもの、うまくいったもの、整然としすぎて見直す気が失せてしまったもの。そのどれもが僕を醸成した大事な記録だ。でも、できるだけ統一した形で、長続きさせてみたい。どうすれば良いのだろう。ちょっと高級な文具屋でノートの類を見ながら考える。頭の中は読書でいっぱいだ。東浩紀『弱いつながり』でいっぱいだ。千葉雅也『ツイッター哲学』でいっぱいだ。早くこれを「僕の文字」にしたい。自分の文字にすることで初めて、本の内容は純粋な理解として己のものとなる。問題はどうやって自分の文字を紙面に書き出すかだ。考えた。もしかしたらノートの媒体ではなく、パソコンやスマホの類でまとめるのがいいんじゃないか、など。それは一理ある。やはりスマホやパソコンは情報を一元化して整理することに長けている。だから僕も、スケジュール管理はスマホのカレンダーだし(手帳は使わない派)、アイデア等のメモはevernoteを使ってパソコンとスマホを同期させて管理している。だが、本のまとめ(雑な言い方だが、いろいろなことを書きたいので、「まとめ」と括らざるを得ない)をするにはそれではダメだ。

なぜか。

それは、パソコンやスマホだと、まとめた文字は「没個性」になってしまうからだ。先ほどの例を比喩として登壇させるなら、「敷かれたレールの上を歩いている」ことになってしまうからだ。簡単な話である。だいたいの人間がパソコンやスマホでメモ(この場合LINEやインスタなどでもOK)をするとき、今このnoteに書かれているのと同じフォント(?詳しくないので、もしかしたら正確には色々異なっているかもしれないが、見た目という観点だけで言うならば)で書かれているであろう。そうなると、いわゆる「僕の文字」は現れてこない。いつまで経ってもそこには出来合いの、御誂え向きで面白みのない文字列しかいない。ある意味で、その文字列はゴーストライターの手で描かれた作品とも言える。このnoteだってそうだ。僕が考え、僕以外の誰かがそれを他人に(このフォントで文字として)見せている。本当の僕の文字はここにはない。

だから、せめて読書ノートだけは「僕」でありたい。

そこでふと考えついた。

「オナニーは性欲のある限り続けられるな」と。

もちろん、体力的な面で一日何回まで、というのはあるであろう。しかし、そういうことでなく、仮に一日一回とするなら(因みに僕はそんなにしない)、性欲が尽きなければ毎日続けられるはずだ。それを読書ノート(あるいは習慣にしたいこと全般に言えるかもしれない)に当てはめて考えてみる。

自分が気持ちよくなるように書く。いや、逆。書くのが気持ちいいようになる。そうなるようなノートを見つける。片っ端からノートを開く。外装ではない、書く面が大事なのだ。サムネがエロそうでも実際動画見てみると大したことないときはしばしばある。それは今ここの世界でも同じだと思う。開いてみなければわからない。

わかったぞ。僕はリングノートが好きだ。しかもサイズはA6。表紙の色は水色がよかった(「続ける」ためには外装は重要。なぜならそもそもサムネを見てエロいと思ってムラムラしなければその動画は一生開かれることがないからだ)。買った。この紙面にペンを走らせてみたいと思った。ん?ペン?

そうか。ペンも重要だ。なめらかな書きごこち、しっかりとした書きごたえ、等々色々好みは別れるだろうが、ペンも意識しなくては自慰行為は始まらない。ある意味で、ペンはTENGAなのかもしれない。違うかもしれない。

さて、丸善でペンとノートを買った。とりあえず、東浩紀『弱いつながり』を僕のカラダの一部にしてやろうと思う。心の赴くままに、欲を開放するように、それ自体が気持ちいい行為であるように。

オナニーは体から自分の精を出す行為。読書ノートは体に他人の生を埋め込む行為。気持ちいいを、読書体験に。執筆体験に。

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