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「教える」ではなく、「引き出す」終活

以前書いた終活への違和感がよく読まれていて、共感の声を僧侶の方や葬儀社さん、一般の方からもいただけてとても嬉しい。

今回は、私なりの終活の違和感へのアンサー活動が最近見えてきたので記録したい。

終活への違和感では、マーケティング側が先導する終活には批判的であることを書いた。

ではとうすればいいのか?の具体的な活動について。

最近の私の講座に参加してくださった方々、始まる時は少しむずかしい表情をされていても帰るころにはニコニコ笑顔になって「また相談しにきます!」とお寺の住職や奥様に声をかけて帰っていかれる。

お寺の住職や奥様方もかなり喜んでくださり、「次はいつどんな内容でやりましょうか!?」とその場で次の予約をいただくほどだ。

なぜなのか?を自分なりに考えた。

「教える」終活と「引き出す」終活の違い

「教える」の問題点

私は先生がいて「終活とはこういうものである」と「教える」だけの終活に意味を感じない。

私がこの業界に身を置いたころは今のように葬儀・お墓・相続・遺品整理などの死後の情報が世に出ておらず、ある種ブラックボックス化しているのが当たり前の時代だった。

まったく情報がないところから大切な人または自分の死後について後悔ない選択ができるかというとかなり難しく、それが故に納得感がない「知らないことで後悔をする」領域とされていた。

その課題に対して「終活講座」へのニーズは高まり、中立の立場で供養に関する情報提供や葬儀社・石材店・寺院紹介を行っていたサービスの社員だった私も口コミで「次はうちにおねがいします」とご依頼いただいて1年間でとある自治体のすべての公民館で講演したり、企業の社員や顧客向けに講演する機会が多々あった。

その人気に乗じた資格ビジネスも多々生まれた。実務経験がなくとも数日の研修を受ければ終活にまつわる資格が得られるいわゆる民間資格ビジネスも横行し、畑違いでもその資格を得ることで終活関連の仕事を受注できると話題になっていた。

それから月日は経ち、今だに業界と一般の方の情報格差はたしかに存在するが、以前に比べればずいぶん一般の方にも知識が行き渡り始めた。

むしろ、玉石混交の情報が溢れかえって、一般の方は正しい情報に行き着くだけでも一苦労・・・といった時代になった。

そのために、

数多の情報や選択肢の中から、自分にあった解決策はなんなのか?がわかりにくくなっている。

という新たな課題が生まれているくらいだ。

実際に多くの終活講座で、情報を得て満足している人が多い一方で、実際はエンディングノートの記録も遺言書の作成も進まないし、問題解決もできないまま・・・というのは定説だ。

また、参加者のほうが情報はしっかり持っていて、解決方法が聞きたいのに相談に乗ってもらえなかった。という声も聞こえてくる。

つまり現代の終活において一方的に「教える」ことなんて、マニュアル化されるレベルの本当に基礎的な情報しかなく、情報だけで解決できることはそう多くないのが露呈してきているのではないか?

それでも尚、相変わらず「教える」終活が主流として存在していて、本質的な問題解決ができていないが故に、死者数も業界のプレイヤーも増えるのに業界の質があがっているどころか斜陽産業とまで囁かれる状態に陥っているのでは?

と私は感じている。

そこで私なりに、どうすれば、不安を抱えている一般の方々に質の良い情報提供と課題解決ができるのか。

そしてなによりも「弔う」ことの意義を感じていただけるのか。

そんなことを考えて、クラウド管理寺務台帳の会員寺院、そのほかの取引先寺院、仕事関係なく仲良くさせていただいているご寺院などから依頼をうけて終活講座を開いてきた。

「引き出す」終活とは

私が終活講座で意識していることは「引き出す」ということ。

参加してくださっている方々が自分の不安の原因を特定し、自分の言葉で不安を口にするところが最初の終活のスタートだと私は思っているので、必ず本人の口から言葉が出るように場を構築する意識をしている。

終活相談に来る方の不安を解消するためには個々の課題を「引き出す」必要があって、引き出したうえで、その方にあった解決方法を提示するしかない。と思っているからだ。

「引き出す」ことを意識した私の講座に参加してくださった方々を見ていると興味深いのが最初に口にしていた不安と講座が終わるころに本人が認識する不安が変わることがあることだ。

変化の事例1

最初の不安:「自分は妻のために終活をしっかりやっているが後なにが足りないか知りたい」
終わる頃の不安:「妻が何を考えてどうしていいのか、何も知らない」

このケースはままあるケース。
自分のための終活とおもって一生懸命勉強もされて、エンディングノートやそれに類するものまで完璧。

しかし前提が惜しい。自分が先に死ぬことしか考えておらず、自分の喪主になるであろう人が亡くなったらどうしたらいいのか、どうしてほしいのかをまったく知らない。

これは前提に「終活は迷惑をかけないように自分ことを整えておくもの」という思い込みがあるからおこる。様々な本を読んだり、講座をうけていくうちにある意味自己暗示にかかっているのが原因。

私の話や問いかけ、他の人と私の会話を聞いているうちにその思い込みが剥がれて弔うことには「弔う側」と「弔われる側」がいることに気づいて、本当の不安は妻に先立たれた自分だと気づいてくださった。

それでは改めて奥様とどんな話をすべきなのか?夫婦で会話しづらいなら、住職や奥様にうまく話の水を向けていただくのは?などをお寺を巻き込みながら話していくとあとは私が何をするでもなく、解決方法への具体的な手段が見えてきて安心したお顔になられた事例。

変化の事例2
最初の不安:「独り身なので準備すべきものをして兄弟に任せられるようにしたい」
終わる頃の不安:「自分の中にあった親友へのグリーフ」

ご自身がおひとりさまということで、話を聞いていくとしっかり必要な準備はできていて、あとは喪主にあたる兄弟の方との日頃からのコミュニケーションができていれば問題なさそうな方。

会を進めていくうちに私がいつも提言している終活において忘れないでいただきたいさまざまな視点を話していると会の最後に「あの・・・いいですか?」と恐る恐る発言をしてくださった。

「自分には子供のころからの親友がいて亡くなる直前まで食事もしていたのに、葬儀に呼ばれず、お墓の場所も教えてもらえず今も親友がこの世にいない実感がない。でも誰にも言えずにいて、似たような人を見ると思わず声をかけそうになる自分に気づいて「そうだもういないんだ」と思って悲しくなる。自分の中に確かに弔えなかったことで残ってる悲嘆があると今気づいた。」

と、話し終わる頃には涙を流されていた。

会の中で私からちりばめた問いかけや参加者の方のエピソードの中で、社会環境の変化や葬儀が産業化する中で家族の所有物化されていく葬儀によって起こるグリーフ(悲嘆)が自分の中にまさにあることに気づかれ、言葉にしたことで自分が誰にも言えずにグリーフを抱えていたことがわかった事例。

住職にわたしからなげかけて、供養の方法を提案してもらって、ほっとした笑顔を見せてくださったのが印象的だった事例。

このように、参加してくださった方がただ終活のTODOをこなすような感覚になるのではなく、自分の中の死生観や弔い、人間関係に視野を広げていくことで出てくる言葉をたくさん「引き出す」ことで、それぞれに叶った終活ができていくのはでないか?と私は最近手応えを感じている。

「引き出す」終活に必要なこと

「引き出す」終活講座の共通点は

  • 場所はお寺

  • 参加者はお寺の檀信徒か周辺地域の方

  • 私とお寺の間に信頼関係がある

という条件が叶った状態で行う終活講座だ。

場所はお寺である理由

  • 仏教という世界観(一般社会とは異なる世界観であることで生死の話がしやすい)

参加者はお寺の檀信徒か周辺地域の方である理由

  • すでにお寺と関係性がある(事前に講師が状況を把握しやすい、参加者の心理的安全がある)

  • 終活を目的としない定期的なコミュニケーションがある(ついでに会話野中で悩みや課題解決の進捗を確認・進行できる)

  • 住職や奥様などお寺の方と合う人間性の方が集まりやすい(普段まったく関係をもたないコミュニティでも、価値観が大きくことなることはないので会がスムーズに進む)

私とお寺の間に信頼関係がある

  • 私が信頼できるお寺でないと参加者の方に胸を張って「お寺を頼ったらいいですよ」と言えない

  • 事前に参加者の情報を聞くことで会の進行の組み立てがスムーズ

  • 住職や奥様がどんな方かわかっていると会の進行中に話をふったり、巻き込みやすい

  • 会終了後も住職と奥様から私へ参加者の課題解決についての相談がしやすい

他にもそれぞれ理由はたくさんあるがわかりやすいものを上げてみた。

あとは、講師自体の経験値が必要になる。

この「引き出す」終活の話を業界で講師をされてる方に話すとレジュメはないか?と聞かれるが、レジュメらしいレジュメはない。

しかも、会に参加される方ひとりひとりと対話する中で不安の核を感じ取って引き出している根拠は私の経験からくる正直カンなので、うまく他の方に伝えられない。

私個人的としてはかなりやりがいがあるし、楽しく活動しているので問題はないが、マニュアル化できないがために再現不可なので、この取り組みの難点は手広く講師を育てて、たくさんの方に体験していただく体制は築けないことかもしれない。

まとめ

大切なことは、参加者の方が自分の本当の不安や課題に気づき、課題解決のためにお寺が参加し、確実に1つづつでも解決していくこと。

寺院自体が参加者について詳しくなっていき、記録し、寺院内で共有する檀信徒カルテやクラウド管理寺務台帳も課題解決の支えとなって長い時間軸で檀信徒に寺院が向き合っていく体制を設けることも重要。

そのプロセスによって寺院と檀信徒、地域の関係性はより良くなり、参加された方々から自然と笑顔が生まれる。

私はあくまでもそのための黒子であって、お寺と人、お寺と地域をつなぐきっかけにすぎない。

でも、部外者だからこそできる「引き出す」終活を今後も心あるお寺の中で広めて、着実に社会的資源としての寺院に貢献していきたい。



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