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§4.神の「計り知れない事情とは?」

あるコミュニティや組織に属していればやはり決められたルールというものは存在するものです。それに従っていくという事においては少し窮屈に感じる事もあるかもしれません。

スポーツの世界では当然のことながらルールというものがあります。そのルールを守るからこそゲームというものは面白いのです。ところがそれぞれがルールを無視して好き勝手にやっていては観ている者もプレイしている者も面白みがなくなってしまうのは当然のことです。

生活していく中でも窮屈に思われるような規則なども存在しますが、それらの多くは私たちを守るために立てられたものです。例えば交通ルールにおいてもこれを守ることでお互いの生命が守られているという事は事実です。

法律というものも一つの規則で、守らなければ罰せられるようになっています。これがなかった時代はどれだけ大変だったかという事は日本史のみならず世界史などを学ぶと今の時代が法律によってどれほど守られている時代であるかという事に気づかされます。

それにしても世の中、見渡す限りにおいて幸福な社会でもないし、平和な世界でもありません。神様がおられるとすればどうして救ってくれないのでしょうか。全知全能の神様であるならば、すぐにでも戦争のない平和な世界にできると信じてきました。

しかしそうやって神様を信じ、愛する者の中からそう強く願えば願うほど実現しない現実に落胆し、神様に対する恨みも深まり、いずれ歴史は神様をこの地上から抹消してしまえといった恐ろしい考え方へと発展していきました。それが共産主義思想です。詳しい内容はこちら(勝共理論)を参照してください。

「そういえば聖書の中でもアダムとエバが堕落していくのを救ってくれなかった神様がいたな」「もしかして神は無能なのか」「神がいるのにどうしてこんな世界なのか」「なぜすぐに救ってくれないのか」「何か理由があるのか」…今回はここに焦点をあてて、神の「計り知れない事情とは?」何かを学んでいきたいと思います。

-1. 神までも絶対的に従わなければならなかったルール

それを知るために、まずは根本的なところに焦点をあてていかなければなりません。そもそも神様の天地創造は、人間をこの地上に生んですべての創造が終了!というわけではありませんでした。

聖書に出てくる禁断の実を「取って食べるな」とアダムとエバだけに与えた戒めが実は人間が果たすべき「責任分担」であったのです。天地創造の設計図は最後に神と人間の共同作業という項目が残っていたのです。

「歴史は繰り返している」という言葉があります。それはこの責任分担が果たされなかった事によって延長し、それが拡大しながらやり直す事で綴られてきた結果でした。この責任分担論を知らずには歴史も本当の意味で紐解くことは出来ないのです。

ではその責任分担を人間にだけ与えられた理由とはどのようなものであったのでしょうか。

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第1点目は人間が成長して完成するまで、ある「一定の期間を設けた」という事です。この期間は神様も手を出せない人間自身が自ら成長して越えていかなければならなかったとても重要な期間でした。それが成長期間として定められた間接主管圏(原理結果主管圏)というものです。

第2点目に、神様はなぜこのような期間を定めたのか、その理由は何だったのでしょうか。創造物はすべて神様が定めたこの成長期間(一定の期間)を経て成長し完成するようになっています。ところが他の創造物と異なる点は人間にだけ「責任分担」というものが与えられました。

この責任分担が与えられた理由は、我が子として創造した人間が、親である神様に似る、またはそれ以上になって欲しいと望まれて与えられたという事でした。神様は親として我が子である人間に持っているものすべてを相続させてあげたかったというのです。

それが原理講論に出てくる「①神の創造性に似るため」という事と、「②主人としての権限を与えるため」であったという点です。

このような理由から、人間にだけ与えられた成長期間における責任分担という一つの原則を定めた神様ご自身がこの原則(ルール)を絶対に無視する事ができなかったのです。これがまず知っておくべき神様までも絶対的に従わなければならなかった原則であり、ルールだったのです。

自分で決めた事に対して最後までそれを貫き通す…なかなか難しい事ですが、この姿勢を普段の生活でも意識して取り組むと、絶対それに従わなければならなかった神様の気持ちに少しでも触れることが出来ることでしょう。

-2. すぐに手を差し伸べられなかった3つの事情

それにしても神様はどうして堕落していくアダムとエバを救ってくれなかったのでしょうか。そのほかにも聖書の史実をみてみると「神様はなんて冷たいんだろう」と思えるような場面はいくつかあります。

例えば、アダムとエバから誕生したカイン(兄)がアベル(弟)を殺害する時も一言いってそれを止める事も出来たでしょう。また最終的にはその行為を止めるに至ったけれど、無情にも動物の代わりに息子を殺して燔祭とせよと指示したアブラハムのイサク献祭などをみても「神様という方はなんてひどい事をするんだろう」と思われるような史実もあります。原理講論の内容にも「その家庭を惜しみなく捨てられ」といった表現をしている箇所もあります。

これだけをみてみると「なんて非情な神様だろうか」と思っても仕方がないかもしれません。歴史においても、いま現在生きている私たちにおいても神様を恨んでもおかしくないような事はいくらでも存在しています。

神様はどうしてすぐに救ってくれなかったのか、手を差し伸べてくれなかったのか、そうする事が出来なかった理由、何か事情があったはずです。ここではその3つの事情とは何であったのかをみていきたいと思います。

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まずは「原理の絶対性と完全無欠性」についてです。すべての被造物は成長期間(原理結果主管圏)を自ら成長しなければならないという原則を立てました。これが神様が決めた創造原理となっているという事は前述したとおりです。

いくら神様でもその原理原則を破ることは出来ません。もしもそれを無視して手を出していたとすれば自ら造った創造原理が破壊されてしまう事になるので、神様は人間を救う事が出来なかったというのです。

ではその場で神様が無条件に人間を救っていたとしたらどうなっていたのでしょうか。人間は動物や植物と同等、もしくはそれ以下で岩のように静寂な、愛も情緒も分からない、本来の姿とは全くかけ離れた存在となってしまっていたかもしれません。それだけ人間に与えられた「責任分担」というものは重要だったのです。

次は「神のみ創造主であるために」という内容です。もしも神様が人間の堕落行為に干渉していたならば元々は神様の創造物であった天使長が人間を誘惑して堕落させたというこの行為自体に創造原理的な価値が賦与されてしまうのです。そうなれば天使長が犯罪行為という新しい原理を創造した第2の創造主の立場に立ってしまいます。

そうなると人間は「自分はこのままではいけない」といった気持ちや「救いようもない人間だ」などという感性もなくなるので、自己嫌悪も感じないし、宗教でいう救いというものも必要なくなります。極端にいうと善を行っても喜び、悪を行っても喜び…といった姿になってしまっていたのです。

しかし人間の本性には常に善を追求して、悪い事をすれば良心の呵責を感じるという感性がどんな人にも残っています。歴史上に宗教はなくなりませんでした。これらはそこで神様が忍耐して下さった証拠です。

上述したごとくの人間になる事を防ぐために、誰よりも人間のことを思ったがゆえに、このような道(まるで人間を無視するかのような立場)を選択せざるを得なかった神様はその時どれだけ胸が痛かったか誰も知る由もなかったのです。

3つ目は「人間を万物の主管位に立たせる」ためにという内容です。これも前述したもの(主人としての権限を与えるため)と合わせて考えてみると、人間にすべてを与えたいと願っていた理想が崩れ去ってしまうので干渉できたなかったというのです。

どこまでも神様は人間のことを思って、最高の喜びを与えたくてその時、歯を食いしばり、胸をかきむしりながらも耐えてくださった姿がそこにはあったのです。

「神がいるのにどうしてこんな世界なのか」「なぜすぐに救ってくれないのか」と思うようなときがあったら、救ってくれなかった、助けてくれなかったのではなく、救うためにそうせざるを得なかったという事をぜひ思い出して下さい。そんなかわいそうな事情を抱えた神様がおられたんだという事を…。

-3. 与えられる環境(試練)には2面性がある

私たちに与えられる環境にはどのような意味があるのでしょうか。起こった現象や出来事に対して「何か意味があるんだ」という言葉があります。そこで最後に「与えられる環境(試練)には2面性がある」と題して学んでいきたいと思います。

これまで学んできた内容を通じて、与えられる環境には私たちの成長と同時に大きな恩恵を与えようとしている神様がおられるという事が分かりました。いわゆる創造時に立てた原則に従っていく事によって人間は神様の似姿となり、すべての相続を得ることが出来たという「発展的な理由」として与えられる環境が第1点です。

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もう一つは、図の右側を見てください。これは聖書の史実にあるイサクの犠牲を絵画にしたミケランジェロの作品(どちらの絵画もミケランジェロ作)です。アブラハムが一つの失敗をした事の償いの意味で与えられた環境でした。これ以外にもある使命を与えられる人物は過去において何かしら失敗したものを、その時代に償ってから新たに事が進むといった事があります。

このように過去に何かがあってそれを清算する意味で起こる現象や出来事をちょっと難しい言葉ですが原理講論では「蕩減」という言葉に集約しています。ここにおいてその使命が果たされなかった場合、その「蕩減」は将来誰かに移行していきます。移行したその時に現れてくる環境や出来事、通過する心情の世界までも、その時と全く同じような現象が現れてくるようになるのです。

実はこれが歴史が繰り返す原因となってきました。歴史家たちも「歴史は繰り返す」というけれども彼らは現れてきた現象の結果だけを見て判断しているに過ぎません。繰り返す事にはこのような原因があったとは誰も知らなかったのです。この与えられた環境を正しく超えていく事が出来れば新たな道が開かれるようになります。正しく超えていく事を「(蕩減)条件」、新たな道が開かれる事を「(蕩減)復帰」といいます。

それらは何のために現れてくるのでしょうか。それはすべて神様がもともと天地創造の時に造りたかった世界を取り戻すため、その時の理想を実現するためなのです。言いかえれば人間に最高の喜びを与えるために与えざるを得なかった神様のもう一つの事情がそこにはあったのです。

このように、与えられる環境(試練)には創造原理的な発展的な理由と清算の意味が込められた蕩減復帰的な理由の2面性があります。

それにしてもアブラハムの息子イサクの生命が欲しかった神様ではありませんでした。人間を苦しめたい神様でもありませんでした。いつの時代においても神様を恨むような言葉が飛び交ってきました。流行る歌の歌詞の中においてもそのような言葉は尽きることがありませんでした。それはこのような事情を抱えておられた神様の本当の姿を知らなかったからです。仕方ないといえば仕方のない事でしょう。しかしその言葉を聞くたびごとに何も語られず、言い訳をする事も出来ず、ただ黙って沈黙し、愛する我が子たる人間の喜ぶ姿それだけを希望に思いながら長い歴史の間、人知れず幾度もなく涙を落されながら今もその時の一つの喜びだけを実現するために固唾をのんで見守られている神様の姿があるという事を決して忘れないで欲しいと思います。

聖書のへブル人への手紙12章4~11節の聖句を最後に紹介します。興味があればこれを読んで終わってみてください。

HeavenlyParent体験プログラム
2020年7/24〜8/11までアドバンスメンバーとアドバンスチャレンジャーを中心にオンラインで行われた教育コンテンツになります。

「孝情の動機の種を植える」というのがコンセプトで、神様の「存在」「事情」「願い」を原理的視点から説明し原理に関心を持ってもらうように内容を組み立てました。

[目次]
§1.神を身体で味わう2つのポイント
-1. まずは「知る」ところから
-2. 視点を変えてチャレンジしてみよう

§2.神を知ると分かる「平和を成す視点」
-1. グローバル人材に求められるもの

-2. 神を知ると開かれる平和への扉
-3. 真のダイバーシティ(多様性)を考える

§3.神が最も喜ばれる「究極の喜び (願望)」①
-1. 喜びをもたらす仕組み
-2. 最も喜ばれる究極の願望「三大祝福」実現

§4.神の「計り知れない事情とは?」
-1. 神までも絶対的に従わなければならなかったルール
-2. すぐに手を差し伸べられなかった3つの事情
-3. 与えられる環境(試練)には2面性がある

§5.神が最も喜ばれる「究極の喜び (願望)」②
-1. 願っていた喜びと新たなギャップ

-2. 堕落以降の4つの願望

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