アイデンティティのいらない世界

自分が一体何者なのか。

この問いは多くの人が抱く、そしてなかなか答えられない疑問かもしれない。

これは、心理学の分野では、「アイデンティティ」と呼ばれる概念であり、自我同一性という。アイデンティティは、連続性と斉一性からなるといわれており、連続性は過去と現在そして未来が一貫した自分で構成されるという感覚。そして斉一性は、自分が周りの社会・他者から是認されている同じ人間だという感覚のことである。この二つがあって出てくる自分への感覚を「アイデンティティ」という。(ざっくりいうとだよ。)

そもそも、このアイデンティティが必要になるのってどういうときなんだろうか。言い換えれば、自分がジブンとして不安になり、「自分とは?」と考え始めるときはどういう時だろうか。

例えば、自分のやりたいことやできることを言語化しないといけなくなったとき、大きな決断など今後について考えるべき時、などだろうか。

この時、前者の場面をもう少し解像度を上げてみると、自分が不本意な状況に陥っていて、抜け出して新たな環境に身を投じようとするとき、や就職などライフステージが変化する時である。

こういった場面で感じる、「あれ、私なにしたいんだっけ?」という状態を意識して初めて自分がアイデンティティを獲得しようとするのかもしれない。(ちなみに、この「やばい、どうしよう、おれって何者なんだ、、?」という状態をアイデンティティ拡散といったりする。)

私は何者なのか。私は社会からどう見られ、どうふるまっているのか。過去の自分の経験は今の自分にどう影響しているのか。自分はこれからどうしていこうとしているのか。そして、なによりも、こうした先にある「じぶんらしい生き方」ってどういうものなんだろう。そんな疑問がひたすら頭の中を埋め尽くす。

そもそも自分の存在に対して不安になることって、裏を返せば外部(他者)軸になっていたからといえる。そして、そこに不和を感じて内部(自己)軸になっていく。

これが人間が生きる上で至極当然のことのようにいわれるんだけど、そもそも、いつから他者軸になるのだろうか。

これは自分を思い返してみるとだけど、幼少期より少しずつ形成されていったと思う。その中でも思うのは、「受け取ってもらえなさ」なんじゃないかな。自分がジブンとして自己を軸として生きようとするときに、それを相手に受け取ってもらえないという状況。もっといえば、「私を変えよう」とする圧力が働くから、自分軸をやめるのではないだろうか。

自分らしく生きようとか、自分軸で生きようとか、アイデンティティを獲得しようとか。あるけど、これって重要な他者(親、先生、友達)から受け取ってもらえなくて、他者軸にわざわざ切り替えるからこそ起きることともいえるのじゃないか。

もし、周りの人100人が自分を変えようとせず、自分をそのまま受け取ってくれたら。そして自分も他者をそのままで変えようとせず受けとる姿勢があったら。だれもわざわざ他者軸に切り替える必要ないんじゃないかな。

つまり、自分らしく生きようとか、アイデンティティとかの背景には、自分らしく生きれない社会、アイデンティティを持てない社会がある。

僕は、誰もが、互いを受け取り合い、それが循環する社会が素敵だと思うし、そういう世界を作りたいと思う。

つまりそれは、わざわざ自分らしく生きろ、とかアイデンティティとかが言われない世界。だって、裸でいいって言われてる風呂で一回服来て、さらに脱がないでしょ。

アイデンティティとか、自分らしさって言葉がなくなったらいいなぁ。とふっと思った深夜2時半。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?