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【中年の危機を生き延びる】(20)「一発逆転」の可能性は絶対になくならない

自分の人生に絶望したとき、誰もが一度は頭に思い浮かべるであろうスーパー・パワーワードがあります。そう、これです。

「一発逆転」

なんと魅惑的な響きでしょう。これを実現しようとして、たとえばギャンブルのような無謀な挑戦にのめり込み、「一発逆転」どころか「一発退場」になった人は数しれず。
 
あるいは、人生に絶望していなくても、ミュージシャンであればミリオンセラー、作家であれば芥川賞や直木賞、俳優であれば大河ドラマで主役に抜擢される、みたいな形での「一発逆転」を夢見る人も少なくないはずです。
 
正直なところ、私は完全に「そっち派」です。「一発逆転」とか「大器晩成」みたいな言葉が、大好きなのです。

子どもの頃から才能を発揮していた人が、しかもちゃんと努力して、早々に夢を叶えてしまう。そんなの、なんか普通すぎて面白くじゃないですか!……と、これはそうなれなかった自分のひがみです(笑)。
 
統計的に見れば……というかそんな統計があるのか知りませんが、「一発逆転」が成就する確率は、おそらくかなり低いのではないでしょうか。だからこそ、そのような「無謀な」挑戦は、一般的にあまり推奨されません。
 
では、人生における「一発逆転」は、幸運な、あるいは才能に満ち溢れた、ごく限られた一部の人のものなのでしょうか。
 
私はそうは思いません。人生における「一発逆転」は、いつ、誰に起こってもおかしくない、むしろ「ありふれたもの」だと思っています。
 
なぜそう言い切れるのか。
 
それは、「たったひとつの出会いが、その人の人生を、全肯定させてくれる可能性がある」と思うからです。
 
たとえば、主観的には「辛くて辛くてしょうがない」人生を生きてきた人がいたとしましょう。
 
そんな人生の、最後の最後に、「この人こそ運命の人だ!」と思えるような、素晴らしい出会いを経験したとしたらどうでしょう。「私は、この人と出会うために生まれてきたのかもしれない」と思うような出会いです。
 
「いや、どれだけ素晴らしい出会いでも、それまでの辛かった過去は変わらないだろう」と言う人もいるかもしれません。しかし、本当にそうでしょうか。
 
ある二人の人間が「出会う」ということは、とんでもなく奇跡的なことです。そのためにはまず、双方が同じ時代に生まれ、その上で同じ空間に、しかも同じ時間に、そこに居合わせなければなりません。
 
もちろん、現代ではインターネットを介して出会うこともあり、その意味で空間的な条件はかなり緩和されたとも言えます。それでも、お互いにウェブ上の近いアドレス(住所)にアクセスしなければならないでしょうし、そこからさらにお互いを意識するような「出会い」となるには、それなりのハードルがあるはずです。
 
繰り返しになりますが、双方が同じ「時間と空間の交差するところ」に居合わせなければ、二人の人間が出会うことはありません。とすれば、これまでの過去の人生の中で、何かひとつでも違う行動をしていたら、その人とは出会えなかったかもしれないのです。
 
その出会いが自分にとって「かけがえのないもの」であればあるほど、それまでの自分の過去もまた、「かけがえのないもの」になる。過去のあらゆる出来事が、「この人と出会うために必要だった」と思えたとき、その人の過去が、すべて肯定されてしまうのではないでしょうか。
 
スタジオジブリの長編映画『君たちはどう生きるか』(宮崎駿監督)は、その解釈の難解さで話題となりましたが、実はここにも、同じような思想が表現されていた気がしています。
 
少しネタバレを含んでしまいますので、まだ映画を見ていない方は、大変申し訳ありませんが、このあたりでいったん引き返してください(笑)。
 
私の記憶の中のストーリーを簡単に説明すると、次のような感じです。

この映画では、冒頭で主人公の母親が火事で亡くなってしまいます。後に主人公である少年は、不思議な世界に迷い込み、そこで子どもの頃の母親、つまり「自分を産む前の母親」に出会います。冒険の末、やがて二人の目の前に、現実の世界に戻るための扉が現れます。この時、母親は、いずれ自分が目の前にいる少年を産むこと、そして、その後に火事で死んでしまうことを知っています。その上で「少年を産む」ことを選択し、「永遠に繰り返される悲劇」すなわち「運命」を受け入れ、自分が本来生きていた時代に戻る。

うる覚えの内容である上に、解釈も全然的外れかもしれませんが、そこは、特に鑑賞の自由度の高い映画であるということで、ご容赦ください。
 
この映画には、ニーチェの「永劫回帰」の思想が反映されているようにも見えます。「永劫回帰」とは、人間は全く同じ人生を、何度も何度も、永遠に繰り返し生きている、という考え方です。必然的に、人は同じ苦しみを何度も繰り返し経験することになります。それは、見方によれば「無限地獄」のようにも感じられるかもしれません。
 
しかし、にもかかわらず、そのような人生を「生きるに値する」ものとして、宮崎駿は描こうとしたのではないでしょうか。どのような苦しみが待っていようとも、その自分の人生の中に、たったひとつでも「生きていてよかった」と思える瞬間があれば、人は自分の人生を肯定できるのだ、と。
 
かけがえのない出会いは、いつやってくるか分かりません。その相手が人間である必要もありません。動物かもしれないし、小説かもしれないし、自然かもしれないし、音楽かもしれないし、それこそ人知を超越した「神秘体験」だったりするかもしれません。
 
たとえ明日死ぬのだとしても、そんな出会いは今日やってくるかもしれません。もしまだ10代だったりすれば、それが訪れることは、ほとんど確実であるようにさえ思えます。何歳であろうと、少なくともその希望が潰えることはありません。
 
「一発逆転」の可能性は、だから、絶対になくなりません。生きている限り、「生きててよかった」と思える人生のプロセスに、私たちはいます。

その希望ひとつを心に留めておくだけで、今日一日を生き延びる力が、少し湧いてくる気がするのです。

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