【ショートショート】修理のおじさん

 10月も半ば、火曜日の昼間。
 自宅の台所に備え付けてあるガス給湯器が、今年も壊れてしまった。

「すいません、またお願いします」

 僕が少しくだけた挨拶で迎え入れたのは、いつも来てくれるガス会社のおじさん。
 このおじさんに会うのは、さて、もう何度目だろうか。

 毎年、食器を洗うのにお湯が恋しいこの季節になると、僕の部屋の給湯器は何故か必ず調子をおかしくしてしまう。おかげで僕は、秋といえば給湯器と……それから今僕の部屋の台所で給湯器の扉を開けて、中の古く複雑な配管と向き合っているおじさんの顔を思い浮かべるようになった。
 どうやらこういうのは建物単位で担当が決まっているようで、僕がここに引っ越してきて、初めて修理をお願いした数年前からずっと、このおじさんが来てくれている。結果的に年に一度のつきあいでしかないけれど、同じく年に一度年賀状のやりとりしかしない程度の友人たちよりはよほど縁があるように思う。

 勿論、そんな風に感じているのは僕のほうだけだろう。おじさんはこれが仕事だ、僕の他にもこうやって、長らく住んでいる誰かや、ここの大家さんなんかと顔を合わせているはずなのだし。
 例えばどこかでばったり会えば挨拶くらいはするだろうけれど、おじさんはいつも社用の軽ワゴンでやって来て、修理が終わればさっと帰る。この部屋にいるおじさんしか、僕は知らない。これ以上の接点なんて出来ようもないはずなんだ。

 今までは何となくそんな風に思っていたけれど、そうやって僕が作った勝手な壁に、今日はこつんとひびの入る気配がする。その正体がおじさんから僕にかけてくれた言葉だと分かるのに、少し、時間がかかってしまった。

「お兄ちゃん、学生さん?」
「……え? あ、いや」

 まさか話しかけられるとは思わなくて、歯切れの悪い生返事。

 まぁ確かに、平日のこんな時間から自宅に居れば、そう思われるのも仕方ないかもしれない。だけど僕もいい歳だ。そんな間違われ方が何だかおかしくて、おじさんから話しかけてくれた嬉しさも手伝ってか、それとも生返事のばつの悪さからか、僕の答えは少しだけ早口になる。

「僕、三十いってますよ。音楽やってるんです」
「そうかあ」

__あれ……?

 小さく入った壁のひびが、またちょっと大きくなったような気配。おじさんは背中を向けたままだったけれど、嬉しそうに声を返してくれた。この嬉しさって、どこから来ているんだろう。なんだか気になってしまって、そこで終わらせることも出来た会話を、僕はもう少しだけ続ける。

「だからその……なかなか時間が取れなくって、変な時間ですみません」
「何言ってんの、みんな週末に入れたがるから助かるよ。……実は俺もさ、若い時に似たようなことやってたから。時間無いの分かるよ、大変だよね」
「へ?」

 今度は思い切り、間の抜けた返事。おじさん、ごめん。ステージ上でのアドリブには大分強くなったと思いたいのだけど、どうもこういう時にはうまくいかないらしい。何というか、今まで顔を合わせるうちに出来上がったおじさんのイメージや、失礼だけど外見の印象からはどうにも……音楽やステージ、みたいな単語は浮かばなくて。

「バンド、やってたんですか?」
「いいや、俺は役者の方。意外だろ」

 若造の心などお見通しといった感じで、おじさんがやわく笑う。ちょっぴり自虐的な言葉選びだったけれど、その雰囲気にひねたものは感じさせない。すごく、なんていうんだろう、たぶんおじさんの半分ちょっとくらいしか生きていない僕が言うのもおかしいけれど、いい歳のとり方をした人なんだなと素直に思える。

「すみません……」
「いいよいいよ。けど、そうか。三十か」
「?」
「俺がやめた歳よりも上なんだね」

 おじさんがさらりと、少し嬉しそうに口にした言葉は、耳に届いた瞬間にとんでもない重みでもって僕の心と両肩に落ちてきた。

__そうか、この人は

「今も大概厳しいだろうけど、昔なんかもっと食えなくてさ。いい時代になったと思うよ」
「……わかります」

__わかります?

__何をだよ?

 生返事なんかよりずっとタチの悪い、あいまいな頷き。

 僕は知っているだろう。
 僕がわかるのは、僕が感じてきたことだけだって。

 おじさんがどんな気持ちで役者を志したか、どんな誇らしさで舞台に立つ為の努力を続けたか、そしてどんな悔しさでそれをやめていったかなんて、本当にわかるはずがない。

 だって僕は……まだやめていないのだから。

「子供が出来てさ、いよいよ続けてられなくなったんだよ」
「なるほどなあ……」

 まるで上の空と取られても仕方のない返事に、我ながら笑ってしまう。聞いているつもりなのだけど、考えが追いつかないときにはどうしても返事が疎かになってしまうらしい。そこで途切れてしまうかと思った会話が、おじさんからの一言でまた繋がる。

「まあでも、嫁と子供食わすのに働くのも楽しかったよ」
「そっか。……なんか、いいですね」
「だろ」

 何度も会っているはずなのに、ふしぎな邂逅だった。

 こんな風に、途中までは僕と似た道を歩んでいた人が、今はそれを捨てて普通の生活をしていて、僕が歌っていないときの生活を支えてくれている。今その偶然に出会って、なんだか妙な気持ちではあった。けれど、きっと僕から見えていないだけで、本当はもっともっとたくさんの人が色んなものを捨てて今を生きて、僕の生活に少しずつ関わっているんだろう。そう思うと、いつもステージから見ているお客さんたちの顔が思い出された。
 みんなそれぞれの生活があって、それぞれの縁で僕に関わったり遠ざかったりしている。そういうのは時々ひどく理不尽な在り方でコントロール不能になったりするから、たとえ友達や家族のように濃密でなくても、縁あって関わり合えることはそれだけですごいことで。そんなことを、今更ながら実感する。

 おじさんは少しだけ奥さんとお子さんのことを話すと、満足そうに言葉を切って作業に集中し始めた。東向きの窓の向こうからは、近くの小学校で鳴っている業間休みのチャイムが響いている。その音をかき消すような子供たちの歓声と、おじさんが手元で工具をいじる音が、しばらくの間、部屋の空気をそっとかき混ぜていた。

「……」

 さっきまでのおじさんの言葉に、表情に、嘘は無かった。無かったと、思いたい。
 だからこそ聞きたくて、だけど聞けなかったひとつの問いがもやもやと頭に残る。

__もし、やめてなかったらって思ったこと、ありますか……?

 やめてない、まだあがいている自分だから思いついてしまう、不躾な問いだと分かっている。僕は口を引き結んで、おじさんの作業が終わるのをじっと待った。

 本当は、おじさんに聞きたいことがもっとあるはずなのに。

「……」

 僕は何も、言えないでいた。

 やがて、業間休み終了のチャイムが鳴り、子供たちの声も潮が引くように消えていった。部屋に残されたおじさんの作業音も、少しずつ静かになる。
 気づけば、錆びて古くなっていた配管の一部は真新しいものに交換されていて、これならもしかすると来年はおじさんを呼ばなくてもいいんじゃないかと思えるほどの仕上がりになっていた。

「さ、出来た。お湯も出るね」
「ありがとうございます、助かりました」

 立ち上がり腰を叩くおじさんにお礼を言い、作業確認書に走り書きの署名をする。これでしばらくはおじさんともお別れだ。おじさんに言いたいこと、聞きたいことをずっと考えていたけれど、結局言葉には出来ないまま、僕はおじさんを見送るべく玄関先までついて行く。

「ありがとうございました、お気をつけて」
「兄ちゃん! 頑張んなよ」
「!」

 おじさんの意味ありげなニヤリ笑い。また、見透かされたような心持ち。一瞬、僕はあれからおじさんに何か問いかけただろうかと記憶をたぐる。そんなことは無いはずだけど、おじさんから、僕が欲しがってた答えをもらえたような気がして、思わず顔が綻んだ。

「頑張ります」

 僕らはそうとしか返せない。やめない限り、いつだって。いつまでだって。
 おじさんはそのことを、僕よりもよく知っている人なんだろう。

 来年は、おじさんに僕のCDを渡してみようか。
 憧れのロックスターに渡したときより、緊張するかもしれないな。

【おわり】


【あとがき】
カミナリグモ、というバンドの、ライブMCだったかメンバーブログだったかで知った、毎年秋にアパートの給湯器が壊れるせいで修理のおじさんと顔馴染みになっているという話がモチーフのショートショートです。カミナリグモが休止期間から復活するのが嬉しくて嬉しくて、友人向けに書いていたものを引っ張り出してきました。
書き続ける、作り続けるという日々のハードルについての話でもあったりします。

#小説
#カミナリグモ

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