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山崎晴太郎 序文|『透明な好奇心』

職業人としての僕のキャリアの始まりは、グラフィックデザイナーだ。

立教大学の社会学部現代文化学科というところで写真を学んでいた僕は、とあるPR代理店に入社し、そこのクリエイティブ部門でグラフィックデザインの仕事を始めた。ただし、その会社の中での僕は、少し毛色が変わっていた。一言で言えば、グラフィックデザインという領域に留まらないことをやろうとしていたからだ。
そんな僕を見ていた社長の太田さんが、ある時、僕を呼んだ。その時の社長の話を要約すると、こうなる。

「君がやりたいことの全てをやれる環境は、残念だがこの会社にはない。他の会社にもない。だから、君は自分がやりたいことをやれる場所を、自分で作るべきだ」

そう言って社長は1,000万円を出資してくれた。この金で僕の居場所を作れということだった。新卒2年半の26才そこそこの若造にだ。今思い出しても感謝しかない。

僕は社長の厚意をありがたく受けて独立し、その1000万円を元手にして自分の会社を作った。それが今の会社、セイタロウデザインの始まりだ。

独立直後は自分の出発地点であるグラフィックデザインが仕事の中心だった。だが、自由を手に入れた僕は、興味の赴くままに色々な領域に手を出していった。

最初に僕が越境を試みたのはウェブデザイン。今はウェブとグラフィックの両立はデザイナーとしては当たり前だけど、当時はまだウェブとグラフィックを同時にやるデザイナーが少なかった。グラフィックが上でウェブが下というように、少しデザイナーとしてのヒエラルキーみたいなものもあったような気もする。それからはプロダクトデザインの領域に踏み込み、陶磁器のデザインをしたり、ソーラー発電のLED灯をデザインしたり、R D Sの杉原行里氏と一緒にカーボン繊維で松葉杖を作ったり。幸いなことに、この松葉杖はグッドデザイン賞で金賞を頂くことが出来た。


次にやってみたのは、ラジオ番組だ。自分のラジオ番組を持つこと。ラジオのパーソナリティの仕事だ。これも、プロダクトデザインと同様、今でも続いている僕の仕事である。

その次に僕の興味が向かったのは建築だった。

だが、これはさすがに全て我流では手が出なかったので、京都造形芸術大学の大学院に通った。社会学部からいきなり建築学の大学院に入ったから、最初は木造建築の世界の常識を何も(尺貫法すら)知らず、同級生や先生方にはかなり迷惑をかけたと思う。

そしてどうにかこうにか、きちんとした木造建築の概念と図面の引き方を身につけた僕は、大学院で知り合った仲間を誘ってセイタロウデザインの中に建築部門を作った。建築士事務所としての登録も行い、まずは自分が住むための家を設計し柱と屋根だけを残してスケルトンリノベーションした。それから金沢の中心部にある古民家を借り、金沢支社兼serif sという名前の古書店としてリノベーションした。

また、商業的にもいくつかのオフィスや飲食店、そしてホテルの設計や内装デザインを手掛けることが出来た。

更にこの頃から僕は、ファインアートの世界への越境も試みるようになった。最初にやったのは、アート・バーゼルやフリーズなど世界の名だたるアートフェアを2年間かけて片っ端から周ることだ。そうやってファインアートとは何なのかを僕は全身で感じ、学ぼうとしたのである。

こうして始まった僕のファインアートへの挑戦は、今年ようやくイタリアでの公募賞で入賞することが出来たものの、まだまだ序盤戦も良いところだ。僕の大好きなゲームRPGの世界で言えば、マップ全体の5%を探索し終えたかどうかというところだろう。だが、僕はこの挑戦を心から楽しんでいる。今は週に1日はアトリエに籠もり、作品を制作している。

今、ファインアートの例をだしたが、どこに向かって越境するときも、基本的なやり方は同じだ。まずはその世界に気軽に飛び込んでみる。気軽に飛び込みながらも、その業界の幾つのも書籍、そして何度もGoogle先生にお伺いを立て、その世界の理を探っていく。この繰り返しだ。最初から優れた人としてデビュー出来るなんてことは、あり得ない。

リチャード・アヴェドンだって、初めてカメラを手にしたときには間違いなくド素人だったのだ。しかもアヴェドンのポケットにGoogle先生はいなかった。じゃあ、僕のほうが遥かに有利じゃないか。やりたいことに飛び込まないでどうする。だから最近では日本を代表するギタリスト、田中義人さんと一緒にN U /N Cという音楽ユニットを結成し、音楽を作りレコードを出した。

こうして僕は、自分がやりたいことをやれる場所を自分で作り、やりたいことを素直に実行してきた。

これは僕の中では、ごく自然で何の無理もないことだった。思考、感情、スタンスは一貫している。そういう確信があった。しかし、周囲の人々にとっては、そうではなかった。僕の仕事の領域が増えるたびに周囲は混乱し、苦笑いを浮かべながら僕に尋ねるのだ。

「セイタロウさんって、一体何なんですか?」

そう聞かれるたびに僕は笑って誤魔化してきた。

「これも、やってみたいんですよねー」

だが、笑って誤魔化しつつも、自分の中に、自分を取り巻く世の中への違和感が澱のように溜まっていくことにも気づいていた。

「グラフィックデザイナー」も「プロダクトデザイナー」も「建築家」も「ラジオパーソナリティ」も「アーティスト」も、それぞれは社会における一つの記号に過ぎない。それらの記号の中には必ず生身の人間がいるのだ。生身の人間の一人ひとりのありようがどれだけ多種多様なものかを、僕たちは知っている。であれば、ここに並べたいくつもの記号の中に「僕」という一人の人間がいることは、何も不自然ではないはずなのだ。

だから、自分がこれまでやってきたことと、これからやろうとしていることを、一度きちんと文章にして整理してみたいと思っていた。

しかし、そうすることへの恐怖感もまた、あった。
自分はこうだということを言葉にして残してしまうことへの恐怖感だ。

僕は会社を作ってから、これまでに7回事務所を移転させている。独立から12年間で7回だ。事務所の移転には当然、多額の費用がかかる。企業会計から考えれば明らかに無駄な出費だ。けれども、これは自分にとっては必要な出費だと思っている。何故ならば、こうやって常に浮遊していることが、僕に刺激を与え続けてくれるからだ。常に新しい外部刺激を受け続けていなければ、自分のクリエイションが固まってしまう。そういう変な恐怖感が僕にはある。

おそらく僕は、ドラえもんのひみつ道具、「もしもボックス」が発動した世界の群れの中を漂い続けていたいのだ。

いつもの見慣れた風景であり、触るものの全てに確かな手ざわりがありながらも、どこかに虚構が浸入している世界。現実と虚構の境界面に無数に生まれては消える泡のような世界。

この現実と虚構の界面を漂い続けている自分のありようを言葉にしてしまうことは、そんな自分を現実の世界に繋ぎ止めてしまう楔を打つことになるのではないか。そんな思いもあった。

そんな時に視界に入ってきたのが、立教大学の先輩で社会学者の加藤さんだ。当時の加藤さんは、僕が卒業した立教大学社会学部現代文化学科で兼任講師をしていた。だが、その活動は独特だった。

自分で父親用育児バッグをデザインして売り出したかと思うと、ものすごい勢いで小説を書き始めたりもする。コンサルタントとして様々な企業とも仕事をしている。

彼もまた、興味があるものには手を出さずにいられないのだろう。それでいて、その言葉にはきちんとした学問の裏付けがあると感じた。僕の立教大学時代の恩師である三浦雅弘先生が研究休暇を取られた際に、彼は先生の代わりに卒業論文の指導をしていた。

彼が持つ学問の力を借りれば、自分をどこかに繋ぎとめてしまう言葉ではなく、もっと広くもっと自由な世界へと向かう言葉を書き留めることが出来るかもしれない。そう感じた僕は早速、加藤さんに連絡を取った。

そうして始まったのが、この連載企画だ。

これからの世の中において求められるのは、複数の領域を横断する人材である。そういう話はいろんな場所で繰り返し繰り返し語られてきたし、僕もその通りだと思う。

ただ、複数の領域を横断するとは、例えばグラフィックデザイナーがプロダクトデザインをやり、ウェブデザイナーが空間デザインをやると良い結果が出る、ということではない。

見かけが似ていて言葉の上でも隣り合った場所にある職能を安易に統合することではなく、必要なのは人間のより深い部分にあるものに根ざした領域の横断なのだ。それは創造への欲望なのか、遊ぶという本能なのか。あるいは、それ以外の何かかもしれない。

スティーヴ・ジョブスの有名なスピーチが言っているのは、そういうことだと思う。

“Again, you can’t connect the dots looking forward; you can only connect them looking backward. So you have to trust that the dots will somehow connect in your future. You have to trust in something — your gut, destiny, life, karma, whatever. This approach has never let me down, and it has made all the difference in my life.”

僕の言葉をこの伝説的なスピーチと並べるのはおこがましいかもしれない。

でも僕は、僕に興味を持ってくれている人たちと、将来のいつかどこかで僕に興味を持ってくれる人たち、そして僕自身のために、ジョブスにとっての”connecting the dots”にあたる僕の言葉を、学問の力を借りて、これから探しに行こうと思っている。

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