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『長い一日』を読む長い一月 〜8日目〜

滝口悠生さんの連載小説『長い一日』(講談社刊)を一日一章ずつ読み、考えたことや想起されたこと、心が動いたことを書いていく試みです。

4連休が終わりました。暑い日が続きますが、みなさまいかがお過ごしでしょうか。第8回は「窓目くんの愛」です。窓目くん、酔って、涙して、愛。

あらすじ
前の日の晩、窓目くんは駅に向かって歩きながら,ギターを弾くと自然と体が動くことと、不意に涙が出ることは、似ているのではないかと考える。窓目くんはギターを弾かなくなったかわりに食い道楽になった。窓目くんにとって、食べることと音楽は同じようなものだ。窓目くんは、古い友人たちが自分のことを馬鹿にし、みくびっていると思うが、同時に「ただ見ているだけ」だと気づいている。
夫とふたりでヤンキーに殴られた時のことを窓目くんは思い出す。ラジカセから流していた音楽をとめろと言われたのだが、夫は止めなかった。流していたのはカルメンマキ&OZの「私は風」だった。「」という言葉について考えている窓目くんは、自分は酔っていると思う。
電車に乗った窓目くんは本来降りるはずの駅を寝過ごし、折り返しの下り電車の終点まで運ばれる。その晩、夫の前で泣いたことも、自分が歌ったいくつもの歌のことも、窓目くんはもう全部忘れている

世界にまっすぐ向けられた
窓目くんがもう忘れてしまったその夜歌っていた歌のことが、小説に書かれるということ。小説はそういう誰にも忘れられてしまったことを思い出すためにあるのではないかと考えてもいいのではないかと思いました。
一方で、ヤンキーにからまれたときの記憶について考えてみると、窓目くんは夫のほうがぼろぼろと涙を流していたと覚えていて、お花見の夜と同じように窓目くんが泣いていたという夫との間に、齟齬が生じているように描かれています。どちらかの記憶が正しかったというのは描かれておらず、もしかしたら両方の記憶が間違っているという可能性もあります。
誰も覚えていないことが語られるということと、同じ出来事がそれぞれの記憶によって異なったあり様で語られること。それらが同じ章に展開されることがとても面白いと、わたしは思ったのですが、その面白さをうまく説明することができません。
タイトルである窓目くんの愛、というのは窓目くんが誰か特定の人に向けた愛情のこと、というわけではもちろんなく、「愛」という言葉が20歳くらいの窓目くんにとって持っていた特別な響きのことです。そして、それは「私は風」という曲と結びついています。カルメンマキ&OZというアーティストのことをわたしはほとんど知りませんでしたが、この歌の響きが「世界にまっすぐ向けられた」愛というのは、なんだかわかるような気がしました。今日はこのあたりで開いた本を閉じようと思います。

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