受け取ってもらえない、という痛み

僕は、興味が広い。そしてどちらかというと器用だ。つまり、なんでも平均以上にできる。そんな僕はこの特徴故に苦しんできた。

器用貧乏という言葉にもある通り、この「なんでもできる」はあまりいい捉えられ方はされない(もちろん自分でもしていない)。人は「なんでもできるってかっこいいじゃん」とか、「いろんな人を繋ぐよね」という。それはわかっている。でもこうして生きている自分としては、「いや、そうはいっても」とも思う。

自分がこうしたマルチポテンシャライト(いろいろできる人)だからこそ感じてきた生きづらさがあった。その最たるものが、「受け取ってもらえなさ」だった。

①忘れられやすい
  →聞く側に回ってしまう
  →自分の伝え方がわからない
②機能として必要とされない
③人と繋がれない頼れない


①忘れられやすい

色々興味があると、2つの理由で自分のことを伝えることに困難が生じる。

一つ目は、興味がありすぎて、自分のことより相手のことを聞きたくなってしまうということである。

人は、自分に興味を持ってもらえると嬉しくてついついいろいろ話してしまうだろう。その状況をどこでも作り出してしまうのが僕であった。さらに、人に質問していると自然と質問力が身についてくる。するとさらに相手の話を引き出せるようになるというループがある。

これが起きると、話の割合が「相手:自分=9:1」という事態が起きる。終わったとき、相手は、ふぇ~なんかいろいろ話せて気持ちよかったー、となり、僕も、いろいろ聞けて楽しかった~、となる。で、僕は相手のことをよく知っているが、相手は僕のことをほぼ知らずに解散するということになる。

すると、忘れられやすい。

二つ目は、自分がどういう人間なのか伝えるのが難しい、つまり自己紹介の仕方がわからない

自分の好きなことが、たくさんある。そして核となる大きなものを占めるものがない。すると、自分が自信を持っていろいろ語れるものがない。それは聞く相手にとっても、僕がが何者なのかを説明する単語がわからない。そして記憶に残りづらくなる。

②機能として必要とされない

自分がもし何かを頼む場合、どんな人に頼もうと思うだろうか。

例えば、動画編集をする人が必要な場合、動画編集が得意な人に頼むだろう。その時、頭に浮かぶのは、自分が動画編集というキーワードで頭に格納している人だったり、動画編集というワードで人から紹介される人である。

つまり、何かを頼むときは、そのキーワードをアイデンティティに持っている人に頼むといえる。しかし、僕は特殊なキーワードを持っていない。だから、機能として必ず必要というわけではなかったり、そもそもあまり呼ばれない。という人になる。

③繋がれない

自分が人と話した時に、自分を覚えてもらえるような会話をするのが苦手だと、そもそも人と繋がるのがとても難しくなる。もちろん、facebookなどで、その人と繋がることはあっても、その後に繋がりを維持していく方法がわからない。

関係を維持するのに、何かの用事で何度か会ったり、誘われる人になる必要がある。もちろん、なにか機能やキーワードがあると、事あるごとに繋がりなおすきっかけが生まれるが、キーワードがないと、この、「誘われる」ということが少ない。

自分自身から誘えばいい、という話なのだが、自分が機能がないと関わってはいけないという思いがあるから、人に対して誘う時も何か用がないと誘ってはいけないし、自分が提供できるものがないのに誘ったら向こうにとって時間の無駄になってしまう。そんな気持ちから人を何かに誘うことができない。

心にある感情は「さみしさ」

こうしてなんとなく、自分が相手の中に残っていかないなぁ、、という感覚を持ちながら生きてきた。だから、心の奥底の感情は「さみしい」「覚えていて欲しい」というものである。

まず、このさみしさ、に気づいた時に少し、暖かい気持ちになったし、誰かに連絡を取ったり、人と繋がることが少ししやすくなった。

もちろん、まだ消えるわけではないが、この気持ちを抱えながら少しずつ前に進むのだなぁという気持ちでいる。

自分のアイデンティティを探す日々

そんな人に受け取ってもらえてない、という感覚、覚えてもらえない、という感覚から、自分を探す行為、自己理解に関することをたくさんしてきた。自分を表すキーワードってなんなんだろう。自分はいったい何者なんだろう。誰かに僕が何者か知ってほしくて知ろうとしてきたし、何者かになろうとしてきた。

その中で、色んな方向に対してある興味にどうしても後ろめたさがあった。それは、何かに特化しないといけないのに、興味が後を絶たないという事態があったからだ。もうすぐ就職だしなぁ、、あれも知りたい、これも知りたい、、そんなことを抑えながら、どれにも中途半端なままずるずると日を迎えた。

好奇心を活かす

2020年の1月、tanQ株式会社という小学生向け探究教材の開発と提供を行っている会社でインターンを始めた。

仕事は、生活の中に眠る学問的な面白さから、探究的な教材を開発するというものだった。そこでは、興味があることが最高の武器で、「なんで?」「その本質は?」「どうなってるの?」といったものが受け入れられ、寧ろそれをすればするほどいい教材ができる仕事だった。毎月のテーマが多様で、自分の知的好奇心が刺激され続ける日々で、働くのが本当本当に楽しかった。

そうして働いているうちに、自分が楽しいと思っている瞬間は、「新しいことを発見する時」だったり、「どうなっているのか仕組みを探究している時」、「それを誰かにしゃべっている時」、「誰かと議論している時」だということに気づいた。

興味を許せた10月

そうして10月、なんやかんや大学の後のことを考えないといけないと思っていた時期。今の会社に入るのもいいし、並行して小学校の教員免許を取るのもいいし、と考えていた。でも一方で押さえられなかったのが、この「いろいろ知りたい!」という欲を思う存分探究しつくしたい。という思いもあった。僕は散歩してても色んな事に目が留まりすぎて、人と歩くのが苦手だし、世の中には、自分の知らない面白さが転がっている。知らないのが悔しい。そんな気持ちが膨らんだ。

「自分のこの興味で、世界の面白さを伝えることをしたら楽しいのではないか。」

そんな思いがふと、出てきた。youtuberとして、自分のやってみたいこと、知らないこと、を発信するのが楽しいんじゃないか。そう思ったら、自分の興味を全部肯定し、抱きしめることができた。自分の今までの興味はこのためにあった。そして、これがもしかしたら見てる人にとって、新しくやってみる一歩の助けになったり、知らなかったことを知るきっかけになったり、興味の幅が広がったり、つまらないと思ってた面白さを理解したり、、、そして、、この世界をオモシロイと思えるようになったり。

考え出したら眠れなかった。

ワクワクが止まらなかった。

こうして、自分を抱きしめることができた。

そして

普段どこか、一つのものを極める人がよくて、そうじゃないと価値がない、と思っていた。だから、自分の興味を突き進めるのは、逃げ続けているということだと思っていた。いろいろ知りたい。という一番根幹な価値観を否定し続けていた。

けど、今、一番大切な自分らしさを受け容れることができた。

泣いた。

嬉しかった。

これからは、臆することなく、聞いていいし、深ぼっていい。

人に受け入れてもらえない、と思っていた自分から、一歩前に進めた気がした今年の話だった。

来年の頭から、「この世の面白さは一生で知り尽くせるのか?」というテーマでYoutubeを始めようと思っています。よかったら登録してみてください。

ああ、これをかけて良かった。





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